2018年3月31日土曜日

1260「ミラクル1」2018,3,31

 今日は3月31日年度末で、2017年度最後の日の土曜日です。明日、日曜日から2018年度が始まります。終わりの始まりです。
 2011年3月11日に311東日本大震災がおきました。今年も当日は各地で行事が行われていたようですが、私は東京でのトータルヘルスデザイン社主催の美と健康セミナーに参加していました。講師ははせくらみゆきさんです。
 2010年頃にトータルヘルスデザインの近藤洋一社主の紹介ではせくらみゆきさんとご縁を頂きました。そして2011年7月に仙台で講演会を予定していましたら、311の大震災に見舞われました。講演会は予定通り開催して頂きましたが大変化を見越していたかのような設定で多くのメッセージを頂き、今も毎年仙台に御越し頂いています。ありがたいご縁です。
 今回は「疑いから確信へ、実行に移すときは今~ミラクル次元にタイムジャンプ」と題してお話下さいました。お話の内容を簡単に紹介します。

「今回の講演会では、皆さん自らが選び、何らかの変化、変容を落とし込んで行くツールとしてワークシートを用意しました。それが自分自身へのレシピになるように設定しています。そして2時間後の自分は何て素敵!世界の中心!と思って帰れる会にしたいと思っています。
 今日、3月11日は2011年の311東日本大震災の日です。この日は日本人なら忘れることは出来ない大切な日です。今日、参加している皆さんと共に、何倍もの存在がこの会場に来てくれています。思いの次元では全ては繋がっていますが、私たちはここでは肉体をもってやって来ています。それと同時に精妙な明るい光、エネルギー体の御魂が沢山来ているのです。そしてここでの気づき、喜び、共感が光妙な世界へ誘ってくれます。
 ここで30秒の黙祷をしたいと思います。

 定めを請け負った中で、今生きている私たちは、更なる光を受けて体現して行きます。心を通わしてくれて、思ってくれる事が嬉しいのです。愛の反対は嫌いではなく、無関心です。嫌いでも認めてもらっている方が嬉しいことです。
 歴史が積みあげてきた思いを重ね合わせ、私たちの思いが共鳴し、宇宙に放たれていく感じを大事にしていって欲しいと思います。
 今日は具体的に5のタイムジャンプを促すコツをお伝えします。どうしたら良いのか、そのヒントをお伝えし、ワークをします。

 今年のキーワードは昨年出版した「奇跡を呼び込む手帳」に書いていますが「生成発展」です。宇宙における法則性とは、全ては調和の方向に生成発展していることで、要らない物はなくなり整理され進んで行きます。それが天の意思で、それが天意=あいであり、天意は愛です。ですから宇宙の法則性は天意で、天意に生まれ、そこに帰って行きます。
 キーワードの「生成発展」が今年を貫くものです。そして3月のテーマは「実行」です。今年の春分が明けてからこの流れですから、有言実行して行って欲しいと思います。

 進化の波に乗る為に、今の波は大きく変化している最中で、地球のバイブレーションが上がって来ています。地球のコアの所で、地球という惑星が出来ていますが、そこには鉱物が集まって出来ていきます。鉱物の集合体の構成で、性格があり、振動体があります。この地球は珪素、水晶が主です。受信、発信し易く、正確です。
 外は水で、内側に珪素を含むので受発信が良い星です。どこで受発信するか、それは水で、この星は水の星です。私たちの身体も水でしています。思っていることを、言葉として語った瞬間に3次元になります。それが身体で動くと全情報が瞬時に体液を通して廻っているのです。だから日々に語る言葉が大事なのです。

2018年3月30日金曜日

1259「浄音20」2018,3,30

 1曲目の曲は「ひふみ」です。
 縄文時代の東北には大きな文明がありました。そこは大きな文化圏でした。日本文明といえるものがあり、大事なエリアでした。しかしそのことは全て歴史の中で、時の権力者側に消されて行った、ということに過ぎないのです。しかしこれからそのことがクローズアップされてくるでしょう。
 東北各地で霊存在から話しを聞かされてきています。そして自分がすべきことをしてきています。シャーマニックライブではいろんな霊存在が現われて、異次元の存在とセッションをして、それを響きに変えています。それは一期一会です。歌巫女、舞い巫女が芸能の始まりだったのですが、時代と共に変わって来ています。
 青森には縄文遺跡が沢山あります。

 3曲目は「縄文の月」です
 仙台の人はあまり雪かきをしないと思いますが、青森ではやらねばならぬ、の肉体労働です。老いたらそれをしない所に住んだ方が良いです。

 4曲目「雪国」
 アイヌという言葉は、「善良なる民」という意味です。大和朝廷に逆らうのは蝦夷と言われました。今年、正月に田舎に帰り、先祖達と会話をしました。私は昔は先祖を拝みませんでした。その時、先祖が出てきて苦笑いしていました。出て来たのは曾おじいちゃんです。曾おじいちゃんは「すいません」と言って出て来ました。そしてその前のおじいちゃんも出て来ました。そこでは一族の因縁因果を学ばせてもらいました。
 東北は歴史の中で虐げられてきたところがあります。北海道アイヌと又違うものです。供養のつもりで作った曲で、アイヌの風のものです。

 5曲目「アイヌの風」
 アイヌはカムイ信仰です。カムイに漢字をあてがわれて神様になりました。ネイティブですが侵略の歴史で、そのことは教えられていません。日本人のアイデンティーはそこからしっかり整理して行く必要があります。

 皆さんの過去生が何処か分からないですが、今生に何故日本かです。私は何故青森か。そして何故シャーマンやっているのか。その因縁を解消しなさいということなのか。
 私は最近は縄文と弥生の因縁解消をさせられていますが、昨年の天命塾のツアーで巡った最後の宮沢遺跡では、沢山の子供の御魂が出て来ました。それは皆に認められたことで、喜びの歓迎だったのです。やっと認められた、と嬉しく思いました。
 そこでは中央の者にめちゃめちゃにされた恨みがあります。そこに対しては誠意を見せ続けるしかないのです。そして今朝も仙台の霊団が現われて、認めようと言ってくれました。

 岩木山の麓にはアソベ族が住んでいて、その後にツボケ族が入って来て、仲たがいしていました。昔、津軽の十三港では中国と交易をしていました。ツボケと言うと、津軽では馬鹿という差別用語です。そこに中央から逃れて来たものと1つになりアラハバキとなっていきました。そこでは皆、自然崇拝は同じでした。そのアソベとツボケを仲直りさせる為に作った曲「アソベ、ツボケ」を歌います
 唄のメッセージが分からない言語だと受け取り方が違いますが、その意味は私には届いています。

「みちのくの魂」と言う曲をしますが、インストでチャネリングの曲です。
 昨日「シャーマンとして生きる」の講演会で32歳までお話ししました。そこで八甲田山のことが出ましたが、次の曲はその八甲田山の四季をイメージして作った曲「八甲田山」です。

 いよいよ最後の曲です。私はアメリカで前世にネイティブインディアンをしていたことがあります。アメリカから来てくれる存在のチャネリングをしてみたいとおもいます。僕はその意味が分かるので面白いですが、皆さんには分からないもので、それは私の特権です。私は練習している時も面白いし、同じことが2度と無いのです。それが良いと思います。果たしてどんな人が出てくれるのか、最後の曲「火の舞い」です。」











 時間はあっと言う間です。全て終わり盛大な拍手です。


今回はとても良かったなと思える3日間の神人さんでした。そしてとても深化し、進化していて次回、6月のライブ、陸奥・縄文ツアーが楽しみな神人さんでした。

2018年3月29日木曜日

1258「浄音19」2018,3,29

・K、Yさん
「苦しむ事の中に必要だからという、与えられてあるものがある。
 ここから先、全てに当てはまること。
 苦しいと思った時、必要だと思うこと。
 何がどう必要か考える。すると苦しいがありがたいと思える。
 この様に考えることに慣れると苦しいという感情を手放す様になり、
 全てがありがたいと思う様に変わる。
 その時、大きく成長したあなたになる。それに見合う存在が大切に思う。
 それぞれに見合った出逢いが与えられる。」

・O、Yさん
「生きることの中に無駄は無い。
 自分の中でも、過去を見ても全て必要として繋がっている。
 はっきり認めること、人生を肯定すること。
 何も無いのではなく多くを学び、出会いを体験してある。
 卑下する癖は手放す。
 これから多くの人と出逢い、体験し変わる。
 この生を終える時、沢山の人に会い、経験し、良い人生と次へ行ける。」

・K、Tさん
「助けたい思いに、助けて貰いたい思いもある。
 誰に何を助けて貰いたいか。どんな人を助けてあげたいか。
 人と人は互いに必要として存在し、成り立っている。
 何処まで行っても同じ様に繋がる。何をしてもらいたいと思い、
 その人に何をして上げられると思えるか。
 1つ1つが課題。それが喜びに変られたら良い人生と思って良い。
 この人生を変える前に自分の課題を考える。
 それが出来るとこの世は良き世界に見える。」

・S、Hさん
「許すことを自分で決める。他人を許す。1つ1つ理解し許す。
 これが出来たら自分が好きになる。勇気が必要、理解力が必要。
 進化とは成長すること。」

 休憩を挟んで第3部のシャーマニックライブです。冒頭はお伝えに付いてのお話があり、ライブが始まりました。

「お伝えの言葉に納得が出来るかですが、それは各自の性格のままに出ています。
 一昨日の唄語りライブではCDのファーストからサードの中の曲で、しっとりした歌を唄いましたが、今日はそれらとかぶらない様に、シャーマニックライブをします。

 天命塾で今年の6月と8月に陸奥・縄文ツアーを行います。楽しみなツアーです。かつて青森と沖縄は一緒と言われたことがありました。どちらも魅力的な所ですが、あるミュージッシャンに言われたのですが、青森に生まれ育った私には、最初はそう思えませんでした。しかし今はそう思います。
 今年、私は神人の名前でなく、青森けんじん(健仁)ライブをしています。そこでは南部弁、津軽弁で青森県の所縁の歌をカバーしています。ライブでは地酒をふるまい、八戸せんべい汁を作り、ねぶたのお囃子が流れているのです。その地から離れていると魅力的で、皆さんに受けています。近すぎるとその良さが分からないところがあります。
 私は青森の言葉を暫く使っていませんでした。18歳で上京し東京に12年、和歌山、大阪にそれぞれ1年半、京都に17年住んでいます。好きな所に住むと当たり前になり、だんだんにそこの魅力が見えなくなり、普通になります。ですから京都の人はあまりお寺の観光に行きません。私も年齢と共に変わり、青森は良いなと思います。ギター三味線をして、東北、陸奥で括って表現していきます。


2018年3月28日水曜日

1257「浄音18」2018,3,28

・K、Iさん
「忘れかけた事が蘇る時、今必要なものを考えてみる。
 今の貴方に必要だから古い記憶が少しずつ出てくる。
 その中で何を思い、言葉を口にするかが大事だ。
 これまでの一切を浄化する過程にあるもの。」

・T、Sさん
「笑うことを選ぶ。笑う為に何を見、聞き、選べば笑えるか。
 私を笑わせることが課題だ。
 自分が笑うことを選び生きると、関わる人をどう笑わせるかが次の課題だ。
 それがより良きものを生み出していく。」

・O、Nさん
「沢山ある課題の中であなたがどの様に何を伝えて行くか、順序立てる必要がある。
 全てを抱えると苦しみになる。
 見合う、向いているものがあるので厳選し順序立てること。
 あれもこれもを止めないと何処まで行っても切羽詰まる。
 誰かに委ねること。誰かに委ねられるそんな存在が居るかと思う。
 それが現われると思うこと。
 そう自分が思うことが全ての始まり。」

・O、Hさん
「生きる為に必要な事を整理整頓し、この世の喜びを纏める。
 自分の言葉で伝える。指導者として意識し若き人達、集まる友に何をどのように伝えるか。この世で喜び生きる力、強さを伝授して行く事が課題。」

・G、Mさん
「昔と今は違う。今考えなければならない事、今の自分にしか出来ない事、を喜ぶ事。
 過去に出来て、今出来ないと憂えず、今出来ることを見つめ、理解し、喜ぶこと。
 そこにエネルギーを注ぐ。憂いを手放す。」

・H、Yさん
「忘れかけていた感情、若き頃の思い、若き頃の私、1つ1つ又戻って来る。
 人生が大きく動いていく。愛する気持が又蘇り、愛されたいと思う。
 その望みに又委ねられる時が来る。自分自身がそこから出ないといけない。
 その意識から離れて行く事が求められる。その意識のままでは変われない。
 本当のあなた、幼きあなたに戻れば良い。」

・A、Fさん
「辞めたいな、と思う内は辞められない。
 自分の未来に強く望み、こうなり、こう変わる。
 必ず変える、とより具体的に細かく考えること。結果、変わって行く。
 誰かに背を押してもらいたい気持は分かるが、誰かのせいにするのは達成感が無い。
 自分を認められない。心から自分自身に言い聞かせ、その為に動き変わると強く言う事。
 その光景を楽しみにしている。皆で手を貸す。」




2018年3月27日火曜日

1256「浄音17」2018,3,27

 いよいよお伝えの始まりです。神人さんが皆さんの前に行き、希望の方は手を上げて合図をします。その方の前で神人さんは右手を振り、お伝えを話しだします。全員が希望して頂きました。私にご縁のある方にお伝えの言葉を紹介します。

・S、Sさん
「沢山の方々に出来ることを厳選する。
 何をどうするか。何を伝え残し、誰に託すか、自分が決める。
 限られた時間で確実な仕事をする。急がないといけない時期に来ている。」

・Y、Iさん
「時間に限りがある。使い方を整理整頓し、向かうべき道、世界へ自分をどう動かし、働きかけるかを大切にする。
 どこの何を求めるか、不安も分かるが、何を選んだとしてもそれは学びだ。
 どれを選ぶかは自分が納得できれば良い。」

・S、Eさん
「ゆっくり進む。ゆっくり進むために喜びと捉える必要がある。
 焦り、他を意識するあまり、焦り苦しみ不安を掻き立てる癖として現われる。
 ゆっくり進むと回りが気にならず、優しく接せられる。焦らない人に、ゆっくりで良いと言う理解が必要。」

・S、Rさん
「小さなことにも理由がある。影響はどこかに繋がる。
 出来事、人との繋がり。人の中に現われる興味を拾っていくと、程良く進む道標。
 そう思い込み、笑うことを大切にする。私達が関与している。」

・S、Uさん
「付き合わなければ成らない人、関わらざるおえない状態に、因果として学ぶ必要があるが、いずれ別れが来る。
 事情の違いがあっても別れが来る。
 限られた人間関係の中で、自分とその人との関係性は意味深い。
 感情と関係なく必要な関係だ。
 この生だけでは分からない幾つもの生を経て現われている。
 1人1人にどう向き合うのか、と思い付き合う。好き嫌いの見方でなくなって行く。」

・E、Sさん
「与えられてあるものを活かしなさい。既に与えてある。
 それをどう活かすかで変化が変わる。組み合わせで面白い反応が起きる。」

・K、Rさん
「笑われることは、恥ずかしいことではない。恥ずかしいと思うことが恥ずかしい。
 完璧な人間になりたいと思っているが出来ない。
 無限に学ぶ様に人は存在している。
 己で己を責めず、他も責めること無く、自ら世を憂う事無く、全ては未完成のまま続く。
 昨日より今日が喜びになれたら成長。人類はその成長の過程を見ていく。
 焦らず自分を愛おしく思うこと。」


2018年3月26日月曜日

1255「浄音16」2018,3,26

 神人さんの3日目の3月4日はシャーマニックライブでした。13時半から以下の構成で4時間になります。

 1部:ヒーリングLIVE(60分)
~響銅(おりん)演奏による浄靈浄化の音魂の世界~
2部:チャネリングLIVE(60分)
~指導靈からの個別チャネリングメッセージ~
3部:弾き語りLIVE(90分)
~祈り唄と祭り唄・シャーマニックライブ~

 第1部のヒーリングの浄音ライブはライトを落としてひたすら神人さんの奏でる響銅の浄霊浄化の音魂に身を委ねます。音の振動波に身奇麗になり、軽やかな気分になれます。
 今回リリースされたCDの浄音(きよね)Ⅳ、Ⅴの2つは夫婦CDとのことです。2つのCDを同時に再生することで最高の浄化効果を期待出来るとのことです。私も最近は毎日、2枚のCDを同時に再生して音の響きに浸っています。心身とも、とても良い感じです。

 第2部のお伝えライブの始まりです。冒頭のお話しを先ず紹介します。
「今回発売したCDの浄音4,5は同時に流して欲しいです。夫婦CDで、両方で清めるのが今のマックスです。波の音は宮古島で録音してきました。自然エネルギーが一番強く、バックで音を変化させています。
 浄音の最初のきっかけは、霊媒としてのお客さんが多くなり、それを浄めていると1日終わってしまうようになりました。指導霊にCDでそれを出来ると言われて作りました。
 お陰で私は楽に成ったのですが、より多くの存在がやって来るので、京都の私の所では1日中浄めています。京都中を浄めようと思っています。今は過去の浄化は終わりました。17年かけて大分浄められ綺麗になりました。京都には沢山の観光客が集まってくるのでそれらを浄めようと思っています。

 チャネリング行為には色んな形があります。青森のイタコもいます。それは霊存在を自分の身体の中に引き入れ、車の運転席に引き入れる交霊術です。助手席には自分がいるのですが、霊には良いものも悪いものもいて、変なものを入れると大変なことになります。ですから後部座席にいて援護してくれる存在がいないと危ないです。
 昔、私は霊伝を5年間やりました。その後、お伝えに変えて、霊を直接入れない形に変えました。ですから今は、霊存在を自分に入れることなく、相手に出る指導霊の言葉を伝えるようにしています。
 異次元のラジオ番組にアクセスして受信して、その放送を伝えていくのです。指導霊が中へ入らず、自分の意識はあるが、完全にスピーディーに繋いで次に変換出来るのです。ですからお伝えの言葉は皆さん各自の指導霊です。身内の霊は感情的になるので繋がないようにしています。各自の指導霊と1人1分以内で繋ぎます。
 お示しでは1人15分でもしますが、しっかり監視して好き勝手にさせません。又は神人の指導霊団も繋ぐこともあります。


 お伝えでは厳しいことを言います。しかしそこには一切神人の感情は入れず、信頼関係で各自の指導霊だけに繋ぎます。しっかり審神(さにわ)役を自分でしてやります。一般的にとり違い、思い込みがあるので審神は大事です。しかし世の中はそれに振り回されているのがほとんどです。お伝えの意味が今、分からなくても、やがて分かる様になります。その中にはこれから生きる上で必要なことが集約されています。
 肉体は使わせて頂いているもので全体はエネルギー体です。異次元の存在で思考体、感情体、エネルギー体で色んな霊体も関与しています。ひらめき、直観の出所は異次元のことが多いです。未来の己が関与して己に話しかけてくることもあります。
 リラックスして受けてください。疑念があるとやりにくいです。すでに1部で浄化しているので良いですが、そうでないとやりにくく、しんどいです。他の人の言葉も参考になりますので、それらも心に響くと思うので良く聞いて下さい。




2018年3月25日日曜日

1254「浄音15」2018,3,25

 西日本の神社の旅をして、沖縄で1ヶ月ほど住んでいました。無料のキャンプ場に滞在していましたが、モルブジ帰りのウミンチと仲良くなりました。彼は夜中に密漁してきて、私のテントの前に魚を持って来てくれるのです。そこでは毎日、魚をさばいていました。
 そこは旅を始める人か、終わる人のたまり場でした。皆に聖地と崇められていた島だったのです。そこでは毎日、大宴会をしていました。沖縄が好きならと来ませんか、と彼女を呼んだら来てくれたのです。そして彼女と付き合うことになったのです。彼女が帰り、その後、沖縄から毎日絵葉書を送りました。そして曲を作って送りました。

 彼女は大きい病院の看護士で、次に士長になる予定でした。自分の霊媒体質がばれたら結婚は終わる。期間限定の恋愛を楽しもうと思っていました。そして現実問題で貯金ゼロになったのです。
 大阪に住む31歳です。問題はここから始まります。中華料理、韓国料理の店しか勤め先はありませんでした。また、魚をさばきだしました。沖縄で魚をさばいても魚の声は聞こえないのでハイテンションで治ったと思っていました。しかし大阪で又ネガティブな声が聞こえ始めたのです。ベランダから一線を越えようと思ったのですが、ガラガラと身体が崩れていました。そこで気が付いたので、又やろうと思ったのですが、昼夜逆転して働けなくなって行きました。

 淀川で歌を歌っていたのですが、おかしくなってきて自殺の事を考え始めていました。こんな状態では結婚出来ないだろう。自然消滅させて行こうと思っていました。2ヶ月位、彼女と会わないでいました。フェイドアウトして交通事故に見せて死ぬ。それだと保険金を父親に渡せる。自殺でないので保険金は貰える。そう思って、こけかたの練習を始めていました。
 そんな時に飛び出した人を引いた交通事故のテレビニュースを見ました。轢いた人にとてつもない苦痛を与えることを知りました。その事を考えていなかったのです。もう最悪です。死に方が無くなったので、生きるしかない。家賃をどうしよう。眠れない、働けない。そんな状態の時、淀川の川原でギターを弾いて、ボーとしていたのです。
 すると小学校6年生くらいの子供5,6人に囲まれていました。かつ上げされるかと思って身構えました。すると子供が「おっちゃん今日は歌わないのか?なぜや、おっちゃん歌えや。おっちゃん歌上手いやん。」
 私は「歌われへん、あっち行け。」と応えました。「おっちゃん、いろいろあると思うけど頑張って生きや。」と言われたのです。「又、次に会ったら歌ってや」と言って皆は離れて行ったのですが、自転車の最後の子が私の歌のサビを歌っていました。

 虚しくなって来ました。あんな子供に頑張って生きや、と言われ、自分は何をやっているのか。「本当に変わりたい。」と言うと、指導霊に「変わりたいか」と言われました。
「良いことを教えてやる。先ず菜食、次にボランティア、次に伝えること。良いか健仁(たけひと)よ、これから沢山の人に愛されるぞ。」そして未来の映像を見せられ、私は沢山の人に囲まれて拍手されているのです。そして「おまえは狂っていない。」と。

 コンビニでボランティアを梅田で募集している記事を見ました。次の日にそこへ行き、エレベーターの下で待っていたら案内してもらいました。その会場には200人位いました。何が始まるのか。そこは世界の環境、飢餓問題へのそれぞれの活動報告の会でした。
私は言うだけなら誰でも出来る。つまらなかったと思いながら、最後に手を上げていました。「若い世代は私に任せて下さい。私が変えて見せますよ。」と言っていました。全員が私の方を見て笑顔で拍手してくれている。言うだけなら私も出来ると思ったのです。
 終わって皆が私の所に集まってきました。「頑張ろうと。」皆はやっている人達だったのです。その日は家に帰って自分で自分をぼこぼこに殴っていました。本当に変わりたい。自分は糞野郎と思いました。これで終わりにしたくない。環境問題をやってみようと思いました。それから図書館に通って勉強を始めたのです。

 NGOに通ったら、そこの代表者はベジタリアンをしていました。何故肉を食べないか聞いたら、飢餓問題でした。食べものの穀物をどう消費するか。動物の肥料として使われて高騰していく。価格が釣上がられているのが問題だ。それに対抗する為に肉を食べなくなる。
 私の意識が変わったら良いことしか言わない指導霊に変わり、そういう霊団に変わっていました。環境問題、ロハス、食が替わり霊体、霊性が数年で変わりました。
 世の中にこの事を広めたい。改善して行きたい。募金するライブをしようと始まっていくのです。MCを環境、飢餓問題にしよう。そして欲しい時に、曲を頂けるようになり、彼女とも良い関係に成っていったのです。

 講演会は終わりました。驚きの「霊意識の覚醒」の歴史です。結局1日では話し終えることが出来ず、続きは来年になります。

懇親会でも楽しい話題で盛り上がりました。

2018年3月24日土曜日

1253「浄音14」2018,3,24

 その後、明治神宮は荒れてしまい、魔が入ってしまいました。カラスが多く、参拝者の質が悪くなり、神宮関係者の間にいざこざが起きました。天皇の御霊が居なくなって魔が入ったのです。
 自分の想像を越えた現実だと思い始め、そして自分が加害者意識を持ち始めていました。今度、東京へ行ったら参拝してみようと思いました。カラスが沢山で良い気を感じませんでした。エネルギーが悪くなっていて早々に出て行きました。
 何かのきっかけでようやく明治神宮が良くなったと聞きました。その後に行ったら気が変っていました。参拝したら右から霊がいっぱい出てきて頭を下げています。「この度お越し下さりありがとうございます。明治天皇から伺っていました。天皇が出た後、我々が入ることになりました。」と言われた。それから良くなっているようです。祭神が居なくなると悪いものが入り、気が悪くなるのです。

 神社とは何か。西日本、日本中の神社に行かされました。30歳で、各地の神社への挨拶周りは終わっていると指導霊に言われました。色んな物をくれていました。何かといっぱい貰い始め、霊能力が研ぎ澄まされていました。
 和歌山へ行ってから、時が来たら今生で霊的に覚醒し、過去生のものを取り戻すと、言われていました。過去生で何をしていたのか分かる様になって、やっと私が始まりました。
 どこから私でどこから私でないか。スライドして行く、これから30歳代で重要なポイントです。和歌山時代にいっぱいあります。事故もあり、へとへとで死にたくなりました。冗談半分で、和歌山には三段壁の自殺の名所があり、そこで寝落ちをするのです。
 岩の上で半分寝て半分起きている。すると人が海の方から歩いて来て、海の神の使いで来たと言います。そして「あなたはもうじき過去生の妻君にお会いします。」と言われました。その時パット目が覚め、この場所に気づいて怖いとそこから出ていきました。
 霊媒の女性がいましたが、その人が優しい顔になった瞬間、わたしがボロボロ泣いてその女の人に抱きつき、「会いたいよ」と泣きながら抱きついていました。すると彼女に「大丈夫、もう直ぐ会えるから。」と頭をなでられていました。

 もう少しすると普通に戻れる。今、何が起きているのか分からない。これはヤバイ。自分を統括出来ない伏線となる。自転車の事故になり、顔面が治るまで引き篭もっていました。手術で骨折のボルトを抜かないと駄目だが、ドクターに恵まれて助けてもらいました。とても良い人でした。
 仕事を退職し、健康の大切さへの意識を強く思いました。そんな自分の身体にご褒美を与えよう。これまでは己の判断の誤りだったので、天国の様な島へ行って身体をゆっくり休めてやろう、と思いました。
 JTBの若い男の人に行き先を任せました。彼が薦めてくれたのはタイのサムイ島でした。誰も知らない人のところで身体を休めたい。飛行機の往復チケットだけ取ってもらい、後は自分でしました。始めての海外旅行でしたが、全部現地で自分一人でやりました。

 島には日本人は居ないし、言葉が通じません。だんだん日本語を話したくなってきました。日本人がいたのでその女性に話しかけたら嫌がられました。私は見かけは度派手で茶髪にしていたのです。そして毎日、船着場へ行って、船で着く人の中で日本人探しをしていました。そこに来た彼女が今の妻でした。しかし彼女には私は日本語の上手なタイ人と思われていました。
 彼女達は2人で島にダイビングに来ていました。世界の海に行っている人達でした。彼女達をナンパ状態で夕食に誘いました。食事の後に私が会計をしたら、えっと驚いていました。そして又会おうと言って分かれました。
 彼女達は大阪の人で、日本で会おうと言って分かれたのです。そして1週間後に電話をして大阪で会ったのですが、彼女になぜ日本に来たのか?と尋ねられました。日本人だと言ったのですが、私はタイ人とその時まで思われていたのです。


2018年3月23日金曜日

1252「浄音13」2018,3,23

 18歳の時に付き合っていた女の子とディズニーランドへ行きました。人気の無い所で、池のベンチでキスをしようと思っていました。そうすると目の前に黒いものが浮かんだのです。まわりには電灯が付いて回転しだして飛んで消えました。
 その後、小さい光が3つ位出て消えました。それを見た2人とも池の前で固まっていました。汽船と思っていたものが消えたので怖くてパレードの方へ移動しました。それがUFOとの出会いでした。
 それ以降、東京で頻繁にUFOに合いだしました。首が動かされ、そこにUFOが居る、そんな感じです。そこには何かがある。しかしそれは考えない。

 別の彼女とサンシャイン60の展望台へ登った時、目の前に小さい光が見えました。それが明るく大きくなりました。そして光の色が何色にも変わったのです。何かのイベントかと思いましたが、やがてパーンとはじけ分裂して、そこに小さい光が止まったのです。
どういうことと思ったのですが意味が分かりません。止まったものが寄ってきて合体しました。小さくなり大きくなるという始めてのタイプです。回りの人も気づいてパニック状態になりました。
 大きくなって消えて見せる。ゆっくり消えて見せる。最後は空間の中へ入って消えて行く。そんなデモンストレーションしていました。東京中に出て何か厭だなと思いました。私はだんだん冷めてきて、それらが東西南北に出て俺は監視されているのかと思いだしました。次の日の夜のニュース、報道番組にお笑い系で出ていました。

 原宿、代々木に明治神宮があります。練習で代々木公園へ行っていたので帰りに明治神宮に寄りました。そこで「君は僕が分かるか」と言われたのです。そして「私はここに祀られている者だ。」と言うのです。半信半疑で話をしていると、不審に思った警備員がこちらにきて出て行けと言われました。私は独り言を言って、独りで笑っていたのでイメージが悪くなってしまいました。
 東京を離れて和歌山で巫女さんに会いましたが、彼女は明治神宮の巫女をしていたのです。彼女に明治天皇と話したかと聞かれましたが、私は一緒に話して、巫女舞いをしていました。派手で鳥居をくぐるとピーヒャラと賑やかな音が聞こえる様になりました。
 巫女さんと初めてそのような事を話し、相手から話された初めての人でした。明治天皇は呼ぶと出てくると言いますが、私は異次元との交流にまだ慣れていなかったのです。

 霊能者グループでいろんな所へ行ってする様になりました。北海道へ行きました。UFOが現われ力を頂けるという事で、根室の外れの小さな神社へ行きました。帰りは札幌まで車を運転しました。一緒のメンバーの1人は霊媒で狂っています。
 私が運転しましたが、ピーチャラと聞こえていました。上から来てボリュームが大きくなるのです。お陰で眠気が起きなかったのですが、どうやら明治天皇のようでした。
 朝日を浴びて休憩をしたらそこは神社でした。なんとそこは明治天皇が祀られている神社でした。神社に入って正座した瞬間に、私は後ろに吹き飛ばされました。「よく来てくれたね」と喜ばれたようで、霊的エネルギーで飛ばされました。

 霊的に覚醒している30歳になり、24時間、見える聞こえる霊的指導が始まりました。そして明治天皇との対話がリアルになりました。
 神社に祀られるには人霊です。本来、神とは自然です。天皇も権力者も霊人です。そして霊界指導を受けました。明治天皇も私も「そろそろ変わろうかな、何時までもこんなことやっていては私に合わない。」と言いました。「何時の世か、共に人と人として会えたらよいね。」と言って離れて行きました。


2018年3月22日木曜日

1251「浄音12」2018,3,22

 格闘技をしていた時に、スパークリングしていて先輩から脚払いを受けて転び、打撲してヘルニアになりました。歩いたら痛み、身体が硬直して固まってしまい動けません。救急車で搬送されました。大病院でしたがそこのドクターはろくでもない先生で、打撲で腰が痛いと言っているのに尿管結石と誤診されたのです。そして泌尿器科に回されたのですが結石は見つからないのです、当然です。結局1週間経ってから整形外科へ回されました。それから大学病院が大嫌いになりました。
 また、重度のインフルエンザで病院に行き、受付で倒れたことがありました。車椅子に載せられて緊急にと処置室に運ばれ、看護婦さんに申し渡しされました。しかし私が気づいたら隣の人に起こされていました。その人が看護婦さんに言ったら、慌てて対応したのです。私は緊急なのに2時間放置されていたのです。受け継いだ看護婦が忘れていたのです。最悪です。これで看護婦像が崩れていってしまいました。

 話を元に戻して、整形へ行きました。そこのドクターも有名な人で、手術をしないでヘルニアを治す名医でした。MRIを撮ったその後に、重大な話があると言われました。先生が言うには、「ヘルニアは大丈夫です。しかし問題は骨の中に何かがあるのです。実は金属片の様な正四角形の物が腰骨の真ん中に入っていたのです。何か心辺りがありますか。」と尋ねられましたが、私にはまったくありません。
「この金属片を外部から挿入したとすれば切り口があるはずですが、それらしき切り口を探しても無いのです。」そして「この写真を私に下さい。珍しい症例で研究したい。ヘルニアは良くなるので大丈夫です。」と先生が言いました。24歳の頃のことです。確かに筋トレでヘルニアは治りました。
 疑問がありました。あの金属片を見ると、小学校の星空が浮かんでくるのです。そこで天の川が動き出した映像が浮かぶのです。あの時、私が意識を失っていた時に、私はさらわれたかもしれない。えっ~?現代医学が分からない。どう解釈するか。考えても分からない。これも考えないで、ほったらかしにする、ことにしました。

 引越ししたアパートでは銭湯に通い、近くの富士見湯に毎日通っていました。下町で人情に触れて、なかなか良いなと思っていました。東京で幸せ感を感じだしていました。
 やがてそこの銭湯のおじさんとおばさんと仲良くなり、彼らの持つ河口湖の別荘へ一緒に行くようになりました。その別荘へは1人で行かせてもらえることもありました。
 1人で行った時、寝ていると、閑散期なのに誰かの話し声が聞こえてくるのです。外か、家の中か、近くまでその声が来ています。すると「わっ!生きている。」と言って出て行ったのです。ヤバイ、富士山はヤバイ。自殺者の霊です。霊もこちらも怖いと学ぶと、威嚇すると逃げていくのです。

 神社巡りで反応する様になってきました。身体が動くようになってきて、エネルギーの感応で動きが違うのです。だんだんエネルギーの違いが分かりだしてきました。20歳代後半から体験が多くなってきます。富士山の別荘で霊が出ると言えないのです。
 皆で行く様になり、富士山に登ることになりました。5合目から登り、夕方8合目の山小屋へ泊まるのです。満天の星空で凄い景色です。その頃はもうUFOを見飽きていましたが、富士山にこんなにいっぱい居るのには驚きました。それにも慣れてきて、大きいUFOの様なものが飛び始め、そして消えて行くのです。戦争が始まったのかと妄想が始まりました。実はその日は流星群の日だったのですが、そのことを私は知りませんでした。


2018年3月21日水曜日

1250「浄音11」2018,3,21

 UFO、や霊的なことは世田谷ではタブーでした。しかし和歌山では何を言っても良いと言われて嬉しかったです。「あなたには霊が付いている。」と言われ、是までの答えが出てくるのです。巫女さんに、「憑依によるものだ。」と言われましたが、半信半疑でした。そこでは神社、パワースポット巡りをしました。友達の家に泊まって、霊感の強い人達と関西を廻って歩いきました。
 田舎は良いなと思いました。そして和歌山へ引っ越すことにしました。巫女さんに、「もう少ししたら大きい変化がある。」と言われました。その人は霊能者でした。そして、「もう少ししたら見えるようになる。」と言われました。

 料理の世界に入っていた29歳の1998年です。1999年ノストラダムスの大予言もあり、東京を離れ関西へ移りましたが、いろいろ見え始め、益々怯える様になっていきました。
 仕事を朝から晩までしてくたくたになります。ある時シャワーを浴びていたら、女性の声が聞こえるのです。後ろを振り返っても誰もいない。次に男の声がするが誰もいない。やがて色んな所から声が聞こえ続ける様になっていきました。怖い、眠れない。やがて仕事を休むようになりました。

 板前仕事をしていて、鯛を〆ていました。すると魚が痛いとしゃべったのです。それから捌くと魚の声が聞こえる様に成りました。それに驚いて独り言を言うようになり、周りから変に思われ、やがて仕事を辞めさせられました。病んでいる人扱いです。ある時に夢を見ました。前の方から沢山の鯛の軍団が私の真正面から近づいてきて、もう殺さないでくれと言われました。
 勤めていた料理店の親方が辞めたのですが、調理師会から助っ人が来てくれました。30歳の時で、独り言をぶつぶつ言ってやっていました。皆良い先輩で私に短期集中で板前の技術を教えてくれました。1年間で全部教えてもらいました。

 体力的に限界が来ました。皆はただで飲み食いさせてくれます。12月に仕事を終えて、酔っ払って自転車で帰る時に停まっているトラックにぶつかって事故を起こしてしまいました。
 転んで歩道の縁石に顔面を強打しました。暫く倒れていたのですが、やがて声が聞こえて来て、「起きろ死ぬぞ。」と言われました。寒くて起きて自転車を持ってアパートに帰りました。顔がぱんぱんに腫れ、顔面複雑骨折をしていました。朝起きて鏡を見てヤバイと思いました。左の顔が腫れ、目が飛び出ていたのです。もう結婚出来ないと思いました。
 救急車を呼んで大学病院で即手術をしてもらいました。その担当医は最高の先生でした。「全部綺麗に治す。」と言ってくれて、「安心して私に全部任せてください。」と言ってくれた。良い先生でした。
 この仕事をもう辞めようと思いました。片目でもうろうとして仕事をしていましたが、たいした仕事が出来ないのです。
 何よりも健康が大事だ、生きていることが大事だ。自分のことは自分で守ってやらないと駄目だと思いました。何よりも身体を大切にしようと腹の底から思ったのです。
 是まで何回も事故をし、死にかけてきた。今、生きているだけで幸せだ。ちょっと位、声が聞こえ、勝手に歩いても良い、と肯定しだしました。私は恵まれていた、守られている。救われた。と思いました。

 20歳代に六本木を離れるきっかけには理由がありました。ライブをメインとしたパブに働いていましたが、そこの常連のマダムがいました。スタッフがまだ来ていなくて私だけの時に、彼女は早めに店に来たのです。そして彼女から、「六本木を出なさい。」と言われたのです。そして「涙目であなたはここに居ては駄目になる。この店を早く辞めて、もうこの街に戻って来ては駄目です。」と言われたのです。その人は霊能者でした。
 その後に事故にあったのです。その前に扁桃腺が腐って腫れて、緊急手術をして借金を抱えていました。後、ギャンブルに嵌まっていて200万の借金があったのです。これはヤバイとインスピィレーションが来て、安いアパートへ引越ししたのですが、それが三軒茶屋の築50年の安アパートでした。

2018年3月20日火曜日

1249「浄音10」2018,3,20

 夜に寝ていると本の表紙がパッパッとよぎるのです。何度も起きて、何なのか気になってしょうがないので、自分の意思で本屋へ行くことにしました。本を買ったら何か終わるのかと思ったのです。これで終わりと思いました。数日しても中々眠れないのです。築50年のアパートで、風呂無し、共同トイレです。
 首が勝手に動いて、買ってきた本を見ているのです。怖い!本を取って、勝手に手が動いて頁を開く。そして顔が笑っているのです。その後、本を置くと眠れるのです。それがちょいちょい続くのです。私は何かに取り付かれている。しかし誰にも言えない。供養しないといけない。しかし当時はオーム事件の時で、変に疑われるので、ほうっておこうとしました。首が動くのを無視していると目が閉じないのです。

 飲食の仕事の間にいろんなバイト、仕事をしていました。その中でバイク便の仕事をしていました。私の運転するバイクが大手門へ向かって東から走っていると急に左折してきた車に撥ねられました。しかし私は完璧な受身を取って転がっていました。そして立ち上がり、手を横に広げてすっと手を下ろしていました。身体は大丈夫でした。しかしバイクは崩壊していました。
 車はハイヤー大和でハイヤー会社の弁護士が2人が来ました。ベテランの1人に良い様に言いくるめられました。結果、事故はお互い前方不注意で責任は5分5分とされてしまいました。完全に相手のタクシーが原因で責任があるのに。結局、弁償金、保険金は無しになりました。相手の車が急に進路変更して突っ込んで来たのに、人生最悪と思いました。

 当時、高級マンションに住んでいました。あの時来た2人の弁護士の内の若い弁護士が訪ねて来ました。彼は今回の事故のことで何かお役に立ちたい、知恵をお貸しします、と言います。ブランドスーツを着ていて事故に遭ってスーツが傷ついたと申請すると、その保証には保険を下ろすと。それで30万円の保険金を貰いました。
 東京は私にとって何なんだ。事故で受身を取って、その光景は奇跡でした。変なものが取り付いているとしたら死んでいるはずです。これは一体何なのか。やったことが無いことをしている。考えても分からない、ほっておこう。考えないことが治療だと思ってほっておきました。

 首が動いて本を読まされる。寝る前に読む習慣が付いてきていました。その本は岡本天明の「ひふみ神示」でした。もうどうでも良いと思いました。
 その内、神社で中まで入って参拝する様になっていました。それでも考えずにいたのですが、それからテレビで見た神社へ行く様になり、東日本全県の神社の参拝をしていました。参拝しても何をする訳でなく終わるのは面白くないので、世界平和を祈願することにしました。大きい神社を素通りして、小さい神社へ参拝することもあり、何故だろうと思いました。しかし分からない。

 音楽事務所ではアコーステックでは使ってくれず駄目でした。全然良いことがありません。東京に来て悪いことばかりが起きています。東京が私を駄目にしたと思いました。
3年経って両親が東京へ出てきました。銀座で会いました。
 その後かつてアパートの隣に住んでいた役者志望の人から電話がありました。彼は関西に住んでいて、彼が私に会いたいという人が居るというのです。神社の巫女さんだといいます。明後日に彼の和歌山へ行っていました。

2018年3月19日月曜日

1248「浄音9」2018,3,19

 幼い頃を思い出し、祈っていたことを思い出しました。それはキリスト教の祈りでした。何故キリスト教に入ったのか?何故そうなったのか?キリスト教と日赤で生まれた事は関係ないか?しかし祈るとよく眠れるのです。そしてご利益信仰に変わっていきました。
 神様がここにいるとして管を巻き始めました。父より勝ってやる。金持ちになってやる。どうにかして認められたい。拝金主義しかないと思いました。しかし悲しかった。父が言うように神様はいないのか。親のいう事を守ったが、ヤクザに成らなくても色んなことが氾濫していました。ぎりぎり、どこまで出来るのかでした。そしていよいよ19歳から祈り始めました。

 首が動き始めました。歩いているとふっと首が動くのです。どうしたのか?自律神経が侵され病んだと思いました。このことをばれない様にしようとしました。そうた考え方が人にばれない様にしました。
 歩いていると何処へ行くのか分からない。身体は歩いている、そしてぱっと足が止まる。そこに鳥居がある。頭を下げた。何故か。身体が勝手に動く夢遊病者になったのです。
 妹が受験勉強で独り言が多くなり、夜に徘徊していました。私はそれと同じではないかと思いました。しかし分からない、ほっておこう。考え過ぎが悪化させるので考えないことにしよう。ほっておこう。20歳代がスタートしていました。

 コンプレックスの塊りで、3高の逆の3低です。兎に角、あれもこれもやりたいことをやろう。芝居やろう。何か1発当てたら挽回出来る。芝居、ダンスをしました。
 ジャッキーチェンにあこがれていましたので、三軒茶屋に少林拳を見つけました。そこに通うようになり、台湾のリュー先生の最後の弟子になりました。
 好きこそものの上手なりで物凄い勢いで体得して行きました。極真空手、ホッパー少林拳、その台湾の先生は仮面ライダーの変身を指導していた方です。女癖、金癖が悪い先生でした。 
 老衰で入院したのですが、ベッドでうなぎが食べたいと言ったのですが、「駄目です、病院食があるでしょう。」と言ったら何も食べなくなりました。先生に「音楽をやっているのか、良いな。格闘技は人を癒さない。」と言われました。それから直ぐに亡くなり、それが遺言になりました。

 芝居は止めました。台詞を覚えるのにストレス覚えたのです。脚本を思いながら詩を書くこと思いつきました。経験してみてダンスは向いていなかったので止めました。やがてシンガーソングライターと料理人だけが残りました。それに残った時間をどっぷりとやって行くことにしました。
 自分が何に向いているか分からないので色々とやったら良い。それが無駄になることはないです。そのことが今、漫画になっています。

 20歳代、勝手に身体が動き、勝手に歩くようになりました。心と身体が分離した精神疾患と考えましたが病院へは行かずに治そうと思いました。その時に、父が言った言葉を思い出しました。「野菜と果物を食べないと病気になる。」との言葉です。しかし東京では肉、魚だけ食べていました。だんだん変えて行き、やがてベジタリアン化して行きました。

 ある時、気づいたら勝手に電車に乗っていました。渋谷へ行き、後は何処へ行くのか。やがて本屋に入って宗教コーナーに立っていました。目的意識がある様に歩いていくのです。ある所で止まり、手が棚の本に出て行きます。分厚い本を手に取って開いて、顔が笑っているのです。そして読んでいる。7800円の本でした。しかし買わないで店を出ました。
 何かに取り付かれたと思いました。疑惑、悪霊に取り付かれたのか?イタコを探そう。しかし青森には帰れない。ほっておこう。黙っておこう。内向的になり、20歳の考え方が病んでいて超ネガティブになって行きました。

2018年3月18日日曜日

1247「浄音8」2018,3,18

 青森は11月になっていました。自分を癒したかった。そして十和田湖が見たかった。十和田湖を見ると癒される。奥入瀬もそうです。
 車の免許を持っていませんでした。行き先は山だし、安全運転で行けば大丈夫と思い、父の新車を持ちだしました。酸ヶ湯を越えて行くと雪が降り出し、積雪です。峠で転落事故を起こしてしまいました。
 犯罪者になった、ヤバイと思いました。雪がふぶいています。身体は大丈夫の様で、車の外に出て、道路まで這い上がりました。車だから大丈夫と薄着で来ていました。酸ヶ湯方向へ歩いていたら後ろから車が来ました。運転手さんに、「死ぬ気で来たのか。」と怒鳴られ、「あの事故の車はお前だな?」言われ、「先ず乗れ。」と車に乗せられました。おじさんはこの先の山小屋の最後の人で、たまたま忘れ物をとりに戻っての帰りでした。今日から冬季閉鎖になる時でした。おじさんに「馬鹿っ子」と怒鳴られました。

 彼の仲間が手分けしてクレーン車を用意してくれ、落ちた車を上げてくれました。午前中の事故だったのですが、家には夜の8時ごろ帰り着きました。3人のおっちゃん達が一緒に来てくれました。そしておふくろに掛け合ってくれました。おふくろは何も言いませんでした。その後、父が帰ってきましたが、俺の車はどうしたんだと怒鳴り散らしました。私は荷物を纏めて青森から夜行で東京へ向かっていました。
 事故はラッキーだなと思いました。しかし十和田湖を見たくて行ったのに見れなくて、親に怒鳴られ東京へ出て行き、申し訳なくてもう帰れなくなってしまいました。私は馬鹿息子で、父の1ヶ月の新車を潰すことになりました。

 3年間家に帰らず連絡も取りませんでした。3年で結果を出してからと思っていました。自分には何も無い。働かないとならない。しかし仕事がない。フランス料理は格式が高くて駄目。居酒屋から、イタリアンは人気が無くそこに入りました。
 3年の間に憂さ晴らししたいし、彼女も欲しい。夜の世界、六本木に入っていきました。子供の頃から酒を飲んでいました。年齢を偽って、犯罪者にならないギリギリのことをしました。悩む事は、当時はバブル全盛期の東京で異常な世界でした。20歳の男が高級車を乗り、サイドビジネス、ねずみ講、海外旅行、ブランド品、とてつもない人達の中で働いていました。

 学なし、金なし、田舎者でコンプレックスの塊りでした。当時は女性にもてるのは3高が必須で、高所得、高身長、高学歴でした。とても無理です。彼女も欲しいので見た目で勝負と、原宿のアパレルで働きました。社員特権でデザイナーブランドを半額で買いあさりました。見た目ばれない、必要最小限しゃべらない。そして女の子に受けるためにマハラジャで働いていました。
 糞がきで年齢偽っていました。価値観の違いで拝金主義を目の当りにすることになります。お金で幸せ、不幸せが刷り込まれています。私はコンプレックスの殻が3重くらいありました。そして幸せの価値観を見出せないのです。病んだ生活をしていて、昼夜逆転して行きます。もう訳が分からなくなり、まったく幸せを見出せないのです。価値観が分からずに徘徊している中では不安しかありません。

 そんな時に思い描いたのは幼少期の思い出でした。可愛がられ、笑っていた頃、良かったな、あの頃に戻りたい。当時は音楽がはけ口になっていました。一番は女にもてたい。しかし音楽やっても、もっと上手く格好良い人がいて駄目だ。そのうち音楽ははけ口で、すさんで行きました。陰気くさい曲になっていきました。愚痴を詩に書いてステージに、ライブハウスで歌っていました。
 そこでネガティブな、アングラに嵌まって行くのです。渋谷のアングラの聖地に嵌まっていきました。シンガーソングライターの始まりです。酔っ払い、歌っていく。19歳でもう直ぐ20歳になる頃です。もう直ぐ大人なるがどうするのか、です。

2018年3月17日土曜日

1246「浄音7」2018,3,17

 おじいちゃんが高校3年の時に死にました。7,8年寝たきり状態でボケていました。会いに行くと、おじいちゃんは私の顔を見ると泣き出すのです。そのおじいちゃんが亡くなって葬儀の時に、朝まで棺の線香守りをしました。朝に立ち上がると、立ったまま後ろに倒れてしまいました。意識が遠のいていました。救急車を呼べなかったようです。
 倒れている時に死んだおじいちゃんが出てきて怒っているのです。私がおじいちゃんに謝っています。何か高校の時に死にたいと思ったことがあったのです。その場面、その時の気持をおじいちゃんは分かっているのです。その思いが蘇ってきます。首、肩を鷲掴みされるようにされていました。私は許してくれと泣いていました。気づいたら親戚中の人に囲まれていました。
 倒れた私に祈祷師が何かやっていました。病院へ行かずに祈祷師にさせていたのです。そして又意識がすーと消えて行くと、おじいちゃんが笑顔で穏やかでした。そして又気づいたのです。それは身内との霊体験でした。お払い祈祷は効果はありませんでした。おじいちゃんが許してくれたのは私が謝ったからです。それから祈祷師を信じなくなりました。お金を持って行くだけで効果はありません。それは18歳の時でした。

 その後、上京しました。青森から夜行列車でした。友達が見送りに来てくれて、何故か泣けて来ました。その人達との最後のお別れでした。
 憧れの東京で楽しい人生が始まると思って上野に着きました。人が多くて気持が悪く、どうして行くのか分からなく大変でした。色々と行き先を聞いてようやく辿り着きました。
 調理師になりたいので大阪の辻あべの学校へ行きたかったのですが授業料が高過ぎ、距離も遠すぎると反対されました。そして栄養士になれと言われ、安い学校がありました。この時は学校を見学し、住まいを探す旅でした。

 品川駅の近くのビルの不動産屋でアパート探しに入りました。どきどきでした。私は黒のスーツで髪はオールバックで、舐められたら大金を盗まれると思って身構えていました。しかしそこはヤクザが経営している不動産屋だったのです。皆こわもての人だったのですが、1人だけ優しそうな顔の人が居ました。その人に部屋を探しているのか、何処からきたのか、身辺調査をされた。資料を貰い資料代として6000円を支払いました。連絡先と言われ父の名刺を置いて早々に帰りました。明日来るように言われたのですが怖かったです。
 東京では吉野家の牛丼を食べたかったので探して食べました。結局、明日は不動産屋へは行きませんでした。そうしたら父に不動産屋から電話が入っていました。父からこちらに電話があり、直ぐに今居る宿から出ろと言われました。父には業者から頻繁に脅しの電話が1週間入りました。その後、父が飛行機で東京に来て、私は飛行機で同行されて青森へ帰りました。青森では外へ出られない軟禁生活をさせられました。何もかも悲観的でした。

 その後、母親と一緒に専門学校に入る為に出かけました。専門学校は難しく何も分かりませんでした。高校ではまったく勉強せずに、追追追試で最後は答えを書いてある答案用紙を渡されていました。私はPクラスでパークラスと呼ばれていました。そこは自習クラスで授業しないので何も基本が入っていませんでした。
 専門学校はなにもかもが専門的で毎日試験があり、2ヶ月毎日0点でした。これはヤバイ、卒業できない。もったいないので辞めよう。ここを出て料理人になろうと思いました。
 学校を辞めたことは親に言わずにいました。やがて父親から連絡が来ました。取りあえず青森に帰って来いと言われ、謝りに帰りました。しかし父には怒られませんでした。父には、「お金は捨てたものだから良い。これから何をするのか。」、と聞かれ、料理人をすると答えました。こっちに居るのは格好悪いので、結果を出してから帰りたい。と言いました。

2018年3月16日金曜日

1245「浄音6」2018,3,16

 私は八戸市で生まれましたが、私が住む近くに是川遺跡、二つ森貝塚などがあり、車力村にも遺跡があります。ある時、私は遺跡、貝塚のある所を転々として生きて来た事に気づきました。
 中学3年、あー終わったと思ったのですが、人生は何が起きるか分からないものです。父は今度の転勤で、県では最年少で教頭になっていました。しかし私にはどうでも良いことでした。ただ生きて帰れれば良いと思っていました。
 初めて学校に行って皆に囲まれました。そして皆にいろいろ言われるのですが、何を言っているのか津軽弁がまったく分からないのです。しゃべり方が面白いので笑えるのです。何を言われても私がビビラないので、皆が勝手に憶測してその内に何もしなくなりました。しかし先生の言う事は分かります。「転校生だから何かあったら言えよ。」と言ってくれました。
 学校の帰りがけに分かる言葉で話しかけて来た人がいました。その人も以前、この学校への転校生で、最初分からなかったと言います。彼は東京から転校して来ていました。ほぼ標準語で話すのでその人から津軽弁を教えてもらいました。彼は将騎が好きな人でしたので、私に友達が初日から出来ました。そこで番を張っていたやつは良いやつに変わり、私とも仲良くなりました。

 私は兎に角、南部に戻りたかったです。何故かというと好きな子がいて、彼女に会いたかったのです。彼女は中学で優秀で、彼女と同じ高校に行きたいと思いました。その為には勉強するしかない。物凄く勉強しました。人生で1番勉強をしたと思います。県の模試では、前の中学の1位の生徒を抜いたのです。私は下位の方だったのですが、全県で凄い成績を取って上位に食い込んだのです。
 私は秀才君扱いになりました。この中学では村の農家の子がほとんどで、大概は卒業して就職するので私の内申書は100点を貰いました。私はクラスで1番、2番で、もう一人の頭の良い子が居たましたが後で医者になりました。やれば出来る子だったと思った父が気を遣ってくれました。私は勉強して結果を出して、親孝行をしたと思いました。

 1つ1つ理由があるのです。良い成績を取って高校に入学し、そこから好きだった女の子と同じ高校へ編入し、彼女に告白したい。1人暮らしをしたい。その最高の妄想をしていました。そして彼女と付き合えると思っていました。ですから毎日6時間勉強していました。転校して来た1日目からそれくらい勉強しました。そして結果が出ました。参考書が良かったし、塾にも通いました。そして編入試験に合格出来ると思っていました。
 私は人参をぶら下げられないと動かない人間です。そして試験の当日を余裕で迎えました。しかし試験問題はこれまで見たことも無い問題だけ出ていました。まったく分からないのです。もう駄目だ!その年から入試の傾向が変わっていたのです。当日の点数があまりにも悪かった。そして編入試験を受ける資格すらもらえなかったのです。
 合格発表に父が付いて来ていました。高校には合格できたのですが編入は出来ませんでした。ここに入るぎりぎりの成績で、津軽の五所川原高校へ入学しました。

 全て終わった。家は車力村から木造町、御ヶ岡遺跡の近くに引っ越しました。そこから高校にバスで通ったのですが、挫折していました。しかし挫折は早めに味わった方が良いです。高校に通うのが面倒になり、1人暮らしをしたいとお願いしたのですが駄目、お金が無いと言われました。下宿はさせると言います。私は何するか分からないので監視する必要があるので、物凄く厳しい下宿へ入ることになりました。そこは厳しかったですがご飯は美味しかった。
 津軽にも馴染んできて友達も出来ました。津軽弁にも慣れて使いこなせていました。1度高校を辞めようと思いました。大学へ行く気が無く、料理をしたかったのです。父からは、料理界は厳しいので今の状態ではそこでは持てないと思われて、高校だけは出ろと言われました。父にも後ろめたさがあったようです。私は生き方を模索していました。音楽、ファッションに触れ、東京にあこがれていました。

2018年3月15日木曜日

1244「浄音5」2018,3,15

 UFOに興味がありました。田舎で田んぼでは星が良く見えました。天の川を眺め、銀河鉄道999の漫画が大好きでした。小学校低学年の思い出ですが、星を見ていると天の川の星が動いたのです。大きくなって近づいてくる感じで意識が無くなっていました。小学校3年の時です。気が付くとその間の記憶が無くなっていましたが、まあいいか、と思ってそのままにしていた。
 やがてその時の事を思い出すのは20年後です。やがて何処から何処までを自分が選択したのか。あるいは始めから用意されていたのかが分かってきます。

 小学校の体験の中でインパクトの強いことがあります。
 小学校1年に入学しクリスマスの時に家に初めてサンタクロースが来たのです。サンタクロースに何が欲しいか、父がお願いしろと言いました。自分で欲しいものをお願いしました。すると翌朝、お願いしたスキーがあったのです。嬉しくて大喜びしました。
 しかし父から「来年はもうサンタクロースは来ないぞ。」と言われたのです。そしてサンタクロースはいないことを知れ!サンタクロースは各家庭の親が演じるものだ。」と言われたのです。一度だけサンタクロースを経験させようと父がやってくれたのです。何で夢を壊すように虐めるのかと父を恨んだことがあります。
 他の友達に聞いたら全員、サンタが来ていました。何が本当か分からなくなりました。真実を知りたいという欲求が強いので、叔父さん、叔母さんに聞いてもちゃんと答えてくれないのです。誰かが私が可哀相と思ってプレゼントをくれたこともありました。

 父親の言葉で唯物論者になっていきました。私は問題児でした。学校でも事件を起こしました。暴力で下級生を殴ったのです。学校で母親共々頭を下げさせられました。その時、母親もそこの小学校の教員をしていたのです。しかし父には怒られませんでした。何故かと最近、父親から教えられましたが、成る程と思いました。
 中学校は構内暴力全盛期で荒れ果てた中学でした。小学校で問題を起こした私に父親は「ヤクザと犯罪者になるな。他は何をやっても許す。」と言われました。「もし親の助けが必要な時には遠慮なく言え。可能な限り助けをする。」この事にはインパクトありました。そしてその、ヤクザと犯罪者の間の微妙な所で悩んだのです。
 中学では入学早々にヤバイ連中にスカウトされてその傘下に入れられてしまいました。下僕になったのが最悪です。もう一つ大きな変化がありました。幽霊が怖かったのですが、それより怖いものが先輩で、お陰で最悪が続いたのです。それは人生で強烈なインパクトがありました。「信じられるのは学問だ。」「自分の力が無いと世の中生きていけない。」と父に言われました。そしてこの状況で頑張って生きようと思いました。

 2年生になったのですが何も変わりません。何故か僕らの世代は平和主義で、上の世代は悪すぎました。それに私はへとへとに成っていました。
 やがて中学3年になったら、幽霊やUFOより先輩達が問題だったのが、やっと俺達の時代が来ると思っていました。我々は平和主義でしたが、他の各地でも皆そうだった様です。そして3年に成って、何と、父が津軽に引っ越すことになったのです。南部と津軽は犬猿の仲でした。あ~これで俺はもう終わった、と思いました。
 引越し先は車力村で、十三湖のある所です。今は津軽市になっていて、もう昔の名前が無いのです。そこは最悪の中学校だったのです。そこは構内暴力で新聞に出るくらい凄いところです。そこに転校生として行くことは最悪だ、と思いました。そこへ転校したら何をされるか分かっていました。
 私は学校では、たけちゃんまんと呼ばれていましたが、「たけちゃんまんが転校することになった。」と担任が言うと、皆に驚かれました。そして「生きて帰って来いよ。」と言われました。皆は笑顔でしたが、私だけ最悪です。しかしこれにも意味があったのです。


2018年3月14日水曜日

1243「浄音4」2018,3,14

 3日は神人さんの5時間講演会「シャーマンとして生きる」です。副題として「幼少期から靈媒師となるまでの数奇な体験を語ります。」とあります。通常は3回に分ける内容ですが、今回は1日でお話してくださるようです。時程は以下のようです。
 第1部 10,20代 霊意識の覚醒
 第2部 30代から  霊媒体質と共に
 第3部 40台から  シャーマンとして生きる

 第1部の開始です。



 私は青森県八戸市の日赤病院で生まれました。白丸に赤い十字の日赤です。それには意味があるのです。後々にその因果を成る程と思います。
 隣町の百石町に住んでいた4歳の時です。子供の時に自分は空を飛べると思い込んでいました。そして箪笥の上から飛び落ちて大腿骨骨折をして入院しました。皆に危ないので止められたのですが、でも飛べると思っていました。
 全て、今世のことが幼少期に現われています。でも現実世界の価値観で見ると分からないのですが、過去生はいっぱいあり、その名残は付いて廻るのです。
 骨折したことで入院し、病院のアイドルになりました。言う事を聞かないで動き回って、お気に入りの看護婦を追いかけ回していました。厄介な者だったのですが可愛がってもらいました。それから看護婦さんがいっぱいいる大病院が大好きということになりました。

 両親とも小学校の教員で移動して歩いていました。親戚の叔父さん、叔母さんに預けられたのですが、皆冷や冷やでした。昔,上北町というところに住んでいました。今は合併してその名前が消えては東北町と言い、小川原湖のあるところです。父親は米国に対してコンプレックスを持っていました。三沢の米軍基地をフェンス越しに見せられて、あれがアメリカだと言われ教えられていました。父は英語を勉強し、東北大に入っていました。
 私はその上北町の父の本家に預けられました。骨折が治って楽しくしていたのですが、そこのおばあちゃんが目を逸らした時に外へ飛び出してダンプに轢かれてしまったのです。急ブレーキの音に驚いて近所の人達が出てきました。私はダンプの下にいて、普通に出てきて立ち上がって、「あー怖かった」と言って家に入っていったのです。何故か無事だったのです。その事は、たけちゃん轢かれた事件と言われました。4歳の時で記憶があいまいですが。このように不死身的な事が起きていくのです。
 この事で母親が怒ってしまい、おじいさん、おばあさんに安心して預けられないと、他の親戚に預けられることになりました。そこはお祖父さんの弟のまんぞうおじいさんの所です。ヤクザ肌の人で私にはとても優しかったです。小学校の中学年までそこで好き勝手にさせてもらいましたら。

 幼少期は両親が教員であり、家は一切、無神論者、無宗教でした。神棚、仏壇が無く、初詣も1回も行きませんでした。父親は横浜で生まれ、満州で育ち、引き上げ船で弟、妹を亡くしていました。そこで生き地獄を見てきていたのです。
 終戦で引き上げの時、トップの人達は直ぐに逃げてしまい、残された貧しいもの達が辛酸の苦しみを味わったのです。父は神様に祈ったのですが2人は死んでしまいました。引き上げ船では疫病で沢山の人が亡くなりました。そして日本に帰って来ても直ぐに上陸させてもらえず1ヶ月船に足止めされたのです。この時に無神論者になり、拒絶論者になったのです。その事を父から小学6年の時に聞かされました。

 私は幼い時から眠る時に手を組んで祈って寝ていました。神様、今日守ってくださりありがとう。明日も守ってくださいと祈って寝ていたのです。お祖父さん、おばあさんは仏教です。誰に教えられたものでなく、私の中にある過去生でキリスト教徒の生があったのです。私なりの信仰がありました。しかし父は信仰を拒否していました。その父の気持に応えようと思い、小学6年から10代は父親の言うように、拝まなくなっていました。これが必要な時期で無神論、無信仰が必要な感覚だったのです。
 幼少期にちょっとした霊感はあった子で、部屋にいると誰かが居るという異次元の感覚がありました。小学校3年の時、テレビの「あなたの知らない世界」に洗脳されて怖くなくなりました。これから神様に守ってくださいという信仰を持ちました。

2018年3月13日火曜日

1242「浄音3」2018,3,13

 7曲目「出会い」
 皆さん長生きしてください。兎に角、健康が一番です。ライブの皆さんのアンケートであの話をもっと聞きたかった、が増えてきました。歌はいらないとい言うものも増えて、あまり嬉しくないことです。そんなこともあって、MCと分けて講演会を始めました。仙台から始まりました。仙台から始まったものが多いです。5時間講演、7時間講演など。
 浄音(きよね)ライブのきっかけは、エネルギー良くない所や人達のいる時に、それを受けて私が固まっていました。それを受けると霊媒体質なので唄えなかったのです。その時に皆さんが拍手を打ってくれて、復活するきっかけになったライブがありました。拍手が良かったのです。9年前に指導霊から気持の良い鳴り物を鳴らせ、と言われました。鈴を鳴らし、その中で気持の良いものを持ち歩く様になりました。チベッタンリンなどです。その後、そのチンがもっと聞きたいとアンケートがあり、時間が30分になり、色んな楽器で1時間になりました。それが今の浄音ライブです
 音で清める浄音(きよね)CDもできました。アンケートに応じてこの10年の歩みがあり、やるべきことを皆さんが決めてくれたようです。

 8曲目「大丈夫」
 指導霊に感謝を伝えたいと思いました。辛い時に指導霊から「貴方の未来は多くの人の笑顔で包まれ、沢山の人に愛される。」と言われました。しかしまったく受け入れられませんでした。その笑顔で包まれ、沢山の人に愛されている映像を見せられました。それがだんだんと現実になって来ています。
 指導霊に感謝だと思って作った曲です。この曲を歌うと泣いてしまうので、ライブでは歌わない曲です。しかし最近は泣かなくなってきました。
 毎日、指導霊に大丈夫と言われ続けてきました。20年間言われてきました。「大丈夫だよ」と言うこの言葉で乗り越えてこれたと思います。これから色んな人に歌って上げたい。感謝の思いを込めて。

 9曲目「神様の中で」
 幻のアルバムは「真」です。私の3枚目のもので、発売10ヶ月で完売しました。アレンジを変えたい曲が何曲かあったのですが、色んな人が関わってくれて出来たCDなので、直ぐに直すのは嫌味だな、と思って出来ませんでした。最近、ようやくもう一度取り直そうと思い、新たなCD「真」を今年リリースすることになりました。アレンジはシンプルにしようと思います。その中の曲です。

 10曲目「和」
 ファーストアルバムのタイトル曲です。ワルツです。言いたい事を詰め込んでいる作品が多く、MCで言いたい事を歌詩に凝縮しているのです。神人が一番伝えたいことが入っているのがこの「和」です。最近、「和」を聞く人が多くなりました。たまに「和」をやらないかと言われます。そして昔の唄語りをして欲しいと言われます。やると気持が昔に戻り良いですね。

 11曲目「しあわせの種」
 ファーストアルバムに入っている曲です。どこかの小学校の先生がこれを使って指導しました。どういう意味かを皆でやってから歌う事にしたそうです。

 12曲目「神」&13曲目「真」
 2枚目のものと3枚目のものを時間が無いので半々で唄います。







 2時間のライブはあっと言う間でした。久しぶりに聞いた曲も多く、私はやっぱり唄語りライブがいいなと思いました。神人さんも歌いたい曲を20曲用意していた様ですが、全然時間が足りません。神人さんの原点だなと思います。今回は春の嵐の影響で交通機関のトラブルもあり参加者も少なかったのですが熱い会場でした。
そしてライブの後の食事会も楽しいものでした。

2018年3月12日月曜日

1241「浄音2」2018,3,12

 3曲目「いのち」
 思い出深い、初期の頃の曲です。飢餓問題で活動していたころで、飲食業界にいましたが、残飯、食べもの廃棄が厭でした。20年前は霊媒の始まりで眠れず、昼夜が逆転していました。その時に指導霊から「菜食」と「ボランティア」の言葉が来ました。
 飢餓問題に対して、栄養失調で食べないで死んでいく映像を見ました。自分がその問題に対する意識を持ったのですが、どうするかきつかったです。やがて仕事を辞めようと思いました。そして精進料理をしようと思って京都へ行きました。
 無職の時でしたが、同時に飢餓への募金をしようと思いました。そうすると罪が軽くなる感じがしたのです。そして募金をする為に働こうという意識になり、それで罪悪感を払拭しようと思いました。給与の中で生活が可能なギリギリの募金をしました。しかし限界を知った時、ふとストリートミュージッシャンを又始めました。そこで募金箱に小銭が入りました。もっと沢山貰えるかと思い、今度は募金付きライブを始めました。そして募金付きCDを作ったのです。これは地球といのちのカップリングでした。
 それから15,6年経ちました。神人になって17年目。スピリチャルの話をするようになって10年にもなります。

 4曲目「草木のように」
 友人のいそがみのりひこさんが長崎から北海道に移住しました。彼から原詩を頂いたものを改造し、そこからインスピレーションを貰って作った曲です。彼の詩は「草木のように生きる」というタイトルでした。子供を自然の中で生かしたいという思いです。

 5曲目「愛になる」
 もう1曲、他の方から頂いた曲です、桜井ゆうこさんで、自然食品店のオーナーをしていた方からのものです。それをボサノバ風に作った曲です。
 フォークライブはほんわりとやります。シャーマニックライブでは歌わない曲です。はっきりと歌う曲を分けましたた。全てに意味があり、因果が存在し、次に繋がって行くものです。後になるとそれが分かってきます。
 来年、秋田県で初めてライブをします。人が来易い時期にします。今、山形で2組が主催してくれていますが、そこと福島と繋がっています。今年、宮城も新しい動きあるかもしれません。今日来た人に感謝の気持を込めて歌います。




 6曲目「感謝」
 仙台はイコール、大久保さんが浮かび、長いお付き合いです。仙台で会える皆さんの顔があります。ありがたい限りです。これからも可能な範囲でお付き合い下さい。出会いと別れを経験していると思います。これまで聞きに来てくださったファンで亡くなった方もいます。
 人間は平均して生涯3万人の人と出逢い、その内で仲良くする人は300人だそうです。皆さんは考えるとその3万人に入っています。地球は75億人、日本1億2千万人で3万人にしか出逢えないのです。出逢いを大事にしておくことです。1日に限りあります。出逢える他人は少ないのです。一期一会です。

 小さい頃から何度も引越ししていました。そこで新しい人間関係を作ります。郷に入っては郷に従え、と父から言われていました。自分から歩み寄っていけと言われ、訓練して慣らされてきました。ですから初めての人に会うのが苦ではありません。どっぷり付き合うのは逆にきついところがあります。浅い関係は得意なテレトリーです。
 これまでに亡くなった方々がいますが、常連の人でもいて淋しい気持になります。そういう方が各地にいてダメージが来ます。若くても死ぬ方、常連が亡くなると辛いです。亡くなると私のところに来るのです。不法侵入して来るのです。そして皆さんは何で死んだの?本当に何で死んだの?と私に確認するのです。病気で死ぬ時は分かっているので覚悟出来ているのですが、不意の時は分からないのです。

2018年3月11日日曜日

1240「浄音1」2018,3,11

 今日は3月11日です。7年前に東日本大震災という大災害がこの地を襲いました。多くの方々が亡くなり、生活の大激変を余儀なくされ、未だ多くの問題、課題を抱えています。生きて今あることに感謝し、どういう因縁因果か己を見つめて、今世での役割を果たし、明るく喜びを見出す日々を過ごして生きたいものです。

 3月2日から4日まで神人さんのライブ、講演会でした。濃厚な3日間を満喫し、神人ワールドを堪能させて頂きました。膨大なボリュームの内容ですがここで紹介します。

 1日は春の嵐で仙台空港はほぼ全便が欠航でした。2日も朝から強風が吹き荒れていて伊丹から飛行機が飛べるのか気がかりでしたが、神人さんの乗った飛行機は条件付き飛行でしたが、無事にほぼ定時11時前に着陸できました。先ずは一安心です。何しろ北東北の便は全て欠航していたようで、良かったです。新幹線、在来線は大幅遅れや運転中止です。お陰様でそんな中18時半から天命舎でライブを開催出来ました。
 ライブの案内には「祈り唄ギター弾き語りとスピリチュアルなトークライブ☆神人1st~3rdアルバムより15曲しっとりと唄います」とあります。久しぶりの弾き語りライブで楽しみです。
 弾き語りの部分です。




 1曲目「さくら」
 2018年は私にとって凄く良い年になると指導霊に言われています。今年の4月1日にまんがの3巻目を発売します。後、神人の本で「幸せ手帳」という書き込みタイプのものを出版します。その後「大日月地神示」の続編を出す予定です。この事を言うと出版が遅れるので宣伝しては駄目と言われていて、無言実行でしているのですが、今日初めてお話ししました。
 神人の最初の頃のライブは唄語りで、唄と語りが半々でした。当初のころはスピリチャルの事は話さずに、環境、食の話を主にしていました。そしてライブの後には、私が作った精進料理を出していました。
 その後にロハスブームになったのですが、当時タブー視されていたスピリチャルな事を話したらファンが居なくなってしまいました。ライブに誰も来なくなったのです。何かの間違いかと続けたのですが、流石に3回目でへこんでしまいました。それからライブを2ヶ月間くらい止めました。
 それから日月地神示が下りだしたのです。インターネットで発信していたその神示を読んだ方が、栃木県からライブを聴きに京都に来てくださいました。2日間位聞いて帰る時にその人からライブを依頼され、地方初ライブを宇都宮でをやることになりました。その宇都宮でのライブの時に仙台から大久保さんが参加していて、今度は仙台に来てくださいということで、新しいご縁が繋がったのです。
 その頃、指導霊から面白いことが始まると言われていました。仙台での初ライブは青麻神社でした。その時から霊伝を始めました。指導霊が仙台に来る新幹線の中で今日参加の1人1人に伝える様にと言われたのです。私も初めてでどうするのかも分からないままに皆さんに霊伝をしたのです。

 2曲目「地球」
 オリジナル曲で一番古い曲です。神人が誕生する前の和歌山市に居る時に出来ました。その時、お世話になったミュージッシャンへお礼に上げた曲だったのですが、大阪に行った時に自分では歌えないからと返されたのです。音の高低差が大きくて歌えなかったのです。ある時、私がライブする前に部屋でカセットテープが出てきました。何だろうと思って聴いたらこの曲でした。すっかり忘れていましたが、難しい曲でした。
 私がオリジナルな曲が欲しいと思うと、曲が浮かんでくるのです。歌詩も浮かんで来て、短時間でどんどん歌が生まれてきました。もらい物で盗作の様にも感じました。当時の私にはこの曲は異質な曲でした。沖縄民謡は1回も聴いたことが無かったのです。当時はロック、レゲエを歌っていた頃でしたので、この曲は自分に歌えるとは思えませんでした。
 神人は4オクターブの声が出ますが、けんじんでは出ません。4オクターブが出るのは世界レベルです。ある時、急に声が出て、出来る様になりました。
 この曲はその内に民謡を唄う女性ボーカルに会ったら曲を上げるのかと思っていました。自分でも歌えたのですが気に入りませんでした。
 リクエストすると異次元から曲がスーと下りてきます。霊聴です。デザインも下りてきて霊視した絵を書き写すだけです。私は異次元からあらゆる分野の知識を教えてもらっています。

2018年3月10日土曜日

1239「毘沙門・妙見12」2018,3,10

 中山さんのお言葉に従って今回の巡りで頂いた14箇所のお言葉を繋いで並べてみました。

 最初の青麻神社では今回の目的のように思えます。以下の様になります。各自読み解き、必要を深めて頂ければ良いと思います。 

巡り行くは、この地の1150年前、起こり来たる多くを鎮めんとしたる者、力を見せて皆々従え、支配する力の為に使われたり。このこと宇宙とひとつの皆を外れ行く大きな過ちなり。
巡りて正して、ひとつへと成されませ。

・続きて参る是よりの、この国の事ごと、皆々正して元へと変える。知りて始めて、皆々が新たへの道生み出だす。歩みて下され、元への道を。

・続きて申すは、是よりの事。動きて揺らぎて全てを暴きて、益々進み行くは、皆々新たへの道。この今を元へと帰す道。皆々様方の多くのその身の捉われ外す道成り。この旅の巡りにて、さあさあ外して参られませ。

・来る時迫り来て、皆々様のご用意は如何に。長き時、この事申し来たりて参りました。
是よりはそれぞれ、皆々ご用意為さりて、受け取るは大いなる響き。その時、変わりて進み行く。定めて参られませ。

・間も無く届き来る響きなり。細き音、それぞれに入り行く。大いなり。受けられませ。

・飛び立ちて参り来たりたるこの身にありて、是より41日、響きを発し行く。ほのかなる音、その身を打ち行くなり。写して超え行く。

・許され来たりた。是までの多くは是より全てを流し行き、新たへ向かう。生み出すは皆々様の思いなれば、今お持ちの全てを消し行き、その身の真を出だされませ。

・うお~ この時に北よりの全てを出だして、この地の諸々、あらゆるを元なるへと送る力と為され、是よりの響きに乗せ行かん。

・戻りて、戻りて、戻られませ。元なる元へと、皆々様のその大きなる元の中心を、この時戻して新たへと参らん。この白き大きなる地と共に、真白き真へ共々参らん。

・集い来たれよ。この嬉しき里へ。大きく離れた皆々も、すっかり忘れた方々も、散りたる多くの方々も、是より響く元なるを、受けて元へと参りいかれ。大きなる時なり。

・お頼み申す。

・さて 是よりのこの地、この国が見せる多くの事ごと、皆々を 我に帰りて、その身を思い生き行く様を思い直し、真思いて、深き思い、元への道と立ち返る。大いなる時なり。移り来るを受け止め、しっかり立ち為され。

・見事なるを皆々で成し遂げんと致すなり。この地の中も、この地の上も、この天空の全ても、今一段の大きなる進みの時迎えて、鎮まり、かしこみ、その元なる響きを待つ時なれば、
皆々、平らかなるを保ちてご用意なさりませ。

・いざ いざ いざや 帰りなん。そんたるろえろ いむさんた ひあるらろんろへ
悠々、皆々集え。ひとつと成りて、新たを作りませ。

 最後に9日のあわ歌会で私が頂いた2つの絵は巡る中でお言葉で示されたと思いますが、その意図するとことは、「順序とバランス」かなと思いました。新たな時を迎えるにあたりキーワードになるのでしょうか。

2018年3月9日金曜日

1238「毘沙門・妙見11」2018,3,9

 巡りもいよいよ残す所1箇所、最後の目的地は 登米市石越町北郷にある遠流志別石(おるしわけいし)神社です。神社の紹介は以下です。

「遠流志別石神社は宮城県登米市石越町北郷字中澤に鎮座している神社で、縁起を彫り込んだ石碑によると
「遠流志別石神社は登米郡石越町北郷字中澤に鎮座した延喜式内社栗原七座の1つと言われ古くから石神様と呼ばれ広範囲に亘って篤く崇拝されて来た神社である。古書によると景行天皇の皇子日本武尊東征に際し伊勢の御姨倭姫命が天照皇大神より伝わる明玉を尊に「之を頭上 に載き赴くべし」と授けた。やがて東国を平定するに及び、明玉は霊石と化したのでこれを祀った。この霊石が小石を産み50の数に別れた故にこの地を、「石子石の里」と名付け、後に石越となった。これが石神社の起こりとされ石越の由来となっている。
 これとは別に、神社東方の丘から産出する礫岩が風雨に晒される事により小石塊を周囲に散らし、あたかも石が子を産んだ様相を呈するのを見て、自然崇拝であった当時の住民はこれを神として祀ったものと推察されるという説もある。
 遠流志別=オルシベツとはアイヌ語で「大きな川の流れの側」を意味している。古代の石越丘陵の北面一帯は、大河の如く、中田方面に向けて蛇行していたものと思われ、その流れの側にある富崎周辺の地名になったと想定される。その根拠として続日本記7巻に、霊亀元年10月・陸奥蝦夷の邑良志別君・宇蘇弥奈(遠見邑=富崎に住む住民の長で爵位第三等)が、香河村(岩手県胆沢町)に移り住むことを願い出て許されたという記載がある。宇蘇弥奈が 移住した後も遠流志別石神社として信仰されてきたものであろう。
 文治年中社殿荒廃し伝承の文書も失いただ石神明神と称して来たが安永年中仙台藩儒者田辺希元の調査に依り遠流志別石神社と判明した。天明六年中澤の住人小野寺新右衛門社殿を再興し寛政七年社地を献納文化元年拝殿を造営した。天保十一年正一位に明治六年郷社に列せられたが昭和二十一年社格は廃止され今日に至っているここに改めて縁起のあらましを記して後の世に伝えんとするものである。」とあります。 
 石碑から社殿は江戸時代に造営された古建築だったと見られます。拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行3間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社流造、銅板葺き。本殿背後にある石積が御神体である明玉と思われるのですが?
 祭神:倭建命。」 

 立派な参道を進みます。陽が傾きエネルギーが潰えていく感じです。最後の輝きを発しています。






空には伊豆沼に変えるま雁、白鳥が列をなして飛んでいきます。拝殿の後ろにある御神体の石は石板で囲われています。その石を囲んであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「いざ いざ いざや 帰りなん。
 そんたるろえろ いむさんた ひあるらろんろへ
 悠々、皆々集え。
 ひとつと成りて、新たを作りませ。」16時52分

 お陰様で巡りを全てを終えることが出来ました。今回は両日とも7箇所、合計14箇所を訪れましたが、全ての所であわ歌を皆さんで響かせることが出来ました。最近は、場所に寄っては歌うことなく、歌っても「あいうえお」だけ、又は中山さんだけが歌われることなど色々でしたが、今回は全ての場所で皆さんで響かせる事が出来ました。
 いろいろな御配剤、お助けを頂きありがたく帰路に着きました。仙台駅に19時前に到着して皆さんで最後の会食をいつもの中華屋さんで円卓を囲んで行いました。


 最後に中山さんからお話がありました。
「今回は両日とも7箇所で全員であわ歌を歌いましたが、皆さん全員の結集した力が必要でした。それと同時に、各自、お一人お一人が皆、高まることも必要です。今回のお言葉はその場所のことと言うよりは、言葉を繋いで全体を通して読むことで、これから必要なことが分かると思います。その場所が関係ないと言うことではなく、その地を巡ることによって明らかになったことです。これからも宜しくお願いします。」

 次回の陸奥・毘沙門・妙見の巡りは第2回4月7,8日、第3回6月2,3日です。果たして如何成りますでしょうか。楽しみな事です。

2018年3月8日木曜日

1237「毘沙門・妙見10」2018,3,8

 神行堂山の巨石を後にして急いで昼食会場の登米市迫町佐沼に向かいます。予定より遅れての到着ですが、お店の方は暖かく迎えて下さいました。メニューはこの地の名物料理のあぶらぶセットです。大きな麩を使ったお鍋でしたが中々のボリュームで美味しく頂きました。




 雪も降り止み午後のスタートです。目的地は登米市南方町の大嶽山興福寺です。
 以下の様に紹介されています。

「大嶽観音は、平安時代の初期大同2年(807年)に征夷大将軍坂上田村麻呂の創建、京都清水寺延鎮法師の開基という。 今より1千有余年前、幾多の兵火などにより古記録を失い、詳細は判明しないが、近世の縁起によれば、蝦夷の将を大武丸といい、田村麻呂はこの蝦夷を当山において殺害し、遺骨を7分し、7か処に分葬して、それぞれ観音の浄閣を建てたが、大嶽観音はその一つと伝えられている。当時、東に興福寺、西に天王寺の2寺と48坊を造営し、国家鎮護、蝦夷の教化にあたったという。」

「寺伝によると観音堂は大同2年(807)坂上田村麻呂の創建です。
 坂上田村麻呂が奥州平定の戦いでの戦死者の遺骸を7か所に分散埋葬し、その場所に観音堂を建立したと伝えられている。その一つが大嶽観音堂であり、箟岳観音、長谷観音、富山観音、牧山観音、小迫観音、鱒渕観音と合わせて、奥州七観音と呼ばれています。
 開山以来、修験の道場として栄えてきたが、戦国時代兵火により焼かれ、一時中絶しましたが、元和2年(1616)現在の亘理郡山元町坂本より来山した修験僧永盈(えいよう)和尚が別当となって荒廃した寺塔の復興にあたり中興の祖となりました。
 当地方が伊達政宗の所領になってからは佐沼は要害の地として、家老津田豊前景康の領地となりました。津田氏は大嶽観音の名跡を重んじ、深く尊崇に勤めました。四代晴康の時、伊達綱宗の祈祷所になった。宝永5年(1709)落雷により再び焼失したが、伊達綱村により再建された。もとは羽黒山に属したが、明治維新となって神仏分離令により興福寺と観音堂は一時分離されたが、昭和15年観音堂は再び興福寺に帰属し、以降は興福寺の本堂となりました。
 御本尊十一面観世音菩薩は五尺四寸五分(167cm)台座と後光合わせて十尺(300cm)の木造です。宝永7年(1710)仙台北山覚範寺門前の仏師次郎左右衛門の作です。
 脇侍には不動明王と毘沙門天が祀られています。秘仏で、次の御開帳は平成29年(2017)7月15日~17日です
 観音堂外側の板面には、中国から伝わった古今の二十四孝物語が六枚、彫り込まれ、その欄干には、十二支が彫られて、堂の方位が示されている。 中国の二十四孝物語は江戸時代寺子屋で日常生活のしつけの教科書として使われておりました。
 六角堂は明治21年観音堂再建に先だって明治17年に建設されました。 屋根が六角形であることから六角堂と呼ばれています。 寺院には珍しい洋式建築様式を取り入れた二階建土蔵造り。興福寺には観音堂、六角堂のほか薬師堂、白山堂、鏡楼、庫裏、があります」


 観音堂であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。          
「さて 是よりのこの地、この国が見せる多くの事ごと、
 皆々を我に帰えりて、その身を思い生き行く様を思い直し、
 真思いて、深き思い、元への道と立ち返る。
 大いなる時なり。移り来るを受け止め、しっかり立ち為され。」14時49分


  次の目的地は栗原市志波姫八樟にある志波姫神社です。その途中に、所用がある早めに帰られるIさんをくりこま高原駅に送りお別れです。志波姫神社は駅から直ぐの所です。前日に参拝した塩釜の志波彦神社と対なる姫の神社です。その紹介は以下です。

「主祭神:木花之開耶姫命
 社伝によると、聖武天皇の御宇の創建。延暦年間、坂上田村麿が東夷征討のおりに、武運長久・五穀豊穣を祈願したといわれる古社で、式内社・志波姫神社の論社の一つ。もとは、伊豆権現と称し、築館の玄光(源光)に鎮座していたが、正保年間に焼失。その後再建されることもなく、石祠に祀られていたという。
 寛永十六年(1639)伊達家臣・古内重廣によって伊豆権現の鎮座地、伊豆野原が開拓され伊豆野堰の開削にともない、現社地へ遷座。
 明治四十三年、村内の運南神社、駒形根神社、八坂神社、樟神社、八幡神社、白山神社、熊野神社、五十瀬神社を合祀した。合祀の神々の中に、東北には珍しい倭姫命がみられるが、どの社の祭神だったのだろうか。
 境内の右手に、小さな石祠が3つ並んでいる。「金田明神」と呼ばれる祠だが、元禄年間に無実の罪で磔になった3人の霊を鎮めるためのもの。」




 しっかり雪の中に鎮まりおわしました。社殿前で西に沈み始め陽の光を浴びながらあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「見事なるを皆々で成し遂げんと致すなり。
 この地の中も、この地の上も、この天空の全ても、
 今一段の大きなる進みの時迎えて、鎮まり、かしこみ、
 その元なる響きを待つ時なれば、
 皆々、平らかなるを保ちてご用意なさりませ。」15時57分