2017年8月30日水曜日

1047「丸太7」2017,8,30

 先に紹介にあった、佐比内岩谷観音に縁が深い鳳仙寺に付いては色々当たってみました。
 その開山のきっかけは、遠野南部の殿様の奥方が盛岡で没し、この地で荼毘に付した事にはじまります。更に調べていたら、その経緯は、八戸の根城南部氏が遠野に移封し、その遠野南部氏初代殿様の奥方が病没したとのことです。
「寛文元年(1661)夏、八戸南部22代、遠野南部初代直義公の奥方・千代が盛岡で死没。
直義公(遠野移封後、直栄(なおよし)と改名)は、自領地の当地まで遺体を運び、荼毘に付しました。それを機に、佐比内舘前にあった小庵を火葬の地に移転して一寺を建立。」
 これが鳳仙寺の縁起です。

 更に遠野南部初代直義公の系図は以下のようです。

 家系図の八戸根城南部20代に直政の名があります。遠野南部初代の直義公の義父です。私は八戸藩2代藩主に直政公が居られる事は知っていましたが、こちらの直政公に付いては初めて知りました。私と同名ですのでにわかに、遠野南部の設立経緯に興味が湧きました。
 八戸2代藩主直政公は1661年6月2日生まれで1699年4月15日没ですが、八戸根城南部20代・直政公の方がかなり先輩です。
 八戸根城南部20代・直政公の奥方ネネ(清心尼)は兄の娘です。直政公亡き後、八戸根城21代当主になります。南部藩で唯一の女当主です。その清心尼について以下の記載があります。これを読むと、今NHKの大河ドラマの「女城主直虎」みたいです。

「南部編コラム25話 南部氏唯一の女の殿様・清心尼」から引用です。
「慶長19年(1614年)、根城南部家20代・直政の急死により、後継者とする男子がいなかったため、根城南部家では次の後継者が決まるまで、一時、直政の未亡人(本家・盛岡藩初代藩主・南部利直の姪)を当主とすることになり、本家である南部利直もこれを承諾しました。
 以前から八戸地方を手に入れようと思っていた利直は、一旦、直政の未亡人に21代当主をさせ、後に自分のめがねにかなった婿を取らせ、根城南部家を意のままに操ろうと企んでいました。
 そのことを察していた直政の未亡人は髪を切り、仏門に入り、「清心尼」という尼になりました。尼に婿を取らせることはできないため、利直は婿を取らせることはあきらめ、表面上は自分が後ろ盾となり、八戸地方を治めることにしました。

 利直に自領の田名部の地(下北半島)を取り上げられたとき、清心尼は抵抗を見せました。
 利直は「田名部の治安が落ち着くまで、当分の間、預かる」と言ったので、利直に当初書くつもりのなかった「田名部借上証文」を書かせることに成功したのです。
 この元和3年(1617年)3月31日付の証文により利直は毎年、「田名部を返せ」と催促されることになります。

 利直は清心尼の娘婿に自分に都合の良い養子を送り込もうとしますが、清心尼にきっぱりと断られてしまいました。ここにも、根城南部家を利直の意のままにはさせないという、清心尼の意地が伺われます。
 根城南部家22代当主には、新田家からの養子・直義に決まりましたが、寛永4年(1627年)、今度は利直から遠野・横田城への移封を命じられました。
 度重なる利直の仕打ちに、家臣たちの怒りも頂点に達し、一戦交えようという空気になりました。隠居していた清心尼ではありましたが「ここで利直に戦を仕掛ければ、主君・利直に背いたという口実で、九戸政実のように幕府に取り潰されてしまう」と根城南部家のため我慢するよう家臣を説得したといいます。

 遠野に移ってからは当主である直義は盛岡城常駐となったため、遠野には家老が置かれましたが、実質的には清心尼によって治められたといわれています。
 清心尼は八戸で14年、隠居してからは遠野で17年、実質的に31年もの間、当主を務め、59歳で生涯を終えました。」
出典:八戸市史(近世資料編)、みちのく南部八百年(地の巻)平成南部藩ホームページ
http://rekisi-kaido.owl-aomori.com/?eid=137
http://cardiac.exblog.jp/26736929/「おんな城主ものがたり その2 清心尼」

 更に以下の記載もあります。
「「清心尼」が殿様として在席したのは、夫直政に死なれた慶長十九年(1614)から息女の愛子に新田弥六郎直義を婿養子として、これを後継にした寛永四年(1627)までの14年間は公的に殿様としての公務をこなし、遠野に移封後も利直は直義を人質として手元から放さない為、「清心尼」が実際の実務を直義(改め直栄)に代わって遠野を治めました。
 これは亡くなる正保元年(1644)まで続いたのですから、後合わせて実に31年間の長きにわたって殿様としての勤めを果たしました・・・。
 正保元年に59歳で没したと伝えられていますので、夫直政に死なれ未亡人になったのは29歳の時ということになります…。
 夫直政はというと、天正十四年(1586)八戸南部氏18代政義(政栄)の二男として生まれていますので享年28歳と若死にでした…」
 https://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/27257002.html

 坂上田村麻呂とアテルイ・蝦夷の時代は西暦800年頃です。それから約800年後の1600年に直政・清心尼の時代があり、その後、今は約400年後です。