2017年5月12日金曜日

937「法華経12」2017,5,12

 私は人との接触が苦手です。授業(講演も)するなんてもってのほかのことなのです。
もうこの歳になって、魂も少しは成熟したのか、かなり平気になり、嫌な気分をサッと切り換えることが出来るようになりましたが、若い頃は、これから授業に出かけねばならないという時になると、重苦しい気分に襲われたものです。 
 そんな逃げ出したいような気分を吹っ切って、心の中で「エイッ」と気合を入れて物理準備室を出てゆきます(先生方と関わりたくないので職員室にはいないで、準備室にいたのです)。
 教室に向う廊下では、敵陣に「ワー」と、単身跳び込んで行く戦士のような気持ちで勢いよく前進します。教室に入ると、たいていの場合、前の授業の書き込みが黒板に残っているので、「日直、黒板!」と大声で叫びます。 
 もうここまで来ると、すっかり開き直れていて、これまでの遺伝的自分は姿を消し、「別の自分(神的自分)」が表にあらわれてはたらき始めます。 

 他の先生方や生徒によると、私はいかにも楽しそうに、伸び伸びと、生徒が好きでたまらないという感じで授業しているのだそうです。本当に不思議です。私にはそれがとても信じられません。 
 私は人が嫌いで、生徒も大嫌いで、授業がイヤでイヤでたまらないというのにです。 
 ですから最後の最後まで覚悟が決まらずウジウジしているのですが、ついに開き直って覚悟を決めて攻め込んで行くときには、そんな「弱気の遺伝的自分」は跡形もありません。 
 とにかく、四の五の言わず、計算せず、「ただ思い切って跳び込んで行く」という覚悟が定まらないと、遺伝的自分、過去の延長上の運命を吹っ切って、新しい自分を打ち出し、新しい天地を切り開いてゆくことはできないと思います。 

 というのは、どのような「思い」も遺伝的自分、過去の運命軌道の自分から出てきたものなのですから、そんな思いを断ち切って(思い切って)、「裸の身ひとつ」で跳び込んでゆかねば、「本当の自分(神的自分)」を表に出して生き生き自由にふるまうことは出来ないのです。 
 いくら悩んでもいいけれど、最後は覚悟を決めねばなりません。最悪、死ねばいいだけのことなんでしょう。だから思い切って、エイッと跳び込んでゆけばいいのです。そうしたら、なぜか最高の自分が現れてはたらき出すのです。 

 ここのところを学ぶ公案としては、「香巌上樹」という公案が有名ですね。 
 香巌禅師が弟子達に問題を出します。 
 崖から枝を突き出した樹があって、その枝を僧が口で銜くわえてぶら下がっているのです。その時、崖の下に人がいて、仏教の真理についての質問をするのです。 
 さて、その人の質問に答えれば地面に激突して死んでしまうでしょう。答えなければ、僧としての本分(身を犠牲にしても人のため、世のために尽くそう)に反します。 
さて、この僧はどうすればいいのか、というのが香巌さんの公案です。 
 この公案の解答は、いたってすっきりしたもので、思い切ってこの人のために答えてあげればいいのです。 
 そうしたら決して地面に激突することはなく、宇宙全体が、この僧をしっかり抱きかかえて生かしてくれ、質問をした人のための最善の解答が口からとび出すようにしてくれるのです。 
 どうしてそうなのか分かりませんが、そうなのです。世界はそう出来ており、自分はそう出来ているのです。 
 死ぬ覚悟なら生かされるけれど、生きようと足掻あがくと死ぬことになるのです。 

『碧巌録』に、こんな公案もあります。 
 慧忠国師に粛宗皇帝が「どのように国を治めてゆけばいいのですか」とたずねました。 
国師は、「帝よ、仏の頭を踏んで進んで行きなさい」と答えました。 
 仏さまが飛び石のように並んでいて、その頭をピョンピョン跳んで行けなどと言っているわけではありません。 
 政治なんて五里霧中で、先のことなんて誰にもサッパリ分からないのです。計算したり、部下の意見を聞いたりするのはいいけれど、最後の最後は、自らの責任で断を下して、死ぬ覚悟で、エイッと思いっきり空中にとび出してゆくしかないのです。 
 ところが、不思議なもので、思い切って自分を捨ててとび出してゆけば、なぜか踏み出した足の下に仏さまの頭が現れるのです。 
 仏様が自分を支えてくれ、仏をも超えるような妙策が湧き出して来るのです。 
 このようにして、次々、エイッ、エイッと空中に躍り出してゆけば、一歩、一歩、踏み出すそこになぜか仏様の頭が現れて支えてくれ、気づいてみれば、国民が感謝し、ほめたたえてくれるような、最善の一連の施政が行われていたということになるのです。
 自分にはまったくそんな自覚はないし、そんなつもりもなかったのですが、そうなるのです」