2018年5月9日水曜日

1299「扉開き3」2018,5,9

 古代の北斗七星信仰、妙見所縁の地、津軽の最初の目的地は弘前市十腰内猿沢にある巖鬼山(がんきさん)神社です。この神社は是まで何度も訪れていますが妙見としての視点はありませんでした。
 神社の紹介は以下のようにあります。
「岩木山神社の元宮ともいわれる巌鬼山神社と呼ばれる神社が弘前市十腰内にあります。
 当神社は、桓武天皇の御世延暦15年の草創なり、大同2年征夷大将軍坂上田村麿公奥羽平定の時、霊験を蒙り当社を再建せり、爾来岩木山上の社殿を奥宮、当神社の下居宮と称せり、堀河天皇の御世寛治5年当神社より壱百の渓谷を越えて社殿を建立せしは、今の百沢岩木山神社にして壱百の沢を越えたるを以て百沢と称せり。
 伝云、往時岩木山三所大権現(岩木山・厳鬼山・鳥海山)と称せられたりと、厳鬼山には西方寺観音院を置き寺禄百石を賜る、当社殿は慶長2年旧藩主津軽為信公改築せられるを、元禄2年、安政元年、明治28年、大正10年の修繕を経て今日に至る。」
「巖鬼山神社の由緒は古く、延暦十五年(796)、岩木山北麓に巖鬼山西方寺観音院が建立されたことに始まり、坂上田村麿の蝦夷平定祈願のため再建されたと伝えられる。
 やがて百澤寺に併合されたが、神社は元禄四年(1691)に氏子によって再建され、明治六年(1873)巖鬼山神社と改称した。
 本殿や厨子は、近年津軽地方の小仏堂が神社に変わった典型的なもので、細部の様式などもよく時代の特徴を残している。
 また、多すぎは樹齢千年以上、鷹さ四一メートルを越える巨大なもので、県内にはこれに勝るものがなく、神社の歴史を語るとともに、津軽三十三観音の巡拝者をはじめ、多くの人々の信仰を集めている。」

 境内には雪が残っています。本殿にはマイクロバスで来た団体の参拝者の方々が祝詞を上げています。私たちは手前にある池の中に鎮座する水神様、龍神社であわ歌を響かせました。








そこでのお言葉は以下です。          
「さすらい行くなよ。真っ直ぐ参られよ。
 多くの脇道必ず誘うぞ。しっかり定めて付いて参れよ。
 益々激しく、厳しきと成るぞ。覚悟は良いか。
 これからなり。今までの全て役に立たぬ。
 真の思いあるのみぞ。この2日は皆の一大事。」 12:10

 厳しき言葉でしっかり諭しているお言葉です。
「今までの全て役に立たぬ。真の思いあるのみぞ。この2日は皆の一大事。」とあるようにこの2日がまこと一大事です。昨日の唱和会の時のお言葉を更に、しっかり心して巡る覚悟を改めて巡りの最初に頂いたようです。

 次は同じ岩木山の裾野にある大石神社です。こちらも岩木山、弘前に来ると必ず参拝する所です。こちらはまだまだ雪に埋もれていてかなりの積雪です。鳥居にある赤と黒の龍神様はブルーシートで覆われていてまだ冬眠中です。



 大石神社の紹介です。
「十腰の下居宮(現厳鬼山神社)が百沢(現岩木山神社)に遷座されていますが、岩木山神社から北に約5キロの地点に大石神社と呼ばれる石がご神体の神社があります。
 大石神社の由来
 往古桓武天皇の延暦19年征夷大将軍坂上田村麿東夷勘定の時、当山の霊験を蒙りしにより、十腰内に下居宮を建立、当時当社は岩木山登拝口にして、巨石大余の者三四併立神体石にて、工人群集登山の安全を祈願せり。
 堀河天皇の寛治5年十腰内の下居宮は壱百の渓潤を越せる土地、即ち百沢に遷され跡地の社堂は岩木山三所大権現の内一社厳鬼山御西方寺観音院として、俸禄百石を検行し巨石大石明神の信仰弥高まりたり。-『平成祭データ』
 岩木山神社と巌鬼山神社と大石神社は、東経140度20分ライン上でありここは神社や古代遺跡が立ち並ぶレイラインです。」

 拝殿奥の大石の巨石は雪に埋もれていますが、大石に向かってあわ歌を響かせました。 その時のお言葉です。
「来る日へ向かう皆々様には、その身の一切無しと成り、
 如何なる事にもただただ貫き、揺るがぬ事なり。
 長きにわたりて申したり。
 心得たれば定めて進まれませ。
 移り来るこの振動、生み出だす。」 12:50


「その身の一切無しと成り、如何なる事にもただただ貫き、揺るがぬ事なり。心得たれば定めて進まれませ。」ここでも覚悟を促されています。

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