2017年8月31日木曜日

1048「丸太8」2017,8,31

 次の目的地は岩手町にある浮島古墳群です。ここは何度か訪れていますが、9月2~3日の神人さんの陸奥・縄文ライブの下見です。


 浮島古墳群に付いては以下の様に記されています。
「奈良時代後期から平安時代初期に造られた土饅頭式の小円墳郡。円型船底古墳で、屈葬形式の土葬墳である。発掘調査の結果、直刀、ヤスリなどの鉄器、ガラス玉、丸玉などの副葬品が出土した。岩手県指定史跡。
 県道岩手西根線の西根町との境近く、丹谷山と送仙山の間の台地にある古墳群で、小円墳群がなだらかな斜面に並びます。この古墳は大正9年(1920)に14基あることが確認されている。送仙山は岩手山・姫神山との三山伝説でも知られています。」

 送仙山を東に見て、西に雄大な岩手山が鎮座しています。草ぼうぼうですがライブには面白そうです。


 送仙山の関係する岩手山・姫神山さらに早池峰山の三山伝説は以下です。

「岩手山は、昔この地方の主宰者であった。そして姫神山はその妻であった。けれども彼女の容貌があまり美しくなかったので、岩手山は同棲を嫌がり、遂にお前は俺の目のとどかない所にいけといって、彼女を追い出すことになった。そしてその送り役にはオクリセンという家来に申付け、もし首尾能く使命を果さないときは、お前の首はないものと心得よとの厳命をした。姫は泣く泣くオクリセンを伴って出て行ったが、翌朝、岩手山が目を覚まして東の方を見ると、これ如何に姫神山は悠然と眼前に聳えているので、非常に怒って、口から盛んに火を噴いたために、谷は鳴り渡り、山は震いどよめいて凄惨を極めた。
 岩手山と姫神山の間にある送瀬山(おくりせん)の頭が欠けてないのは、その岩手山が憤怒の余り、彼の首を落としたためであり、その首をば自分の傍らにおいたのが、今右裾に見える岩手山の瘤であるし、また送瀬山の近くにある五百森と呼ばれる青草で蔽われた多くの丘のあるのは、姫が後の形見にと手に持った巻子(えそ)を散らしたものだといい、赤い小石の多い赤川は、やはり記念に姫がお歯黒を流した跡だということである。(『滝沢村誌』)」

「昔岩手山と姫神山は夫婦であったが、姫神が醜いといって離縁して、早池峰を妻としたので、三山は仲が悪かった。一方が晴れると一方が曇って顔を隠す。岩手山は姫神に遠くへ行けといったが、姫神は離れがたくて北上川を挟んで傍らにいた。岩手山は怒って火を吐いた。姫神山は名残を愛しんで形見の臍を撒き散らしたが、それが今の五百森である。(『滝沢村誌』)」

「早池峰山は男神。岩手山と姫神山は夫婦だったが、早池峰が姫神に横恋慕して女神を騙して我が物にした。そのため岩手山と早池峰山は中が悪く、この二つの山が同時に晴れたことはない。一説には岩手・早池峰両山が姫神を争って毎日戦ったので、神々が心配して二つの山の間に川を投げ入れた。それが今の北上川だという。(『東奥異聞』)」

 まだこの他にも逸話がありますが、面白可笑しく、注目すべき山々だったのでしょう。

 釜石環状列石は八幡平市柏台にあります。
「昭和28年に発掘調査された同遺跡は、縄文末期の人々によって作られ、環状列石群の中央のものは直径12mもある大型なもので、その中央には火を炊いた後がある直径1.5mの石囲いがある。北側には縦横2mの石を敷き詰めた祭壇状の張り出しがある。
 祭壇状の石敷きに立ち真南を見ると、中央部の石組みの延長上に岩手山の山頂部が見通せた。さらに周囲には、衛星のように直径3m程度の小型の環状列石が配置されていた。少なくとも大小7基の環状列石が確認された。
 この現場写真の一部や資料は八幡平市歴史民俗資料館に所蔵展示されている。環状列石の周囲には住居跡が発見され、さらにその付近からは土器、土偶、土版、石版、石器などが発見されている。これらは縄文晩期の亀ヶ岡式土器であるという。
 縄文時代の環状列石がさくら公園内に復元されています。」
 こちらも神人ライブの下見をしましたが、ストーンサークルのレプリカでも岩手山の麓で古の人たちの御魂と供応出来そうな楽しみなところでした。





2017年8月30日水曜日

1047「丸太7」2017,8,30

 先に紹介にあった、佐比内岩谷観音に縁が深い鳳仙寺に付いては色々当たってみました。
 その開山のきっかけは、遠野南部の殿様の奥方が盛岡で没し、この地で荼毘に付した事にはじまります。更に調べていたら、その経緯は、八戸の根城南部氏が遠野に移封し、その遠野南部氏初代殿様の奥方が病没したとのことです。
「寛文元年(1661)夏、八戸南部22代、遠野南部初代直義公の奥方・千代が盛岡で死没。
直義公(遠野移封後、直栄(なおよし)と改名)は、自領地の当地まで遺体を運び、荼毘に付しました。それを機に、佐比内舘前にあった小庵を火葬の地に移転して一寺を建立。」
 これが鳳仙寺の縁起です。

 更に遠野南部初代直義公の系図は以下のようです。

 家系図の八戸根城南部20代に直政の名があります。遠野南部初代の直義公の義父です。私は八戸藩2代藩主に直政公が居られる事は知っていましたが、こちらの直政公に付いては初めて知りました。私と同名ですのでにわかに、遠野南部の設立経緯に興味が湧きました。
 八戸2代藩主直政公は1661年6月2日生まれで1699年4月15日没ですが、八戸根城南部20代・直政公の方がかなり先輩です。
 八戸根城南部20代・直政公の奥方ネネ(清心尼)は兄の娘です。直政公亡き後、八戸根城21代当主になります。南部藩で唯一の女当主です。その清心尼について以下の記載があります。これを読むと、今NHKの大河ドラマの「女城主直虎」みたいです。

「南部編コラム25話 南部氏唯一の女の殿様・清心尼」から引用です。
「慶長19年(1614年)、根城南部家20代・直政の急死により、後継者とする男子がいなかったため、根城南部家では次の後継者が決まるまで、一時、直政の未亡人(本家・盛岡藩初代藩主・南部利直の姪)を当主とすることになり、本家である南部利直もこれを承諾しました。
 以前から八戸地方を手に入れようと思っていた利直は、一旦、直政の未亡人に21代当主をさせ、後に自分のめがねにかなった婿を取らせ、根城南部家を意のままに操ろうと企んでいました。
 そのことを察していた直政の未亡人は髪を切り、仏門に入り、「清心尼」という尼になりました。尼に婿を取らせることはできないため、利直は婿を取らせることはあきらめ、表面上は自分が後ろ盾となり、八戸地方を治めることにしました。

 利直に自領の田名部の地(下北半島)を取り上げられたとき、清心尼は抵抗を見せました。
 利直は「田名部の治安が落ち着くまで、当分の間、預かる」と言ったので、利直に当初書くつもりのなかった「田名部借上証文」を書かせることに成功したのです。
 この元和3年(1617年)3月31日付の証文により利直は毎年、「田名部を返せ」と催促されることになります。

 利直は清心尼の娘婿に自分に都合の良い養子を送り込もうとしますが、清心尼にきっぱりと断られてしまいました。ここにも、根城南部家を利直の意のままにはさせないという、清心尼の意地が伺われます。
 根城南部家22代当主には、新田家からの養子・直義に決まりましたが、寛永4年(1627年)、今度は利直から遠野・横田城への移封を命じられました。
 度重なる利直の仕打ちに、家臣たちの怒りも頂点に達し、一戦交えようという空気になりました。隠居していた清心尼ではありましたが「ここで利直に戦を仕掛ければ、主君・利直に背いたという口実で、九戸政実のように幕府に取り潰されてしまう」と根城南部家のため我慢するよう家臣を説得したといいます。

 遠野に移ってからは当主である直義は盛岡城常駐となったため、遠野には家老が置かれましたが、実質的には清心尼によって治められたといわれています。
 清心尼は八戸で14年、隠居してからは遠野で17年、実質的に31年もの間、当主を務め、59歳で生涯を終えました。」
出典:八戸市史(近世資料編)、みちのく南部八百年(地の巻)平成南部藩ホームページ
http://rekisi-kaido.owl-aomori.com/?eid=137
http://cardiac.exblog.jp/26736929/「おんな城主ものがたり その2 清心尼」

 更に以下の記載もあります。
「「清心尼」が殿様として在席したのは、夫直政に死なれた慶長十九年(1614)から息女の愛子に新田弥六郎直義を婿養子として、これを後継にした寛永四年(1627)までの14年間は公的に殿様としての公務をこなし、遠野に移封後も利直は直義を人質として手元から放さない為、「清心尼」が実際の実務を直義(改め直栄)に代わって遠野を治めました。
 これは亡くなる正保元年(1644)まで続いたのですから、後合わせて実に31年間の長きにわたって殿様としての勤めを果たしました・・・。
 正保元年に59歳で没したと伝えられていますので、夫直政に死なれ未亡人になったのは29歳の時ということになります…。
 夫直政はというと、天正十四年(1586)八戸南部氏18代政義(政栄)の二男として生まれていますので享年28歳と若死にでした…」
 https://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/27257002.html

 坂上田村麻呂とアテルイ・蝦夷の時代は西暦800年頃です。それから約800年後の1600年に直政・清心尼の時代があり、その後、今は約400年後です。

2017年8月29日火曜日

1046「丸太6」2017,8,29

 紫波町佐比内にある「岩谷観世音の巨石」に向かいます。正確な住所が分らず、ナビで紫波町佐比内字片山で適当に向かいました。少し徘徊したのですがそれらしき所がありません。再度ナビを設定して進むと何と派出所の交番に着きました。もうこれは駐在所のお巡りさんの聞くに限る。と中に入りました。
 お尋ねすると、直ぐ近くと言います。結局、パトカーで先導して案内してくださることに成りました。ありがたき、驚きの親切をいただけました。ここの「岩谷観世音の巨石」が私達をお招きくださっているのではと思いました。大事な重要な場所なのでしょう。




 お巡りさんは丁寧に案内して下さりました。私達がお巡りさんと観音堂の辺りを歩いていると、参拝に来た家族の方に「何か事件ですか?」と言われてしまいました。お盆のお祭りがもう直ぐ始まり時間で近くの会場に人が集まりだしています。忙しい中にありがたきお導きを頂いたお巡りさんに深くお礼をしてお別れしました。

 岩谷観世音のある岩谷は巨大な岩山でした。岩谷観世音に付いて以下の記載がありました。
「岩手県紫波郡紫波町佐比内字片山にあり、石灰岩の洞窟にて高さ三・五米、幅二・六米、奥行八・五米、入口は楕円形にて風光頗る佳なり。
 平安時代桓武天皇の延暦年中、征夷大将軍坂上田村麻呂東征の際、洞窟に隠伏せし蝦夷を平定し観音像を安置して戦勝祈願と戦没士卒の冥福を祈り創立せしものと伝う。
 本尊は聖観音像にして、当国第十四番札所なり。
 御詠歌
「ふだらくは よそにあらじ岩谷寺 大悲の光なべて照らさん」」
 
「佐比内岩谷観音の創建は延暦中期として今から1,210年程前に創建されたと考えられる。鳳仙寺が寛文元年に館前(元寺の屋号ある付近と推察)から現在地に移して建立されたとすると、お寺ができる約八六七年前からお観音さんはあったことになります。
 岩谷寺の堂宇所在場所は不明ですが、ご本尊が聖観世音であることから仏寺であったものを明治初めの廃仏毀釈によって廃寺とされ神格化されたものと思います。
 年代等は定かでありませんが、古くから佐比内の観音信徒有志で8月10日には鳳仙寺の和尚による法要をいとなみ念仏をあげていました。
 遠野街道からの参道には幟旗がたち地域ばかりでなく近郷の観音信徒の参拝が多くあり賑わいました。境内では花相撲があり、かき氷、綿あめ、おもちやの出店もあり、時には舞台をかき股旅踊りなどもありました。夜には子ども建が行灯を吊し8月10日の観音さんの境内は遅くまで大きな桜の木を中心に夏の夜まつりでした。(菊池 清発行「ゆいっこ」抜粋)」
https://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/29584045.html





 お巡りさんが最初に案内してくれたところは岩谷観世音の裏手にある小さな岩谷でしたが、これは凄いと思って見学していました。そこには立て看板に「福吾山宝泉洞」と記されてあります。お巡りさんが帰ったと思ったら戻ってきて、向こうのようだと言います。再度車に乗って数百メートル移動です。そこにはしっかりと鳥居があり、1年前に出来た立て看板に所縁が記されています。ひょっとしたらお巡りさんは良く知らなかったのかも・・・。






 ここは先に記されていた様に、坂上田村麻呂所縁のところで、蝦夷の霊の冥福を願って安置されたようです。聖観音が祀られています。お堂の入り口はかなり大きく、中も広く隠れ住むには十分な広さです。参拝して早々に失礼しましたが、巨大な岩の浄化能力が働いているのでしょう。
 国道396号線は別名、遠野街道と言われていて、ここは何度も走っています。近くの熊野神社にはあわ歌の中山博さんを同行して参拝したことがあります。
 今回、この岩谷に巡り合うご縁をいただけた事はありがたいことです。平行宇宙に遭遇した観があります。そのことは次に触れます。

2017年8月28日月曜日

1045「丸太5」2017,8,28

 雨も上がり、車は快調に走ります。宮守を経由して目指すは花巻市大迫の「早地峰と賢治の展示館 猫の事務所」です。ここも私は初めての訪問です。
 途中、宮守のめがね橋が正面に見えます。綺麗なアーチです。停車して写真撮影です。


 猫の事務所のある大迫交流活性化センターはお盆のお祭りでしょうか、駐車場が閉鎖されてイベント広場の様になっています。クラシックな洋風建築が一際目を引きます。旧稗貫郡役所を復元した建物で、そこが目当ての猫の事務所です。広場には弘前ねぶたが飾られています。


以下が展示館の紹介です。
「平成19年10月にオープンにした花巻市は、本館と展示館の2つの建物からなっております。
 展示館は旧稗貫郡役所を復元したもので、宮沢賢治の童話「猫の事務所」のモデルではないかと言われております。
 館内には早池峰と賢治にかかわる作品紹介、賢治が常宿としていた旧石川旅館の部屋再現、風の又三郎の舞台ともいわれる猫山のモリブデン鉱石などを展示しています。
http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/db1bac12cf0ac27b4cabea469fb65cf3

 宮澤賢治の童話「猫の事務所」のモデルとも言われている建物ですから、展示室には「猫の事務所」の登場人物が、黒猫の事務長さんはじめ、あちこちに配置されていて、楽しい雰囲気です。





 その「猫の事務所」のあらすじを紹介します。
「軽便鉄道の停車場のちかくにある猫の第六事務所は猫のための歴史と地理の案内所。そこには大きな黒猫の事務長、一番書記の白猫、二番書記の虎猫、三番書記の三毛猫、そして、四番書記のかま猫(釜猫、竈猫の表記をとる本もある)がいた。
 かま猫は三人の書記にいじめられながらも、黒猫の支えやかま猫仲間の応援もあり、仕事に励み続ける。しかし、かま猫が風邪をひいて事務所を休んだ日、三人の書記の讒言により、黒猫までもがかま猫を憎むようになり、かま猫は仕事を取上げられてしまった。
その様子を見た獅子は事務所の解散を命じる。語り手の「ぼくは半分獅子に同感です。」という言葉で物語は閉じられる。」

 その解説です。
「差別やいじめの空しさを描いた作品であり、責任者である局長が学問や仕事を、かま猫への嫌がらせに使った瞬間に、事務所から仕事が奪われるという構成となっている。 賢治は獅子の決定に半分同感であると結んでいる。
 なお、特徴的なラストは、草稿の段階では「みんなみんなあはれです。かあいさうです。かあいさう、かあいさう。」となっており、発表版とは大きく異なっている。」
(ウイキペディアより)

 大迫は賢治の沢山の作品の舞台になっていて、童話「風の又三郎」、「注文の多い料理店」、「どんぐりと山猫」他、詩「春と修羅」などがあります。後、賢治も登ってこよなく愛した早池峰山の蛇紋岩の世界もこの地が登山口になっています。その大迫での賢治の土性調査で宿泊した石川旅館の事など盛りだくさんの展示内容です。

 展示の中で初めて知った興味深いことがありました。それは賢治とダルトン・プラン教育のことです。
 菅原隆太郎氏は羅須地人協会跡地の賢治詩碑(リンク)建立発起人の一人で、大迫小学校の校長・大迫町長を務め、「ダルトン・プラン教育」を実践した方です。賢治が大迫を訪れた際、当時の新しい教育方法・ダルトンプラン教育に高い関心を示したことから互いに意気投合し、親交を深めます。その両者の親交の深さを証明する、隆太郎宛てに直接贈られた
「国訳妙法蓮華経」などの貴重な展示もされています。

 そのダルトン・プラン教育とは「1920年(大正9年)にアメリカのバーカスト女史がマサチューセッツ州ドルトン市で創始した、一人一人の子供に合わせて自学・自習させ、能力や興味を引き出す教育方法。大迫小学校では1923年(大正12年)6月11日より実施。1932年(昭和7年)、戦争の時代に入り統制教育へと進んだため、大迫小学校でのダルトン・プラン教育は幕を閉じた。」

 賢治の世界は奥が深く興味が尽きません。天気も回復して来たので暑さが戻って来ました。持参した冷凍スイカを車中で食べてスッキリして出発です。

2017年8月27日日曜日

1044「丸太4」2017,8,27

 雨は降ったり止んだりです。車は花巻市へ向かいます。目的地は花巻市高松にある花巻八景の「平良木の立岩」です。猿ヶ石川沿いにあります。今回始めて行きましたが、その存在を知って行って見たいなと思っていました。この地の巡りで昼食に良く利用する、八福どじょう庵の入口の直ぐ傍なのです。これまで近くの道路を何度も走っていましたが、今回ようやく縁する事が出来ました。
 以下の様に紹介されています。
「花巻市高松の平良木(ひららき)地区にあるこの立岩は猿ケ石川のほとりに垂直に切り立った岩場で岩場と周りの木々が作り出す景観がとっても素晴らしい場所。」
 雨の影響で猿ヶ石川の水量が増し、滔々と流れています。


写真をみると川底が露出して、イギリス海岸のように見えるものもあります。垂直にそそり立つ立岩は壮観です。
 

 
 以下のサイトには沢山写真が紹介されています。

 丁度昼時でしたので、八福どじょう庵に伺ったのですが、沢山のお客さんで諦めて東和町の道の駅でお昼を頂きました。
 お腹も満たされ、次の目的地は花巻市東和町田瀬湖の田瀬大橋近くにある「安倍貞任の隠れ岩」です。その所縁、阿倍貞任について以下の様にあります。
「前九年の戦いにより貞任は、頼義の子頼家に追われ雨露を凌に格好の岩屋があり、そこで隠遍生活をして川魚・山菜・獣肉等を食して長い間住んでおり、その間、後方の砥森連峰中の小砥森山に居城を構えることを計画したが、頼家に発見され北方へ逃げ去ったとされ、以来、阿倍貞任隠れ岩として、言い伝えられている場所です。」

「阿倍貞任(1019~1062)は、古代末期の東北を代表する武将の一人である。前九年の役の抵抗を指導し現地の人達からは「高天の如く」仰がれた。
 古代末期の東北辺境に独立を勝ちとっていこうとする戦いは阿倍氏のもと彼においてひとつの頂点を迎え、清原氏、藤原氏に継承され結実するのである。
奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、志和、岩手郡)の豪族阿倍氏は、この地に産する馬と砂金をうしろだてに、胆沢郡衣川に本拠をかまえ、十余の城柵に一族を配してその勢力は強大であった。これを国司として牽制することを源頼義が任命された。
 阿倍氏は反抗する意志はなく衝突をさけようと努めた。ところが頼義の任期が切れる寸前で紛争がおきた。
 原因は阿倍貞任が、頼義の武将の妹に結婚を申し込んだところ、貞任が蝦夷の子孫だという理由でことわられたことにあった。
 戦いは、長い年月にわたり一進一退を続けた。しかし、1062年頼義が出羽の豪族清原氏の応援を得たことにより一挙に終局をむかえることとなり、貞任は13才の我が子千代童子とともに戦死した。」
 次のサイトには写真がありますので隠れ岩が良く見えます。

 残念ですが隠れ岩は草に覆われてその全容が分りません。途中まで登ったのですが足元が悪く、滑ります。時季を改めて再度訪れることにして引き返しました。

後で気が付いたのですが、ここでトレッキングシューズをサンダルに履き替えたのですが、シューズを片足道路に忘れて来たようです。翌朝、宿を出る時に無いのに気づいたのですが時既に遅しです。何と言うチョンボでした。

2017年8月26日土曜日

1043「丸太3」2017,8,26

 更に経塚山に
「藤原の伝承はこの山に満ち溢れていて、経塚山は藤原秀衡が納経した山。途中にある胎内岩は秀衡夫人が安産を祈願した場所だという。」
 との記載とその写真がありました。
 今回は確認できませんでしたが以下の様に胎内岩、そして登山口には束稲荒神としてアテルイの像が山中にあるようです。

 胎内岩。

 束稲荒神はアテルイ(阿弖流為)だそうです。

 賢治も経埋めるべき山と記していますが、束稲山なのか束稲山系の中の経塚山なのか。この事に付いて経塚山でないかというコメントがありました。
「平泉を訪れた西行は山家集に『陸奥の国に平泉に向かひて たはしねと申す山の侍に 異木は少なき様に桜の限り見えて 花の咲きたりけるを見て詠める』として
  きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかにかゝるべしとは
の歌を詠んだと記している。
 一方、平泉からは国土地理院の地図でいう『束稲山(595.7m)』の頂上は見えないはず。平泉の人たちは平泉から見える音羽山、経塚山、駒形山などの峰々を総称して『束稲山』と言うようだ。
 とすれば、賢治が「経埋ムベキ山」として選んだ『束稲山』は経塚山(519.1m)の方だ、というのが現時点での私の結論である。(藤原秀衡の納経所であったという由緒ある)経塚山という山の名そのもが「経埋ムベキ山」として相応しいということもあることだし。」
http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/e2a2aaa993f22e3e90a88ad45a1ca1ba

 次の目的地は一関市大東町にある「観福寺の巨石群」です。観福寺に付いては以下の様に紹介されています。 
「建久2年、工藤祐経の長男犬房丸が寺を建立して、円長法印を迎えて開山したといわれている。義経北行伝説・源義経主従が投宿した際、四天王の一人亀井六郎重清が残したと言われる笈を所蔵。また、弘法大師の霊場八十八ヶ所の仏像が一番から八十八番まで安置されており、奇岩怪石の間の小径を伝わって巡礼ができる。」

 義経北行伝説・源義経主従が投宿した際に付いて詳しい記載は以下です。
「平泉から脱出した「義経」は、最初に、佐藤継信/忠信兄弟の父親「佐藤基治」を訪れたとされています。そして、そこから束稲山を越えて、現在の大東町猿沢に入り、「真言宗石清山観福寺」で宿泊したそうです。この「観福寺」には、義経四天王「亀井六郎重清」が、宿泊のお礼として、砂金を入れた「笈(おい)」を置いていったと伝わっており、現在でも寺宝として保存されています
 但し、この寺院は、建久二年(1191年)、「工藤祐経」の長男「犬房丸」が寺を建立して、円長法印を迎えて開山したと伝えられていますが、それだと北行伝説と、時間的ズレが・・・」

 お盆ですのでお墓参りの方々が沢山居ますが、お墓のほうへ向かわれて私達はゆっくり裏山を散策できました。
 山門を入った正面には、巨石、巨岩が目に入ります。その巨岩の上にお堂が見えます。四方懸崖(けんがい)造りの観音堂です。この観音堂へ登る石段は横からみると石段ではなくて橋になっていて、下は池です。お堂の周りの巨石の破砕の方向がまちまちでどういう造形が成されたのかな、と思ってしまいました。





 観音堂の左手に階段があり、裏山に岩山に登って行きました。上記にある様に、奇岩怪石がそこかしこにあり、石塔も立てられ、小さな霊場です。






 蝉が木に静かに止まっていましたが、そこかしこで蝉が孵化していました。