2017年2月6日月曜日

842「奈良田・富士14」2017,2,6

 富士吉田市内の幹線道路は除雪が出来ていますが、脇道にはいるとかなりの積雪です。次の目的地は北口本宮冨士浅間神社ですが、こちらはパスして浅間大社の奥、富士山よりに200mほど進んだ所にある「大塚丘」に向かいます。北口本宮冨士浅間神社が始めに祀られていたのが大塚丘です。

 北口本宮冨士浅間神社は主祭神は木花開耶姫命ですが、以下の様な由緒のある神社で、富士山を背にし、立派な境内地を有しています。
「景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され、
「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。
 そのお言葉に従い大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。 
 天応元年(781)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立しました。これが現在社殿のある地で、ここに浅間大神をおうつしし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。
 古代、富士のような高い山、美しい山は神のおわす山として人が入ることは禁忌でした。よって当地は、ご神体の富士山を遥かに拝み祭祀を行う場でありました。現在拝殿を囲んでいる巨木はその神域を物語っています。
 時代は下って、平安時代の頃に山岳信仰が普及し、登山を実践して修行する修験道が各地で広まるとともに富士講が出現し、発展するにつれ、御山に登ること即ち祈り、とする「登拝」によって、人々は山頂を目指すようになりました。
 初めて富士登山を行ったのは、大宝元年(701)の役小角という行者であるとされ、のちに富士講の開祖と仰がれる藤原角行師は、天正5年(1577)に登山しています。」

 また大塚丘に以下の様な表記もありましたが、富士山は火山活動が盛んで登山できない山であった時期もあったのです。
「大正年代、古墳ではないかと発掘されたが何も出て来なかった。しかし人工の丘であることは間違いなく、富士山が頂上から常に火を噴き、人々の登頂を拒み続けて登る山でなく、拝む山であったころ富士をおそれあがめ敬う人たちが力を合わせてよう拝の聖地を築いたのではあるまいか。趣旨は少し異なるが江戸その他に見られる富士塚に類するものと考えられないこともないのである。」

 雪の道路にどうにか駐車して大塚山に参拝しました。鳥居の奥の杉木立の小高い丘は雪で覆われていて、まだ誰も足を踏み入れておらず、純白の世界です。照らす太陽の光にキラキラと輝いて私たちを迎えて下さいました。



 丘の中心部には、山頂を背にして社があり、浅間明神を祀る石祀が祀られています。日本武尊が富士山を遥拝したところで、ここは山霊の降り立つ場所であるといわれ、エネルギー満ちる聖域のようです。樹間を通る太陽の光は雪の輝きをもたらし、清清しい中であわ歌を気持ちよく唱和できました。歌った後のお言葉です。

「うみう うみう うみう
 生まれ出で来る新たへ向かう。皆々、元なる所縁の地を踏みて、
 新たなその身を立てて、元へと帰られませ。」11:58



 この地が、今朝のお言葉にあった
「本日参るは 二ヶ所。
 古き祠は 三 三 三の三無を表す。
 谷の向こうのその地は、高きより発して伝える。」
 のお言葉の「古き祠」の2つ目の場所でした。この大塚丘でのお言葉にあるように、所縁の地を踏んで、新たなその身を立てて元へ帰る、新たへ向かう用意が出来たのでしょう。身体も軽く、スッキリと心地良く終えることが出来ました。

 しかし、「三 三 三の三無」とは何なのか今ひとつ腑に落ちないのですが、どの様な意味なのでしょうか。そう思っている時に以下の図表に遭遇しました。神智学的概念による階層のロゴスのようです。
 ある次元の中にある3つの仕組みを表す三角形、それらの4つの三角形が無しになり、新たな仕組みに変わる、ということなのでしょうか。私には判断できる内容ではありませんが如何でしょうか。



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