2017年11月9日木曜日

1118「身体3」2017,11,9

「たしかに、そのようにことを進めれば、あと半世紀ほどで日本の自然はその「負けしろ」をすべて吐き出し、列島住民は賃金労働者としておのれの労働力を企業に売る以外に生きる術がなくなるだろう。規格化された労働者と規格化された消費者たちがあふれ返るように都市にひしめき、大都市圏を一歩離れるとそこには住むところも、働く仕事もない経済的荒野が拡がる。それが私たちが向かっている日本の未来の暗澹たる光景である。」

「自然破壊を停止させるためには、経済合理性とは別のロジックを立てなければならない。そして、ダイアモンドが「単純な言葉」として退けたもの以外に私たちが取り敢えず足場に使えるものはない。「日本人らしい自然への愛」、それがかなりの程度まで集団的な幻想に過ぎないことは私は知っている。だが、それでも、国民感情を動員して、自然を守り、伝統文化をも守るためには、この「単純な言葉」にそれなりの実質を賦与するしかないと私には思われる。私が「日本人は個有の身体文化を有しており、それは自然への深い親しみの感情によって彩られている」という仮説にこだわるのは、私たちの手元に使える武器がもうこれしか残っていないからである。」

 この後、鈴木大拙の「日本的霊性」を引用して論を進めていきます。
「そして鎌倉時代に至り、自然と直接向き合って生きる人間たちが登場して、霊的嬰児や柔弱な貴族に取って代わって精神生活の主人公になった時に、日本的霊性はついに発動する。
「人間は大地において自然と人間との交錯を経験する。人間はその力を大地に加えて農作物の収穫に努める。大地は人間の力に応じてこれを助ける。人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。誠が深ければ深いだけ、大地はこれを助ける。(・・)大地はいつわらぬ、欺かぬ、またごまかされぬ。人間の心を正直に映しかえす鏡の人面を照らすが如くである。大地はまた急がぬ。春の次でなければ夏の来ぬことを知っている。蒔いた種子は、その時節が来ないと芽を出さぬ、葉を出さぬ、枝を張らぬ、花を咲かせぬ、従って実を結ばぬ。秩序を乱すことは大地のせぬところである。それで人間は、そこから物に序あることを学ぶ、辛抱すべきことを教えられる。大地は、人間にとりて大教育者である、大訓練師である。」(日本的霊性、44頁)
 「足が大地に着いていて」はじめて人は霊性の湧出を経験する。それが大拙の仮説である。「それゆえ宗教は、親しく大地の上に起臥する人間ーー即ち農民の中から出るときに、最も真実性を持つ」(同書45ページ)
 鎌倉武士が平安貴族に代わって支配者になった理由を大拙は歴史家にあえて抗って「武家に武力という物理的・勢力的なものがあったためでない」と言い切る。「彼らの脚こんが、深く地中に食い込んでいたからである。歴史家は、これを経済力と物質力(または腕力)と言うかも知れぬ。しかし自分は、大地の霊と言う。」(同書49頁)
 大拙の「脚こんと大地」という表現は私が先に書いた「すり足歩行」の消息に通じている。これは都市住民であった大宮人たちがついに経験したことのない自然との「交錯」だったはずである。その時に「大地の霊」から贈与される圧倒的な力を人々は感知した。
 なぜ長々と大拙を引いたかというと、私たちが現在「日本の伝統的な身体文化」と呼んでいるものは、その核心的な部分は鎌倉期発祥のもののように私には思われるからである。武道がそうである。能楽がそうである。禅と念仏がそうである。いずれも人知を超えた圧倒的な自然力・超越的な力を身体を通じて発動させる。身体を「大地の霊」に供物として捧げる。その任に堪えるものへと身体を整えること、それが「修行」である。
 武道とは「人間のスケールを越えた自然力・野生の力を、整えられた身体を通じて制御する技法」のことである。もちろん、自然力を爆発的に発動させる技法は古代から存在したに違いない。だが、中世前期にその技術は専門特化した。」