2018年5月1日火曜日

1291「三陸15」2018,5,1

勤労人民の自覚と誇りが…
 三閉伊一揆の力となった一番大きな要因は「勤労人民としての自覚と誇り」です。
 現在の旧南部領は、宮沢賢治の詩に「寒さの夏はおろおろ歩き」とうたわれているような、冷たい風「やませ」によって、絶えず冷害・凶作に悩まされてきた地域です。たびたびの飢饉におそわれ、餓死した人の肉を食べたり、子どもが産まれてもすぐに殺してしまう「間引き」という、悲しい、つらい歴史をもつ地域です。
 しかし、江戸時代の末期には、日本一の産業地帯になったのです。
 三陸の海岸の断崖の土には、豊富な砂鉄が含まれていた。そこで彼らは、たたら製鉄を行い、その鉄で大きな鍋を作り、海水を煮て塩を作った。獲った魚を塩でつけて干物にした。鉄・塩・海産物を船に積んで江戸まで運ぶ。これが非常に高い値段で売れました。
 この地域の人たちは、困難を克服して築き上げた生産者としての実力、これに大きな誇りを持ちました。一揆を組織するために全領内を歩いた切牛弥五兵衛は村々を巡るときに「百姓は天下の民」「俺たちは殿様の私有物ではない」といったそうです。その誇り、気概、そこから一揆が始まったのです。
 農民連のみなさんは、「俺たちは天下の農民だ」という気概を持たれることが大切だと思います。
 冷害・凶作で餓死者が累々と出たときには、一揆は起こっていません。生活が苦しい、貧しいからだけではたたかいに立ち上がることはできません。人々が立ち上がるのにもっとも必要な力は、人間としての誇りです。生産人民としての自覚、プライドです。それがなければ農民は立ち上がれません。百五十年前の岩手の農民はそれを強く持っていたのです。

一揆支えた自治と協同の力
 そして、もう一つ。目からうろこがとれるという言葉がありますが、私は三閉伊一揆を勉強し、一番感動したのは「自治と協同の力」です。
 弘化四年の一揆のときに、要求書を執筆して捕らえられ、下北半島の突端まで島流しになった安家村俊作という人物がいます。この人は克明な日記をつけています。その中に「家焼失見舞い覚」という記録があります。俊作の家が火事で焼けたときに、村の人がいろんな見舞い物を持ってきた。材木一本、屋根にふく柾(まさ)、茶碗や衣類、ある農民はドブロクを持ってきてくれた。俊作は、家が一軒建つほどの材木や食料を火事見舞としてもらった。村人たちとのそういう付き合い、協同生活が一揆を支えた一番の大きな要因です。それが非常に深く、温かく、強く、醸成されたときに一揆が起きるという思いがします。
 そして、この地域には念仏講、地蔵講、観音講、庚申講、芸能講、伊勢講、熊野講、金刀毘羅講、学習講など、いろいろな講がありました。
 お互いに積み立て貯金をして順番にクジ引きで伊勢参り、金刀毘羅参り、西国巡礼をした。伊勢神宮にお参りした人たちが泊まった常宿があり、そこには当時の宿帳が残っています。六万人分の名簿がありました。当時、南部領の人口は三十万だったから、五人に一人がお伊勢参りをしていた。その中に一揆の指導者たちの名前が入っています。
 三閉伊一揆の指導者たちの会議を南部領内でやったら危ないでしょう。みんなばらばらに出発して、伊勢神宮に集まってそこで作戦会議をやり、意思決定をしたのではないか。彼らは、伊勢参りの途中、江戸ではどうだ、大坂ではどうだと、各地の状況を詳しく見聞し、記録している。
 佐々木健三会長さんから「わが農民連の一番の誇りは、この集会に全国から経験を結集した資料が集まること」といわれましたが、これは非常に大事なことです。たたかうときには客観的、科学的に敵・味方の力関係を分析して、敵の弱いところを攻撃する。絶対に犠牲を出さないようにする。勝利の展望をもってたたかわなくてはならない。勝ち負けはどっちでもいいではだめですね。
 一揆衆は、緻密に科学的に情勢を分析している。そのために彼らは、常に学習をおこたりませんでした。
 

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