2017年8月23日水曜日

1040「インフルエンサー3」2017,8,23

 澤野さんは「無知の知」を説かれます。その意味を調べると以下の様にあります。
・無知(むち)の知
「自らの無知を自覚することが真の認識に至る道であるとする、ソクラテスの真理探究への基本になる考え方」

「真の知に至る出発点は無知を自覚することにある、とするソクラテスの考え方。」

 この「無知の知」を理解し、己が歴史を知り、物事の真髄まで知り尽くし、正確無比に近づくことで覚醒して行くと言います。そこでは技術と知識がバランスし、人間として成長、成熟していく事で、思うことと話す事が均衡し、意識と直結し、相手と誤解が生じなくなります。覚醒とは意識と行動が同時であることです。
 その状態で自分が、こうしようと思った瞬間に全世界が動き始め、各自の決意が全世界に影響を与える様になるのです。これこそが「インフルエンサー」の姿です。
 その為には「無知の知」を知り、「ひとり」として独立、自立し、謙虚に生きる努力と、純粋に素直に、本音を貫き通す生き方の中で、「ひとつ」と均衡し、3次元と多次元が間釣り合い(祀りあい)、霊力を得ることになります。
 しかし、この世の中は中々に本音で生きる事は難しく、建前で生きることで本音、本心を隠し、嘘という障害を作り出します。その結果、やがて肉体が病み、その思い方、考え方の癖が癌を作ります。その嘘は自分を否定して行くことになり、不幸の種です。
そこまでして出世したいのか?生きながらえたいのか?もしも成功しなくても、純粋に正直に自由に生きる選択もあります。どちらを選択するかは己次第、自由選択です。
 
 インターネットは便利な文明の利器です。しかし、人間性如何では、先に紹介した「インフルエンサー」のステマやヤラセが蔓延り、ひいてはフェイク、嘘、匿名の情報が蔓延します。その情報の識別、判断は利用する側からすると必要なことです。
 その匿名性に付いて、澤野さんは内田樹(たつる)先生の次の言葉を紹介しています。

『匿名性の陰に隠れるというのは「個体識別できない」ということです。
「自分のようなことを言う人間は他にいくらでもいる」ということです。
 でも、「自分が黙っても誰かが同じことを代わりに言ってくれそうなこと」だけを選択的に語る人は、そうすることで実は自分に呪いをかけているのです。
 
 だって、そういう人は「いなくなっても誰も気づかない」「語るのを止めても誰も困らない」からです。
「他にいくらでも替えがいる人間になる」というのが匿名性で発言することの代償です。
 そのような発言を続けていると、自分の言葉そのものが弱い酸のようにその人の存在根拠を侵してゆきます。
 
 匿名性とは「生身の身体を人の眼にさらさない」ということです。ネットではそうやって身体を消すことはできます。
 でも、「身体を消す」という行為そのものが当人の身体に深い傷を残すことは止められません。存在を否定された身体は「身体は存在する」と匿名の主体に向かって必死で訴えてきます。
 
 主体の自己都合によって「消された身体」は、「病」として、あるいは「生命力の衰え」として、さまざまな身体的不調を通じてこう訴えます。
「あなたにはたいせつな身体があったのに、どうしてそれをていねいに扱い、
他者のまなざしのまえに臆することなく開示できるようなものにしてくれなかったのか』

※内田 樹(うちだ たつる、1950年9月30日 - )は、日本の哲学研究者、コラムニスト、思想家、倫理学者、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授。京都精華大学人文学部客員教授。合気道凱風館館長。
 東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。学位は修士(東京都立大学・1980年)。合気道七段、居合道三段、杖道三段。
 専門はフランス現代思想だが、取り上げるテーマはユダヤ人問題から映画論、武道論まで幅広い。

 安易なチャネリング情報に依存することなく、この世のあらまし、構造、歴史を限りなく学び、真髄を体得して行く中での覚醒をめざす。それは3次元と多次元の、究極の「ONENESS」(ひとつ)を求め、同時に究極の「ONE」(ひとり)をも極める「アラハバキ」の均衡作用により、メビウスの中の任意の「ある一点」に変革のスイッチを入れることができれば、そこから一気にそれは「インフルエンサー」としてメビウスの輪を高速で駆け巡る世界です。
 
 次なる澤野大樹ワールド:仙台講演第14章は2017年12月17日(日曜日)に展開されます。楽しみに参加下さい。