2017年3月24日金曜日

888「蝦夷7」2017,3,24 清水寺・聖観音

 次の目的地は栗原市栗駒岩ヶ崎にある清水寺・聖観音です。清水寺は街外れの山の手の方にあります。お寺に着く頃には雨です。小雨程度ですから問題なくお参りできました。
 この清水寺には何度も訪れています。庭園が整備されていて四季それぞれの美しさが楽しめるところですが、今の季節が一番殺風景な感じです。雨模様で少しどんよりして重い雰囲気がします。



 聖観音堂を参拝し暫し、雨宿りをしながら木内さんは、「ここには白龍がいて流れている。」と言います。そして、雲飛ばしならぬ、雨を止ませようと手を尽くしています。


暫くすると明るくなってきて、雨が止み、太陽が輝き始めるではありませんか。木内さんの意識エネルギー、念の力で垣間見る不思議世界です。

 この清水寺は坂上田村麻呂所縁に奥州七観音の1つで、次のように記されています。
「大同2年(807)、坂上田村麻呂の奥州進攻のため、この地に滞陣したとき霊夢をみて将軍の守り本尊として兜に埋めてあった閻浮壇金の金銅仏(5.5cm)の聖観音像を勧請し、東北ではまれにみる名刹霊場となっています。」

 このお寺の紹介に以下様な表記があります。
「清水寺の今昔 
 栗駒町岩ヶ崎字長町の奥まったところに観音寺がある。正しくは真言宗音羽山清水寺(きよみづでら)である。そのまた奥に町の鎮守熊野神社が鎮座まします。 そもそも西国三十三ヶ所、第十六番の札所京都の音羽山清水寺と山号寺名が全く同じであることは、地形が似ていることから、その寺に擬して建立したゆかりがあり、寺名も同じになったと、先住職から聞いた記憶を思い起す。 
 寺伝によれば開基は遠く、大同二年(八〇七)世は平安の頃、将軍田村麻呂が奥州蝦夷征伐のため、当地に駐屯した際勧請されたとある。
 その昔岩ヶ崎は石崎山を突端とする一面海のみ崎だったのが、千二百年前のその頃には、もう海でなくなり、見渡す限りの湿地帯と化し、丘の高いところにチラリ、ホラリ人家らしい蝦夷の住家だけがあった平野ではなかったか。 

 その平野を一望するここが観音寺建立に適当であるとし、蝦夷を平定したお礼に勧請されたのが、現在の清水寺である。この年金成町津久毛大迫の白山社にも、田村麻呂将軍が観音堂を創建している。 それから四一六年経て、親らん、道之、源空らによる鎌倉仏教の最も盛んだった貞応二年(一二二三)三迫の森館城主、弥平兵ェ、平師門夫婦らによって当時寺域二九万八九七三坪を以て、七堂伽藍に水屋、鐘楼、庫裡等十二宇と、築山泉池まで完備した。実に見事な清水寺を建立したが、寛正六年(一四六五)春、惜しくも野火のため建物が殆ど焼失した。」

 この表記による注目点は、「その昔岩ヶ崎は石崎山を突端とする一面海のみ崎だった」そして「千二百年前のその頃には、もう海でなくなり、見渡す限りの湿地帯と化し、丘の高いところにチラリ、ホラリ人家らしい蝦夷の住家だけがあった平野ではなかったか。」と言うところです。

 現在の地形で過去を推し量ることは先入観でこの地の意味を解読することが出来ません。奥州七観音の内の奥州三観音と言われる石巻市の梅渓寺牧山観音、松島町の大仰寺 富山観音、涌谷町の箟峯寺 箟岳観音はかつて御崎の先に祭られていたと言います。その図を見た時ににわかに信じられませんでしたが、小高く、見通しの効く要所にお祭していたのでしょう。昔は交通路も海、川を使い、陸路が整備されたのは大分後になってのことでしたでしょう。

 いずれにしても各所に観音堂をお祭りする目的は、滅ぼした蝦夷たちの戦勝祈願、鎮魂調伏だったのでしょう。この栗駒の地にも多くのまつろわぬ民がいたのです。

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