2017年3月23日木曜日

887「蝦夷6」2017,3,23 山神社

 昼食は、国道47号線を古川方面に引き返し、大崎市岩出山にある本格手打そば処せいじん庵です。民家を改造してのお蕎麦屋さんです。
 こだわりのせいじんざるそばを頂きました。5種類の薬味を味わえて、手打ちならではの香り、歯ごたえ、喉越し、申し分ないもので、美味しいお蕎麦で皆さんにも好評でした。



 人気のお店のようで席は満席です。気さくなご主人が色々話しかけてくれます。午前中に訪れた荒脛巾神社はこのお蕎麦屋さんの近くにありますが、ご主人からも、そこが産土神様として子供の頃からお祭していること。又、主には水いぼの神様としてこの地区の皆さんは大事にお参りしているとのことです。

 お腹も満ちたところで午後の巡りの開始です。目的地は栗原市一迫王沢字北沢十文字にある山神社(さん)です。県道17号線を北上すると道路沿い左手に鳥居があり、そこの丘に神社はあります。由緒に以下の様にあります。
「仙台藩儒田辺希文はその著「封内風土記」に本社のことを次のように記している。
 伝え云う。人皇第25代武烈天皇、故ありて本州に配せられ、久我大連・鹿野掃部祐の両人扈従す、天皇崩後の後天平山に葬り社を建てて神霊を祀り山神と称した。久我氏は連綿今(明和9年ころ)に至る。皇居の地を王沢・王沢宅といい、天皇の宸影は別当修験大性院家に蔵す。」
 
 かつて、最初にこの神社を知った時に、あの武烈天皇がこの地に来ているという事の驚きでした。真偽は分かりませんが、火の無いところに煙は立たない、と言いますから果たして如何でしょうか。武烈天皇は継体天皇の前の天皇です。継体天皇の後から今の天皇に至る系統があります。そこで何らかの異変があったと史実ではあります。
 武烈天皇とこの山神社について以下の記載がありま。長文ですが引用します。

「武烈天皇(ぶれつてんのう)」について語りたいと思います。
 本来「天皇(てんのう)」というよりも時代的には「大王(おおきみ)」という尊称で表現したほうがふさわしいのかもしれませんが、天皇と呼んでおきます。
 この天皇はなにかと話題性があり、古代史ファンが最も興味の惹かれる一人といっていいのではないでしょうか。
 厳密にいうと次代の「継体(けいたい)天皇」即位の謎が魅力的なため、自ずとこの天皇にも注目が集まるといったところでしょうか。
 なにしろ、この天皇をもって「仁徳(にんとく)天皇」に連なる血統が絶えたといい、あるいはそのときにひとつの王朝が終焉したのではとまで叫ばれているのです。
 武烈天皇には子がなかったといいます。
 それでも、いくらでも他に候補が存在しただろうと考えられるなかで、仁徳天皇の父親である「応神(おうじん)天皇」の5世孫という、相対的にはだいぶ血が薄い継体天皇が次代の天皇となりました。そのことが物議を醸しだしているのです。
 この武烈天皇について、『日本書紀』の記述はあまりに過激でございます。
 少なくとも、万世一系を謳う天皇家のご先祖様が、ここまでサディスチックかつ極悪非道な人物として書かれていいものだろうか、と思うほどの残忍無比な人物像が描かれております。
 多くの有識者達は、『日本書紀』の編者の意図が、継体天皇即位の正当性への促しと、継体天皇の血の薄さから視点を外させるところにあったのだろうと捉えているようです。
 それにしても、日本書紀の編者に、もしそのような意図があったのだとすれば、抱き合わせで万世一系についての疑念まで目覚めさせてしまうのはなんとも皮肉な話でございます。
 さて、宮城県には武烈天皇の伝承が色濃い地域があります。
 諸々の資料・史料から、武烈天皇、または小長谷若雀(こはせわかささぎ)や小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかささぎ)など、武烈天皇をあらわす呼称が確認できたものをあげてみます。~省略~
 この中で、武烈天皇の御陵とも伝わる栗原市姫松「山神社」の由緒は、この地の武烈天皇伝承のあらましを最もよく語っているので、当地の教育委員会(旧一迫町教育委員会)と財団法人宮城県文化財保護協会が設置した境内案内版の説明を転記致します。

――引用――
 第二十五代武烈天皇が故あって奥州に配せられ、寵臣久我大連と鹿野掃部之祐両人を従えてこの地に下り崩御されたと伝えられのちにこれを祀って「山神社」と号した。
 一説には武烈天皇が当地に追放され、久我大連が天皇を慕ってこれを祀ったとも伝えられている。
 天皇の配所もしくは神として祀った地が天皇山(王山林)、久我等のいた地が王沢だと伝えられている。宝物として陣釜、神鏡が久我家に、阿、呍、の御面ニ面と天皇が着たと伝えられている錦の着物の一部分が虫食いの状態ではあるが現在も神社に保存されている。
 現在の社殿は、天保十三~十五年(一八四二~一八四四年)に再建されたもので、昭和三十四年現在地より北西約三百メートルの低地にあったものを遷宮したものである。旧鎮座地に天皇に関する碑が残っている。」
         
 階段を登ると丘の上の殺風景な中に右手に武烈天皇を祀る社があります。


 木内さんはこの地を参拝して以下の様なお話をされました。「武烈天皇はここには来ては無いのではないか。そもそも継体天皇の前は、出雲のスサノウの流れの大王が大和の辺りの地を治めていたのですが、そこに535年に隕石の落下があり、日本の中心地、倭人の都は跡型もなく消えたのです。その隕石跡が枚方・交野の星田妙見宮にあります。
 そこへ朝鮮から来ていて福井、若狭の辺りにいた継体天皇になる方達がその大和に地に入り、大和朝廷を打ち立て、これによって、縄文時代、弥生時代の本当の歴史が消され、歴史は変えられたのです。ですから継体天皇以前の歴史に記されてある事は事実と違い、武烈天皇の存在も疑問だ。」といいます。



 いずれにしても、この地には当時の大和の地から逃れ来た、高名な方が潜んでいたのかもしれません。