2018年4月17日火曜日

1277「三陸1」2018,4,17

 2018年3月31日から4月1日にかけて木内鶴彦さんと陸奥陸中探訪の旅1を行ないました。これまで陸奥陸中方面に木内さんは行かれたことが無いという事で岩手県北の内陸部から陸中海岸の北を巡る旅です。今回も10人乗りのハイエースのレンタカーです。

 31日7時に仙台駅を出発して一路、陸奥路、東北自動車道を北上します。途中、9時過ぎ頃に滝沢SAでKさんをピックアップして全員揃いました。
 最初の目的地は一戸町の御所野遺跡です。高速道路を一戸インターチェンジで下りて程なく到着です。以下が御所野遺跡の紹介です。

 御所野遺跡
「岩手県北部の馬淵(まべち)川東岸、標高190m~200mの河岸段丘に立地する縄文時代中期後半(紀元前2,500年~紀元前2,000年頃)の大規模集落遺跡です。
 中央の広場に配石遺構を伴う墓地が造られ、それを囲んで竪穴建物跡、掘立柱建物跡、祭祀に伴う盛土遺構などが分布し、さらにその外側の東、西にも竪穴建物跡が密集するという集落構造が明らかになっています。
 御所野遺跡は、当時の人々が長期間にわたって安定した定住生活を示す具体的な物証であり、周辺の自然環境と共存しながら一体となった計画的土地利用を段階的に跡付けることができる顕著な事例です。
 盛土遺構からは、土器や石器とともに、焼かれた獣骨や植物種子、さらに祭祀遺物と考えられる土製品などが集中的に出土していることから、火を使用した「送り」などの祭祀が行われていたと推定されます。
 削平地に構築された土坑墓はいくつかのグループをなし、それぞれ土坑墓の周囲には径2~3m程度の配石が構築されています。配石は、全体が径30~40mの環状の配列となり、東西2か所に形成されています。配石の外側には掘立柱建物が同じく環状に配置され、配石周辺の柱列や単独柱などとともに独特の祭祀空間を形成しています。
 竪穴建物跡は、大型建物跡を中心に3~5棟の中・小型建物跡の配置を基本単位とする構成が確認されていることから、大家族の分住を示すのではないかという研究も出されています。それらの中には、焼失後に廃棄されているものもあり、その状況を調査した結果、これらの竪穴建物跡は土で覆う屋根構造だったことが明らかとなりました。」

 世界遺産に登録しようと北海道、東北北部の各地の遺跡はその整備に努めてきていますが、この御所野遺跡もその候補地です。御所野遺跡は私のお気に入りの所で、是までも何度も訪れています。
 駐車場から入り口に入るとそこは回廊です。「きききのつりはし」と言う、谷にかかった木造の橋をドーム状の屋根で被い、透明なプラスチック窓で外の景色を楽しめます。この橋の下の谷はかつての水場で、現在は水場遺構になって保存されています。橋を渡っていると、将に別次元に誘う誘導路の感じがして、歩きながらワクワク感が増してきます。


  橋を出ると直ぐに博物館がありその先に遺跡が広がります。雪が融けて春を迎えた遺跡は綺麗に整備されていて住居跡が点在しています。奥の方では木を燃やしているようで煙が出ています。太陽の光、輝きを浴び、のんびり歩いて美味しい空気を満喫していると、女性の係員の方が走ってきました。奥の火を焚いている周りに、伐採した漆の木を積み上げているので絶対に触れない様に、とのことです。好奇心旺盛なGさんは見てくると一人走って行きました。私たちは縄文の風を楽しみました。







 最後に博物館を見学しました。何度も来ているのですが博物館入館は始めてでした。中は見所満載で映像で縄文ワールドを見て各種展示品も興味深いものです。遮光器土偶、更に驚きの愛称「縄文ぼいん」とついた巨大な乳房の土偶があります。以下の様にあります。
「椛ノ木遺跡の土偶は、グラマラスなことはもちろんですが、縄文時代をたくましく生きたお母さんの形、正中線の表現はまさに、『母親の印』。その母の印と書いての『縄文ぼいん(母印)』とさせていただきました」







 また、興味深い土偶で「鼻曲がり土面」は国の重要文化財に指定されていて私は初めてみました。以下が紹介文です。
「蒔前遺跡から出土した土製の仮面で、顔全体がゆがんでいます。顔の両端には紐通しの穴が空いていますが、右側は貫通していません。祭祀に用いられていたものと考えられています。このような土面は岩手県北部から青森県東南部で5例見つかっています。」
 売店でもお買い物を楽しめて皆さん喜んでゆっくり過ごせました。