2018年1月18日木曜日

1188「救世主6」2018,1,18

 さて、⑤「サタンは右の頬を打たれたら左の頬も向けるのではなく、 仕返しをする行為を象徴する。」です。
 この意味がお分かりになるでしょうか?これははっきり言ってしまえば、自然であれという事です。天、宇宙から何らかの不幸な仕打ちが舞い降りたとしたならば、ただ甘んじてそれを黙認し受け入れるだけでなく、そこに現われるサイン、つまりその不幸の要因、原因と向き合い、それと均衡するだけの徳を己という鏡を通じて天、つまり宇宙へフィードバックさせなさい、ということです。
 また、これはキリスト教の教えを欺瞞であり偽善であり建前であると看破したものです。野生動物を見てみてください。熊にちょっかいを出したら熊は反対側の頬を差しむけますか、そんなことはありませんね。思いきっり襲い掛かってきますよね。これが自然であるということ、そして「ちくわ」であるという純粋さを意味しています。
 ですので誰かに殴られたら、そこで建前や偽善で反対の頬を差し向けるのではなく、純粋で自然で本能的であるならば、そして己が狭窄なアタマで考え出した偽善という算段によってカルマを生じさせるよりも、その場で純粋に反応した方が遥かに宇宙的だ、といっているのです。

 さて、⑥「サタンは精神面で他人の脛をかじる者への配慮ではなく、責任を負うべき者への責任を象徴する。」です。
 これも同じですね。だんだんサタニズムの言っている内容にひとつの共通点があることに気付きませんか?誰かに精神的に依存し、己という自我を持たない人には、当然ながらサタニズムの根幹である自己中心的で利己主義な生き方などできるはずがない。つまり成熟もしていないし、独立個人でもない。そのような相手に対して、どうして配慮する必要があるのだろうか?ということになります。

 さて、⑦「サタンはただの動物としての人間を象徴している。『神から授かった精神と知能の発達』によって 最も悪しき動物となってしまった人間という生き物は四足動物より優れていることもあるが 劣っていることの方が多いのである。」です
 これは強烈なメッセージですね。神から授かった精神と知能の発達によって、人はもっとも悪しき動物になってしまったといっているのです。それは自然であり宇宙である純粋な本能や本音を忘れ、小賢しいアタマによってこしらえた浅薄な偽善や建前によって支配された人間ならば、それは四足動物より劣っているということです。
 サタニズムが言っているのは、とにもかくにも純粋さと素直さと本音と本能の重要さです。それらを失ったならば、どれだけ賢くなったとしても、それは動物以下であるという事です。

 さて、⑧「サタンは罪と呼ばれるものすべてを象徴する。おおよそ罪とは肉体的、精神的及び感情的な満足に繋がるものだからである。」です。
 ここで言う罪とはキリスト教が教える罪のことです。キリスト教での罪とは、アダムとイブの原罪のことです。そしてその罪とは肉体的、精神的かつ感情的な満足に繋がるといっていますね。それはつまり性欲のことであり、セックスのことです。(他にもありますがその代表格がセックスであるということです)
 性欲、そしてセックスとは何かといえば、人類繁栄のための根源的欲求のひとつで、現代人類に残された唯一といっていいほど原始的かつ本能的なものです。このような本能であり本音の代表であるセックスを原罪とするキリスト教とは対極に、サタニズムにおいて、サタンとはその原罪、つまりセックスそのものを意味すると述べているのです。
 つまりサタニストとはキリスト教においてもっとも罪と思われる、その本能の代表であるセックスというものにこそ、もっとも価値があると認めるということです。

 さて、⑨「サタンはつねに教会の最も親しい友人であり続けてきた。というのも彼は長年それを仕事としてきたのである。」です。
 さあ、これは難しいですね。ここで言う教会とはなんでしょうか?これには2つの解釈がありますね。それは悪魔教会とキリスト教会の2つの教会のことです。
 ではまずキリスト教会のことを指すとして考えてみましょう。サタンがキリスト教会の最も親しい友人であり続けてきたというのです。これはどういう意味でしょうか。サタンはキリスト教会という偽善と建前とムラ社会を象徴するものが拡大していく様をあえて眺め、その伸張を影ながら支援してきた。
 というのも、あえて建前と偽善の大聖堂の繁栄を許す事によって、その後に来る本音と本能のインパクトが増すということと、あえて建前と偽善に浸った人々の方が、本能に目覚め、覚醒が促進されるということ。
 このことを見越して悪魔はあえてキリスト教会と共にあった。またキリスト教会は邪悪な悪魔の存在は非常にありがたいものであった。サタンは実在しないものであり、思想であり信条であるわけです。ならばサタンとは本能の事です。この本能こそが悪魔教会の最も親しい友人であり続けてきたということです。
 そしてこの最も親しい友人というのはその本能と非常に似通った存在であるという事を意味しています。つまり本能と悪魔教会はほぼイコールであるということです。そして彼は長年それを仕事としてきたのですよ。ここでいうそれとは本能を指します。つまりサタンは本能を仕事としてきた、ということになります。
 そして人間の意識を解放させ、覚醒させ、そして本当の動物的本能に立ち返り、本源的な意味での自己中心的で利己主義な人となれるよう本能は、本能のままにそれをずっとサポートしてきたんだ、と言っているのです。

2018年1月17日水曜日

1187「救世主5」2018,1,17

 悪魔教会におけるサタニズムには大きく3つの決まりがあります。ひとつは「サタニズム9箇条」で、もうひとつは「サタニズムにおける9の罪」であり、最後のひとつは「地上におけるサタニストの11のルール」です。
 今からこの3つの決まりごとについて話ていきますが、その意味を理解してください。その内容はきわめて冷静で成熟したオトナの哲学です。最初に「サタニズム9箇条」です。

「サタニズム9箇条」
 この所信表明はサタンというものが悪魔教会において何を意味しているか示している。
サタンは禁欲ではなく放縦を象徴する。
サタンは霊的な夢想ではなく、生ける実存を象徴する。
サタンは偽善的な自己欺瞞ではなく、純粋な知恵を象徴する
サタンは恩知らずな者のために愛を無駄にすることではなく、 親切にされるに値する者に親切にすることを象徴する。
サタンは右の頬を打たれたら左の頬も向けるのではなく、 仕返しをする行為を象徴する。
サタンは精神面で他人の脛をかじる者への配慮ではなく、 責任を負うべき者への責任を象徴する。
サタンはただの動物としての人間を象徴している。『神から授かった精神と知能の発達』によって 最も悪しき動物となってしまった人間という生き物は四足動物より優れていることもあるが 劣っていることの方が多いのである。
サタンは罪と呼ばれるものすべてを象徴する。 おおよそ罪とは肉体的、 精神的及び感情的な満足に繋がるものだからである。
サタンはつねに教会の最も親しい友人であり続けてきた。 というのも彼は長年それを仕事としてきたのである。

 さて①「サタンは禁欲ではなく放縦を象徴する。」です。
 放縦とは禁欲の反対語であり、思うがままにふるまうこと、という意味です。つまりサタンとは誰かに指図されたり、誰かに強要されたり強制されたりはしないのです。常に自らの責任と信念によって本能の赴くままに、思うがままにふるまうのです。そして、そこには欲望を阻害するストイックな禁欲は存在しないということです。

 さて②「サタンは霊的な夢想ではなく、生ける実存を象徴する。」です。
 サタンという存在、そして考え方、哲学というものは、夢幻の架空の存在では決してなく、まさしく、己そのものの存在によって体現せしめる、完全なる実存のものであるということです。この世に、そしてこの社会に生きる私こそが放縦に生きるサタンであるのであれば私こそがサタンの原型であり、そのものである、という考え方です。
 つまり、どこの誰だか分からないサタンという架空の存在を夢想するのではなく、まさにサタンの如く生きる私こそサタンを象徴している、という事を意味しています。

 さて③「サタンは偽善的な自己欺瞞ではなく、純粋な知恵を象徴する。」です。
 これは深いですね。偽善的、つまり本音でなく建前によって己自身を欺いていくような生き方を否定しています。そして、サタンとはまさに純粋な知恵そのものであると言っています。純粋な知恵とは多次元世界から降ろされる無垢で純粋な叡智のエッセンスが一切の毀損なく欠けることなく、自らに注がれることを意味しています。
 つまり、私が良く言っていた「ちくわ」のことです。世の中に対しておもねて迎合して純粋さや素直さを装うことではなく、周囲のことなどまったく気にも留めず、ただひたすら多次元からの叡智の具象化に純粋であること、これがサタニズムに置ける純粋な知恵ということになります。

 さて④「サタンは恩知らずな者のために愛を無駄にすることではなく、親切にされるに値する者に親切にすることを象徴する。」です。
 これは非常に冷酷であり、非常に個人主義が徹底されたものであります。また、アマテラスシステムで散見されるありがた迷惑なお節介とは真逆な考え方です。つまり、この掟はアフリカのサバンナでの野生の動物の意趣と同じです。そして恩知らずな者のために愛を用いることは無駄遣いであると述べているわけです。
 ここで言う恩知らずとはどういうことでしょうか?恩知らずというのは、こちらからもたらされたベネフィットの価値を相手側が理解出来ないということです。つまり、いくら高尚で価値のある情報やモノや言葉であっても、それを相手が理解できないならば、そこに労力を費やすことはまことにもって無駄な徒労であるということです。
 これはおしなべて言えば、それを必要としていない者、それを理解出来ない者には、こちらからお節介を焼いて、与えるということは己も不幸であるし、相手にとっても不幸であるという事です。
 つまり相手に対してなんらかの愛を与える場合は相手のことを良く知ってから、相手がその愛を咀嚼し玩味できるに値するかどうか判断してからにしなさい、ということです。これは非常に冷淡にも思えますが、ここまでして初めて本音というものを伝える事が許されるのです。良く知らない相手、または己を理解していない相手に対して、おいそれと本音を出して伝えてしまうことが、必ずしも幸運な結果を生むとは限らないのですから。

2018年1月16日火曜日

1186「救世主4」2018,1,16

一般的にサタニズムといえば、「サタン(悪魔)」を崇拝し、悪の力をもって善なる力に打ち勝つことにより、世界征服を目的とすると想像されがちである。しかし、最大のサタニズム組織である「悪魔教会 (Church of Satan)」は、この考え方を否定する。

 この部分では、悪魔主義者、サタニストたちはあらゆる神を信仰しないわけで悪魔自体をも信仰の対象にしないこと。彼らは偶像崇拝のようことはしないのです。これははっきり言って驚きです。
 続いて
サタンとは次のいずれかに該当する。
即ち、イデア・人間性のある一面、あらゆる存在の源・あるいは宇宙を超越した何らかの力の人間界でのインターフェースである。

 これはもう仰け反るくらいの凄いことが書いてあります。イデア・人間性のある一面、あらゆる存在の源とは何でしょうか?それは多次元世界の叡智、ロゴス、すべての物質の雛型データのことです。
 宇宙を超越した何らかの力とは何でしょうか?それはつまり、人知を超えた宇宙、つまり多次元世界からの何らかの力だということです。その力を地上世界に降ろすためには、人間界側でのインターフェース(接触面、中間面、界面)が必要だと言っています。インターフェースとは、まさに窓口と言っていいでしょう。または、多次元世界のロゴスを三次元の物質に変換する触媒、すなわち鏡のことですね。
 つまり、サタン(悪魔)とは多次元世界の人知を超えた力、そして叡智、ロゴス、意志などを地上世界に顕現、つまり降ろすための窓口、つまり鏡(ミラー)となる存在である、と言っているのです。悪魔、サタンとは鏡(かがみ=蛇身)のことだったのです・・

 そして続いて
サタニズムは支持者にとってある少数派的な精神性と思想を示す言葉でもある。です。
 少数派的な精神性と思想とは、まさにサイレント・マジョリティのことです。多くの常識や固定観念から外され、封印されたサタニズムは、声を大にして叫ぶことを封じられ、オカルトとされ沈黙を余儀なくされました。つまり少数派でありながら、声も小さいということです。
 サタニズムの支持者とは実はサイレント・マジョリティだったのです。精神性と思想を意味するということです。これは非常に重要な指摘です。つまりサタニズムはあらゆる神の、しかも悪魔であったとしてもそれを拝むようなことは決してしないということです。

 さらに続いて、
たとえそれがサタンという名の神であっても、あらゆる神を信仰しない。
同様に、悪魔の掟に従うこともない です。
 これはたとえばキリスト教会のような、またはアマテラスシステムのように人々を操作し、均質化していくという組織としての宗教ではなく、ありとあらゆる、自らを拘束するすべてのものからの自由を言っています。
 それは誰にも指図されない、という決意表明でもあり、また、誰に対しても指図はしないという、まさに縄文意識そのものであるといえます。また、それが実現できるということは、精神がきわめて成熟していることを意味しています。

 そしてさらに
サタニズム信仰者はキリスト教やユダヤ教といった伝統的な宗教の信仰を疎んじ、自己中心的な世界観を構築し、利己主義であることを好むと捉えられる。です。
 組織としてのキリスト教会やユダヤ教といった伝統的な宗教とは、未開の野蛮人をまとめて統治し、お金を収奪しる奴隷システムのことです。人々はただ盲目的に神を拝み、献金をし、自らを罪人として貶めるのです。そこで重要とされるのが自己中心的な世界観の構築と成るのです。
 ここでいう自己中心的とはどういうことだと思いますか?それは私たちが一般にいう傍若無人とか身勝手とかそういうネガティブな意味ではないのです。自己中心的とは聡明で緻密に自らを検証した結果もたらせる、覚醒の境地でもって始めて体得される極めて高度な意識状態です。
 たった一人でありながら壮大な宇宙と一体であるということを認知して始めて、私という一人であっても、それは宇宙というひとつと同一であるという意識になります。つまり自己中心的になるということは、おのれが宇宙そのものであることを認識体得したに他なりりません。
 そのような境地に至った人が始めて利己主義を体現できるのです。己を利することとは、他者、つまり宇宙全体を利することと同義となるわけです。つまりサタニズムで言うところ自己中心や利己主義というものとは、一般に言われるような自分勝手にやりたい放題に放蕩を極めることではないのです。

 悪魔主義、サタニズムというものが、私たちがこれまで抱いてきたイメージや印象とまったく違うという事がなんとなく分かって来たかと思います。

2018年1月15日月曜日

1185「救世主3」2018,1,15

 バチカンは聖ペトロの墓の上に建っています。ピーター、PETRO(岩)で、岩から染み出た油がPETROです。PETROを並べ替えるとPORTEでポルテは戸です。岩と戸はアナグラムです。
 バチカン自体がじつはアマテラスを幽閉した岩戸を意味しています。そしてサンピエトロ広場に立つオリベスクはエジプトから盗んで来た物ですが、あれはミトラ教、つまり太陽神ミスラスを象徴するものです。そして岩戸開きです。実はバチカンはアマテラスシステム、太陽信仰の総本山なのです。
 さて、均質化を強制するアマテラスシステムに対して自由奔放であり、本音で生き、しかも成熟した個人である縄文瀬織津姫システムはどうでしょうか。
 日本は明治維新の前、江戸時代までは、日本も成熟した社会だったのです。しかし明治維新で滅茶苦茶になったのです。家主が変わり、西欧キリスト教を偽装した国家神道が取って変わり、江戸以前の日本人の独特の価値観はなかったことにされ、それ以前のものがタブーとされ、瀬織津姫、宇賀神、アラハバキが半ば悪魔的な扱いにされたのです。

 ならば私たちはじめ、世界中のクリスチャンが忌避してきた悪魔という存在が、もしかしたら私たちが常識として用いる悪という言葉の意味とはまったく逆の意味を持っている可能性があるという事になりませんか。
 西欧キリスト教会が語る悪魔とは日本の縄文瀬織津姫、宇賀神、アラハバキのことではないかと推測が可能になります。西欧キリスト教が駆逐し封印した悪魔という存在と、日本が明治維新以降に国家神道によって駆逐し封印した縄文スピリットが同一であるということです。
 では西欧キリスト教会が忌避するその悪魔とは何か?悪魔を取り扱う団体といいますかそういう人達は悪魔主義者とか悪魔教会と言われます。なんか恐ろしいネーミングですが、ではそんな悪魔主義、悪魔教会とは果たしてどういうものでしょうか。

 悪魔主義はサタニズムとも呼ばれます。私たちは悪魔主義、サタニズムと聞けばおどろおどろしい祭壇に、ヤギだか牛だか分からない恐ろしい悪魔像と、少女の生贄が捧げられ、その周囲に覆面をした悪魔主義者達が生き血を飲みながら秘密の儀式を行っているイメージを抱くはずです。それは私もまったく同じでした。
 誰だってそんなイメージを持てばかなり危険な団体だと思うはずです。しかし、多くの人はそのイメージを固定化させてしまっていて実際のサタニズムというものを詳細に考えたことも、ましてや研究した事も無いでしょう。
 ウィキペディアの冒頭に以下の様に書いてあります。(特に下線部の部分に注意してお読みください。)

「サタニズム(Satanism)とは、宗教的信条の一つの主義である。イデオロギー的、哲学的信条や社会的現象との関係を含み、悪魔主義、悪魔崇拝とも呼ばれる。
一般的にサタニズムといえば、「サタン(悪魔)」を崇拝し、悪の力をもって善なる力に打ち勝つことにより、世界征服を目的とすると想像されがちである。しかし、最大のサタニズム組織である「悪魔教会 (Church of Satan)」は、この考え方を否定する。
悪魔教会は「サタン」が実際に存在するともしておらず、単にある概念を物質的に代表する名称として「サタン」の名を捉えている。
サタニズムにも様々な形が存在するが、多くのサタニズムでは、
サタンとは次のいずれかに該当する。
即ち、イデア・人間性のある一面、あらゆる存在の源・あるいは宇宙を超越した何らかの力の人間界でのインターフェースである。
サタンといえば、悪や理不尽な力を連想させる言葉ではあるが、
サタニズムは支持者にとってある少数派的な精神性と思想を示す言葉でもある。
悪魔教会の創設者であるアントン・ラヴェイは、
たとえそれがサタンという名の神であっても、あらゆる神を信仰しない。
同様に、悪魔の掟に従うこともない
(このことは、有神論のサタニズム信仰者も存在することから、サタニズムが自己矛盾した存在であると誤解されがちである)。よって神に仕え、天の御命に従うような(欧米では一般的な)考え方も存在せず、サタニズムにおいては自身の物質的・身体的な発展と解決が殊更に重視される。
このような理由から、サタニズム信仰者はキリスト教やユダヤ教といった伝統的な宗教の信仰を疎んじ、自己中心的な世界観を構築し、利己主義であることを好むと捉えられる。
一般には理解しがたい信仰のように思われるが、
密教における天部・明王から多面多臂の観音信仰に比肩することで理解は容易になる。ただし、密教のそうした祈願または信仰の対象はあくまで仏・如来の化身とされるのに対し、サタニズムは一神教における神から堕して切り離された信仰対象であることに、その特殊性が見い出せる。」

2018年1月14日日曜日

1184「救世主2」2018,1,14

 瀬織津姫はシリウスで、シリウスC、Dを探しても見えません。ここ地球がシリウスそのものなのです。
 つまり、地球の支配者たちは、この星が瀬織津姫、宇賀神、アラハバキの力によって起動していることを最初から知っていました。しかしそれを全人類に伏せて秘密にしていたという事です。そして、その最大の秘密であり最大の力の源泉について、瀬織津姫、宇賀神、アラハバキといったものを悪魔とし、怖がらせたのです。
 666が悪魔の数と言われます。6とは、「あ」から6番目の「か」で、666は「かかか」で「か」が3つです。ですから、「かがみ」で鏡、蛇身です。ジャパンはジャの蛇なのです。日本から出る救世主をやっつけて置くことで大丈夫です。そうすると目覚める事が無いのです。そうして探し続けているのですが、30年過ぎてもまだ見つからないのです。しかしその候補者として殺された人はいます。

 多次元の潜在▽と3次元の顕在△は同量です。ここが分かると人間が覚醒します。しかし多次元から三次元にいきなり下ろせないのです。多次元と3次元は直接接していないのです。多次元を3次元に変換する変換装置の鏡、ミラーがその間にあります。
 ミラーは3ラで「ラララ」、かがみの蛇み=日本です。日本の鏡を通して世界に投影されているのです。
 眼球の前後で違います。そこは鏡として働いています。目が鏡として働いていて、多次元と3次元を均衡する鏡です。そうすると頭で思った書きたい文字を正確に書けるのです。理念としたもの書いたものが一致します。字が汚い人は問題があります。

 その鏡を隠すことは多次元を隠して、3次元でお金の取り合いをさせることになります。しかし人徳本位性を持つことでお金を与えるものが本当です。合法的にお金を取り上げるのが今の3次元です。ですからそこからおさらばすることです。
 なぜ想造すると下りてくるのか、そのメカニズムを学ぶ必要があります。666はオカルトで、悪いイメージを与えてきました。それには超自然的なものが隠されたもので、神秘的秘密結社で近づくのは危ないです。
 しかしレディーマーで隠されたものが取り戻され、神秘思想を取り戻すことで、それは縄文と密接に関わっています。幻想、虚構が破壊され地ならしされることが「アラハバキ」です。666は6が3つで「ミロク」です。ミロクを日本では嫌っていません。

 悪とは、悪=AKUで、AKUを入れ換えるとAKU=UKAで宇賀神=瀬織津姫です。アラハバキであり瀬織津姫は本当の神です。それを悪と言っている人が悪で、イエスキリストと言うスパースター思想で支配してきたのです。それ以前は地球丸ごとを瀬織津姫システムで動いていました。シリウスDが地球で、シリウスCが月です。
 支配者からすると、皆が独立個人として思いを描いてもらっては困るし、本当の正体に気づかれては困るのです。ですからその人を弾圧してきました。今の勝ち組みとは権力を持って国の税金を自分の物として使う人たちです。しかし叡智を引き継いでいる人徳の人が本当の勝ち組みなのです。
 
 秘密を握る、宇賀神、龍体列島、かがみ、鏡の国が日本です。キリスト教の国は日本に工作してきました。今、日本国内に1~2%しかキリスト教信者がいないので、とても少ないです。明治維新の時に、聖書を元に国家神道を作りました。イエスキリストは馴染まないので天皇というキリストを立てて古事記、日本書紀をでっち上げたのです。ですからそれはまさにキリスト教なのです。その時に創作されたもので、明治以降は、日本はキリスト教国家なのです。しかしその中で純粋なクリスチャンは1~2%ということです。他は無自覚にいつの間に立派なクリスチャンになっているのです。

 明治以降に瀬織津姫、宇賀神、アラハバキを隠しました。そして天照(アマテラス)の架空の神を至上の神としたのです。地球がシリウスDで日本が中心なのに、違うメカニズムに作り変えたのです。平田篤胤、本居宣長、賀茂真淵、水戸学です。戦争に進んだのはクリスチャンの殉教として特攻隊がそれをやったのです。それが今も続いています。
 均質性、金太郎飴を強要しています。国家が望む理想家族を押し付け、家族は絶対的に大事だと、その様にしようとしているのです。先日のベッキーの不倫騒動などで世論操作されています。
 アマテラス国家として主導した社会で均質化した日本を作る。そこでは死ぬまで働け、ゆっくりしては駄目だ。ですから日本は広場や公園の無い国で、皆が安らぎ集合できる場所がないのです。保育園が無い、年金が無い、1億層活躍社会で、思想の脳内規制でマインドコントロールしているのです。それがアマテラスシステムで、それはバチカンがやっているシステムです。

2018年1月13日土曜日

1183「救世主1」2018,1,13

 2017年12月17日に澤野大樹さんの仙台天命塾14回目の講演会がありました。もう1ヶ月前になりますが、今回も今まで以上に濃厚な時間になりました。色々な事情でお話の核心部分はお伝えできませんが、興味深いところを少し紹介します。
 今回の演題は第十四章「鏡の救世主が現れる」~2018年からの日本、そして世界で何が起こるか?~ でした。澤野さんからの講演会案内へのメッセージは以下です。

「10月22日の衆院選を経てわかったことがある。この日をきっかけに、日本は完全に新しい領域へと突入した。
 北朝鮮、アメリカ、ロシア、そして日本。今、懸案となっているあらゆる疑問を解く鍵とは何か?今、日本、そして世界では何が起きてどこに向かっているのか?
 最新時事解説はもちろんのこと、その背後に通底する「神仕組」の根幹について、そしてそれを統べる「Redeemer」(救世主)の介在を明らかにしよう。そしてさらに、すべてが「デンデン返し」される人智を超えたシナリオを明らかにする。
 あなたは、己を、当たり前のこの世に生きる当たり前の人生を生きる者などとしてはならない。あなたは、これから常にあまねくすべての「観察者」として生きるのだ。あなたが生きる世界は、あなたが観察者となるのだ。
「観察者」となったアノマリーは凡百の市井人の耳目を集めるだろう。集めるだけではなく、その時、己がインフルエンサーの先鋭の一点となったことに気づくだろう。その瞬間にあなたは「70億人に埋没するひとり」ではなく「70億人というひとつと均衡するひとり」へと変わる。それこそまさに「Redeemer」である。
 いにしえの縄文スピリットの完全リニューアル復活と同時に起きる私たちの巨大な変化。――「すべては明後日からやってくる」のだ!!
 時間は過去から未来へ流れているのではない。「今この瞬間」とは完成された未来への辻褄合わせ、つまり「均衡」のためにある。精緻極まる時事情報と、純粋極まるスピリチュアル世界が高次元で均衡される。
 12月19日、衝撃の「神仕組」の全貌が仙台天命塾で明らかにされる。」

 このメッセージに貴重な情報がちりばめられていたのですが、後でその事は沢野さんご自身が気づいて驚かれたのでした。今回は、遠くは広島、京都、長野、川崎、東北各県から参加頂きました。是までにない大勢の方々が、衝撃の神仕組みを知り、新たな幕開けへの期待で2018年を迎えることができたことでしょう。
 以下が講演会の内容の簡単な紹介です。

 2017年のキーワードは「The  Redeemer」(ザ・レディーマー)救世主です。他に救世主の意味としてはユダヤ教のメシア、メサイア、救い主のセイビアがありますが、レディーマーは贖い主で、罪を贖うことを意味します。そこには元々持っていたものを取られる、占領される。それを買い戻す、取り戻す。という意味があります。
 縄文スピリット、日高見国、アテルイ、モレの文化が日本の文化から封印されています。これからそれが復活するのです。かつて持っていたもの、奪われたものを取り戻すこと。それがレディーマーで、2017年のキーワードです。
 ある組織、秘密結社などが探し求める救世主像と私の考えるそれとはかなり違います。それは肉眼では見えないもので、1人だが1つ。1人と1つが均衡し、正常に機能するものがアラハバキです。その相対が救世主です。
 これまで救世主候補がいたのですが尾崎豊などは死んでしまいました。アメリカ、ペンタゴン、CIAからすると日本から救世主が生まれては困るし、そうなると立場が無くなるのです。
 そのレディーマーが日本から現われる話しを今日はします。


 2009年に「反キリスト」の講演会をしました。3次元のキリストは一人の肉体を持ったスパースター、超人です。日本の国家は天皇を、それを真似て作り、日本書紀、古事記をでっち上げたのです。しかしこれから現われるのは反キリストです。それは何処にでもいる、遍在する衆生で、一般の人です。たった1つの邪悪のヒーローでなく、遍在するものです。三角形のピラミッドでなく、全員がイエスキリストになることです。
「反キリスト」とは遍在する衆生のことです。しかしそれではローマ教会なども困るので、反キリストを恐れてそれを悪魔としたのです。それが666なのです。

 瀬織津姫、宇賀神、アラハバキ、それこそ縄文と言うものが日本の歴史世界の歴史から隠滅されているのです。ニューヨークの自由の女神、弁天島は瀬織津姫で、モンサント、大天使ミカエルは瀬織津姫なのです。それを隠してキリスト教が出てきているのです。

2018年1月12日金曜日

1182「伊達12」2018,1,12

・O、Tさん
「全国を中山さんと回り、皆さんと交わることが出来る事で学びが多いし、繋ぐことも出来ます。中山さんのあわ歌が変化する度に音を聞いているので、その音の変化に慣れるのが早くなりました。自分の変化を見て、未来もただただでやって行きたいと思います。」

・中山博さん
「あわ歌を歌いだして23,4年になります。私は最初はもっと能力があったと思います。相手の事がすっと分かって言えて、何でも出来ると思ったのですが、1年でその能力は全部消されて、ただ歌うしかなくなりました。それから10年やって、何も無い、ことを教わりました。
 その後、皆さんと一緒に歌うようになりました。あわ歌を歌いたくない、という自分が皆に歌わせる為に、歌うしかない、と思って歌っています。歌う時に一生懸命するしかない。こっちを無にして、ただ歌うしかない。丸森の立石で歌っている時に、何を歌っているのか、無くなってしまいました。
 この様に皆さんに言って頂くのが頼りです。どこが悪いのか自分で考えないといけないが、毎回聞きたいし、言って欲しい。昨晩といい、今日もこの様に皆さんとミーテイングをやってくれるのはありがたいです。」

・I、Tさん
「昨晩話していた時、与える、授けていく、というスタンスが分かり易かった。1つに成るのは違うので出来ないと思う。この世界だと成れない何かがあるが、元々授けるは同じもので引き継がれ、変化を見るイメージが授けるという事かなと思う。
 授けるは差がある。上位から下位へだが、他に延長していけない。自分が出来ていないと認識したい。出来ると我が出てしまうので、希望だけでなく自分がこうだと認める事から拡げて殻を破っていく事。それを認識してやって行く。自分が作った世界を認識して、あわ歌の響きは受け継がれ、受け取るだけとの認識も必要でないか。自分で作っていることでそうなっていると認識して、日々、目の前のことをやって行く事を、解放出来るのかと思うが、中々難しいと感じている。」
中山さん
「瞬時に変えられることが今、AIやコンピューターで出来ている。自分もそれと同じで100匹目の猿と同じ事がおきるので無いかと思う。早く無くせば早くなる可能性はある。」
I、Tさん
「時間と空間で生きているので個別に見ている。本来は1つでコンピューターと同じで、そこでは違う事をインプットして行くので一緒に変わって行きたいというスタンスでないと変われない。」
中山さん
「一緒でないと滑る状態になる。」
I、Hさん
「あわ歌は時間の短縮が明確で期待はあるがそれだけでは駄目だ。」
中山さん
「可能性を信じてくれると変わる。」

・T、Sさん
「何を言うか、立ち位置が分からない。あまり拡げすぎると分からなくなるので肉体の範囲の中で押さえていく。I、Tさんの頭の中で考えている世界を一度消すことも必要かと思う。
 昔は狭い世界観があったがあわ歌をそれで進んできた。身体の反応があったが分析でそれは可能だったが自分がこれからどう変わって行くか分からない。
 熱日高彦神社に以前行き、今回久しぶりに行ったが、中山さんに会話をしてもらったが相手は要らないという遣り取りがあった。それを聞いていて面白いと思った。それが良い、悪いは誰も言えない。良かれと思っても相手には関係ないことがある。黒石寺は何度も足を運んだが、そこでは予想だにしない答えが出たことがある。
 来年が新しい響きを下さり、揺らがずに、との事を受け、揺らがない自分を作る為にあわ歌が必要だと思う。現実的に周りのことで、揺らがない為に必要なこと、家族を繋いだ遺伝子を上手くやって行きたい。
 身近な人の死に目を見ているが個性的で辛いものを残していっている。人が死に、自分がどういう死に方をするか考えている。あの人の死に方が良かったと、自分が穏やかな生き方でと、そう思っている。そう日々準備して行きたい。
 あわ歌はその中で必要な事だ。周波数に慣れさせることをしている。瞬時に身体が反応する自分がいて、是からが楽しみだ。」

・K、Yさん
「いろんなところが振動して凄く眠かった。車の中で眠かったが巡りが終わったら眠気が覚めた。いっぱい情報を浴びたと感じた。身体で振動を受けて、自分が必要な時に動けて、必要な時に回りに振動を発して行く自分に成って行きたいと思う。」

 3日間のあわ歌の集いは終わりました。大きな導きの中に繰り広げられる世界は面白くもあり、不思議で未知の世界への歩みです。善き仲間とのご縁があればこそです。お別れの食事会を中華屋さんで行ないましたが、光のページェントも沢山の人で賑わっていました。



 次回のあわ歌は2018年2月10日から12日です。ご縁の方は参加ください。

2018年1月11日木曜日

1181「伊達11」2018,1,11

 全ての巡りを無事に終えることが出来ました。16時半で既に夕闇の世界です。後は仙台に戻り天命舎で最後のミーテイングです。17時半過ぎから皆さんと車座になって1時間ほどのお話の場です。

  最初に中山さんから以下のお言葉がありました。

「たちまちの時を迎えまつる皆々様に申す。  
 うつし世を大きく変えて、この地球の振動、元なるへと向かうに値するものと致す。 
 このことは大いなる広き全てが始まりて、第三段の拡がりとなる時なり。 
 この時は大きく進みて参るゆえ、この地球の全てに及ぼす大きなる変化なり。
 この人の身は進み来て、他のものより大きく進みておりまするが、その命は数多くの小さき方々の働きを各部所が受けて、その働きによりて生きております。
 是よりはそれぞれの 活き活きひとつと成りてまいる。
 そのことは極微の元の動きをそれぞれが捉えて、発してこの身を動かし行く。
 これまではこの人体の目、耳、体幹、口から入る。それぞれ頭に伝わり、その中にて定められたること思いとなりて現れたり。
 この事、思いにそれぞれの深き欲、我良しの欲 生み出だし、争いの事となりたり。 
 この事 全て無くし、ともどもそれぞれ嬉しき持ちて ひとつとなす。
 そのためのご用意 長きに渡りて この身を通し、振動受けられ、慣れし体となりゆくを望みたり。
 かく申すこの身より発する響きは、この地にありて 皆々に伝えゆく最終段階を迎えたり。
 来る年には発してまいる。大いなる響きなり。
 それぞれ受けたるその身の思いにて行いてくだされ。
 託するはそれぞれの身なる事、よくよく知りて、大きなる道へとお進みくだされ。」
 18時12分


 引き続いて中山さんからお話が先ずありました。
「来年は大きく変わります。各自がそれを受け止め、己のものとすることです。振動を受けて、微細な所から発信すること。自然では無理です。もっと小さいことで、身体の中の小さい所が、自分がどう受け取りかで変わります。それは人それぞれです。
 今まで知っている神仏を云々することは一度無しにして、自分で受け止めて、自分でして行くことです。すがっても、頼っても駄目です。一番頼りに成るのは人間です。しかし、友人、知り合いとは嬉しく、楽しくやることです。一緒に少々の考えの違いがあってもやって行くのが大事です。これからは見えないものを頼っても駄目です。

中山さんのお話を受けて皆さんの感想等を紹介します。
・G、Mさん
「2日間、とても楽しかったです。頭で考えていましたが、感じてスルーしました。昨晩の2次会で楽しいことを聞いたのですが、朝起きたら忘れていました。きっと潜在意識に残っているでしょう。楽しく笑って生きたい。」
中山さん「お伝えでもそのことが出ていましたね。」

・S、Uさん
「今回、中山さんと一緒に体験出来てありがたかったです。企画した大久保先生、Tさんに感謝です。今回頂いたあわ歌の響きは今までと違うもので、昨日より今日のほうが皆と歌って共鳴感があり、嬉しかったです。小さき者達と一緒に響く喜びを感じました。これからも又、響きを感じて続けて行きたいです。」

・O、Yさん
「昨日は頭でしたが、今日は胸が響いた感じです。特に、立石で響いた感じがしました。最後に唱える、あゐうゑをが特に響いて今までと違う感じで嬉しかったです。」

・K、Hさん
「あわ歌から歌い始めて、あゐうゑをを歌えて良かったです。私があわ歌会で頂いたお言葉の内容に付いて、Oさんから中山さんのお話を聞いて感じましたが、これからどうするか、しっかり行動に移せないですが、今出来ることで最善の事をするようにしたいです。奈良田、駿河のことをしますが、仙台の事も忘れずにやって行きたいと思います。」

・S、Hさん
「今回、皆さんの響きが共鳴している事を感じました。環境の良い所で続けてやって行きたいです。やる気がちょっとあります。」

2018年1月10日水曜日

1180「伊達10」2018,1,10

 次の目的地は角田市島田にある熱日高彦神社です。ナビが違う道に誘導して少し回り道する事になりました。かつて相馬妙見のテーマでこの神社に中山さんを同行した事があり、その時も道に工事車両がいて参道を車で進めず歩いてお参りしました。そしてこちらの申し入れを頑なに拒否され、早々に退散した曰く付きのところです。
 今回も何かありそうな感じがします。車で境内の本殿近くまで進む事が出来ました。境内は綺麗に掃除されていて整えられています。
 神社の説明は以下です
「人皇十二代景行天皇の御代、第一皇子である日本武尊が勅命を受けて東征の際当地に到り、古来の聖地であった此の大森山の山懐に祭場を設け、皇祖廼邇邇杵命を祀って、当地が平和であることを祈った。日本武尊が都への帰途に薨去されたので、天皇は勅して(命じて)此処に邇邇杵廼命に併せて日本武尊の神霊を鎮祭せられたと社伝として伝えている。後に素戔鳴命、鹽土老翁命、大己貴神、少彦名命の四神を併せて祀っている。
 また明治42年4月白山社を館島田から、熊野神社を桜井から、水神社を清水田から、館稲荷神社を館島田から合祀して、菊理媛命以下八神を祭神に迎えられた。古来伊具郡惣社とされ、明治5年郷社に列せられており、郡内全ての神社のご祭神を拝することの出来る神社とされた。平安時代には、南方の小斎に鹿島神社(武甕槌命)、北方の尾山大谷に香取神社(経津主命)が鎮座していて、廼邇邇杵命が他界に降臨されるに際して両神が陪従せられたことによる配座とも伝えられている。時代が下って日本武尊の東征に際しては、香取神宮・鹿島神宮との関わりあり、当地の三社においても神事の上で深い関わりが残っている。
 創祀やご祭神に関わる伝えは以上のとおりであるが、当社は日本武尊東征以前にも産土神の聖地であったはずであるから、創祀の年代は特定不可能というべきであろう。平安時代に入って延長5年に延喜式が完成しているが、その中の神名帳には「小社」として当神社の記載あり、江戸に下って「伊具郡惣社」として郡内に神符ヲ頒布していた記録もある。
 通常「お日高さん」と親しみを以って呼ばれていて、享保に奉納された社額には「日髙宮」とある。安永風土記書上にも「日髙神社」の名で報告している。」
 


  ここはあわ歌を歌うことなく中山さんからお言葉を発し以下の問答になりました。
「お~ 虚しき日々を送りて参り、
 その身の響きを再び受けたるは大いなる事と承知したしたり。(拍手)
 恙無きは嬉しき事。是よりもここに居りて、日々只々に参られませ。お~(拍手)
 黄泉成る大き地へと向かう事なれど、この地、暫し身を起きて、恙無く過ごす。(拍手)
 それでは是にて最後と致そう。」15時31分

 以前ほどの頑なさは無く、しかしここに留まるようです。それはそれで良いのでしょうと早々に失礼しました。



 次の目的地は亘理町逢隈下郡にある石間稲荷神社です。今回の巡りの最後になります。小さな川に架かった橋は巾が狭く車が通るのもギリギリです。橋を渡って直ぐ左手に鳥居があり、右側に巨岩の岩壁面があり、そこに石碑や遥拝碑等いろいろお祀りされてあります。
 又、左手には赤い鉄柱の囲いがありますが、そこは「神社付近が海であった頃、岸の岩場に北から寄せる波と南からの潮がぶつかり合っていました。また、この囲いの付近には湧水の穴があり上記に因み『波合いの清水』と呼ばれていた。」そうです。




 階段を登り本殿へ向かいます。参道脇の木々は伐採されて空間が広がって良い感じです。
 この神社の紹介です。
「延暦16年(西暦797年)、征夷大将軍となった坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折り、この地で討伐の犠牲者になった先人の将軍上毛野田道(崇神天皇の皇孫)をはじめ、土地の豪族や住民たちの弔意のために、伊治水門(石間山)に石合稲荷(現在の石間稲荷神社)を勧請(神様の分霊を迎えて祀ること)し、椿山に観音堂を祀り(その後、神社境内に移転)、武運長久や開拓の安全を祈願したと伝えれています。
 当初、神社が建立された岩間山の処は、巖山で波が打ち寄せ合う場所で、石の間に祠を置き祀ったとされています。その後、時の豪族が奉護し、拠点として下郡をはじめ逢隈地区が開拓開墾され発展しました。(大和朝廷より、日本武尊をはじめとする将軍が時代により陣所を構えて統治の施策とし鎮守して来ました)
 慶応4年(1868年)3月28日に「神仏分離令」が太政官より布告され、明治5年(1872年)に神社の社格として「村社」に列格しました。
 永きにわたり神社は、通称「石間さん」と親しまれ、地域の鎮守様としては勿論、現在の霊験が灼かで、五穀豊穣・商売繁盛の神様として近郷の方々からも厚く崇敬されております。」

 どうやら海が近くで波が打ち寄せていたようです。先の311の東日本大震災の津波も押し寄せたのでしょう。ここは中山さんのみお尋ねのみでした。
「届けたきはこの身よりの響き。生み出だしその身と一つといたさん。
 お~お~(拍手)
 許されしその身を大きなるを伝え、この地と共の是よりに、
 響き下ろされ、守りませ。(拍手)
 あいやうえお いあう 共々参り行く。
 しっかり受けて、この地へ発し成され。(拍手)
 う~(拍手)」16時26分


 既に陽が沈み始めています。しかし何故か本殿前での集合写真はとても明るい空なのです。お喜びいただけたのかもしれません。




2018年1月9日火曜日

1179「伊達9」2018,1,9

 立石を下り昼食会場へ向かいます。丸森の中心街にある齋理屋敷の中にある大正ロマン喫茶、齋理喫茶です。
 齋理屋敷の説明は以下です。
「江戸時代後期から昭和初期にかけて、呉服・太物の商売に始まり味噌・醤油の醸造、縫製業など幅広い事業を展開し、七代にわたり栄えた豪商、齋藤理助氏。
 その屋敷および収蔵品すべてを町が寄贈を受け、「蔵の郷土館」として開放したのが齋理屋敷です。当時の衣類や美術品などが展示されている7の蔵(1棟非公開)と2つの邸宅。
 2010年には、蔵や石風呂などの6つの建築物・工作物合わせて12の建造物が国の登録有形文化財に登録されました。
 年3回の大きな企画展「端午の節句」「齋理の歳迎え」「齋理の雛まつり」はじめ、一年中さまざまな特別企画展が行われています。また、屋敷内を利用して「齋理ざっとむかし」や「シルク和紙・紙漉き体験」も定期的に開催中。
 8月上旬には、齋理屋敷およびその周辺の通り一体を会場とした夏の風物詩「齋理幻夜」が行われ、約1,000基ある灯篭の幻想的な灯と各イベントがまつりを盛り上げます。」

 大正ロマンの名の通りの雰囲気のお店です。私たちだけの貸切で豪華ランチとぜんざい、或いはケーキセットを頂ました。皆さんここでも満たされて心身ともに大満足です。








 そこそこ歓談に華を咲かせた後は、直ぐ近くの百々石公園でしばし休息です。狭い道路をあがると全山そこかしこに巨石がある公園です。
 公園の案内です。
「伊具郡史
 百々石公園は以前、観音山公園とよばれ、由来は、「丸森町有志菊池栄三郎氏が大正十二年独立自費で山路を拓き人工を加へしもの。山上風致絶勝にして紅葉する頃は殊によし。山上に三十三観音の一にあたる細内観音あり」
 なぜ「百々石公園」となったのかはわかりませんが、全山が花崗岩の巨石で出来ているために「百々石(どどいし)」の字が用いられるようになったのだろうと推測されます。」

 駐車場から数分登ると展望台、東屋があります。その先の巨石から午前中に登った羽入りの立石が南東の方向の山に見えます。流石に巨大が道祖神です。丸森の町を眼下に眺望し石の上でまどろみタイムです。






 百々石で多くの英気を頂き、後半へ向けて出発です。
 次の目的地は角田市立石笠島にある笠島の立石です。この立石は道の分岐に突然現われる感じで驚きの巨石です。羽入の立石を東根(隈東)の横綱といい、方やこちら笠島立石は西根(隈西)の横綱と言われています。
伊具郡誌に「立石 笠島権現道(権現堂のことか)の下に在り三丈二尺周囲十二丈」。

「いわれ:角田~白石間を結ぶ最短の道筋で、分かれ道には「右白石・左大倉村」と刻まれた寛保3年(1743年)の道標が立っている。高さ10m、周囲40m程」
 立石の近くの権現森の頂上からは太白山が見えるようです。以下に東西の横綱の立石を
紹介してあります。甲乙付け難い巨石です。

羽入の立石は東根(隈東)の横綱
笠島立石は西根(隈西)の横綱
    立石に向かって皆さんで「あゐうゑを」3回のみ響かせ、発しました。その時のお言葉です。
「西より東へもう一度結び直し、
 天地と十字になる光来る時には必ず発して下され。」14時36分










2018年1月8日月曜日

1178「伊達8」2018,1,8

 次の目的地は丸森町の駒場瀧不動尊公園です。内川の渓流には見事な巨石、その渓谷美は四季折々の自然をめでる方々が集う名所です。丸森の町の中心部から通り抜けて南下します。
 駒場瀧不動尊公園の紹介です。
「駒場の不動尊を中心とした公園です。駒場不動尊は、丸森から内川をさかのぼって南へ約6kmほど山間に入った堂平山(どうへいざん)の北麗、内川の右岸にあります。堂の創建年代は不明ですが渓流を挟んで高さ10数メートルの断崖がそば立ち、いかにも荒修行の地にふさわしい、深山幽谷といった景観に包まれています。
 累々と重なる岩石を洗って急流や深淵がいたるところにあり、上流には高さ12mの清滝もかかり、水石として価値の高い五色石の採集もできます。
 昔は丸森には修験者(山伏)のいる修験寺が沢山あり、不動尊境内にある愛敬院(本尊:不動明王)もその一つです。もともと修験宗とは役小角(えんのおずぬ)を祖とする古い仏教の一派で、護摩を焚き経文を唱え、祈祷を行い、自らは難行苦行を重ね、神験を習得することを業とし、かつては人々の願いを神仏に祈る仲立ちを行っていました。」



 冬の公園を散策して巨石を堪能し、内川に架かる赤い欄干の橋を渡って一番にそそり立つ烏帽子岩?の下に陣取り、皆さんであわ歌を歌いました。その後に「あゐうゑを」を発しました。なんとも良い響き愛です。


 その時のお言葉です。
「最果てなる大きなる地は、北の外れの大きな地。
 ここを定めて、この地球を真素直に戻す。
 渦と為せば全てが戻る。その期限迫り来て、この響き持ち行くことなり。
 北の地より発する事を望む。」10時45分

 果たして北の外れの大きな地とは何処でしょうか。そして北の地より発する事を望む。とあります。

 次の目的地は同じ丸森町の羽入の立石です。東根(隈東)の横綱といわれる立石です。
駐車場からかれこれ1キロほど、20分位の山登りです。朝日が燦燦と降り注いで暑い位です。皆さん登りきり暫し心地良い風に涼を求め休息です。









 立石に付いては以下の様にあります。
「立石 天然記念物 昭和41.10.5 指定 丸森町字泉72の1
 由来:丸森町の中心街から東南東約2kmの山の中腹にそびえ立ち、その高さ12.5m、周囲25mの大石である。その昔、阿倍貞任(1050ころ)が石上に立ったと言い伝えられるほど、以前から人々に注目されてきたものである。
 この巨大な石に対して、人々が何か信仰の対象にしたとも考えられ、石のまわりに、弥生式土器の破片や年代不明の貨幣などが発見されている。
 現況:丸森町羽入東の峰上にある柱状花崗岩である。巨大な岩石のため、筆甫街道上滝に至るまで、見る場所によってその姿を変え異様な感じを人々に与えている。」

「均整のとれた姿形は何かの石碑のようであり人工物を思わせるが、数百トンはあるだろうこの巨石をここまで運び上げることはまず不可能だろう。
 ここで思い出すのは、記紀神話の黄泉比良坂の物語に出てくる「千引きの岩」である。イザナギが黄泉の国からの脱出の際、千人で曳くほどの大きな岩で境界を塞ぎ、イザナミの追跡を逃れたという磐石のことである。この「千引きの岩」が「塞の神(さえのかみ)」の信仰に基づく原典とされている。この立石も岩の霊力で悪霊や災難の侵入を防ぐ、道祖神や石敢当(いしがんとう)のような「遮止」の役割は担っていたのではないだろうか。」
 
 立石に向かって、皆さんであわ歌を歌い、あわ歌の後に「あゐうゑを」発しました。太陽のエネルギーを満々と浴びながら心地良い風に乗り、あわ歌の響きは天空にこだましていきます。なんとも無空無の時です。中山さんも頭が失せて忘却の間に立ち入ったようです。





 その時のお言葉です。
「たとえ大きなるこの地の振動起こり来るとも、天空の支え見事に働き、
 この燈台を守りて、光を繋ぎ、多くの地へと発し行く。
 これ辿り来た大きなる石との結びなり。
 踏み行く道は、皆々照らし行くを。」12時4分