2017年1月4日水曜日

809「陸奥中心15」2017,1,4

 今回の「陸奥中心柱穴の旅」は早池峰山を中心として考えていた予測は見事に確認できました。ゴンドワナ大陸の融合という国土形成のエネルギーも含めて、早池峰構造帯の存在は大きいと思います。
 是まで陸奥の地は大和朝廷から見ると東北の方位で、鬼門の地であり、坂上田村麻呂のアテルイを打ち負かした後も、蝦夷、まつろわぬ民を支配し、謀反を防ぐ手段が色々講じられていました。それだけ恐れられていた、とも言えます。
 東北、陸奥は縄文時代から続く豊かな地であり、アラハバキ神に代表される信仰も含めてその精神性をも支配する為に大和の神々、仏教を用いての教化政策も行なわれていました。特に岩手県遠野市は特別な地であり、そこには数々の封印の呪法が成されていたようです。
 陸奥に成されたその呪法も再々、あわ歌の響きを持って巡る旅を行なうことで、大いなる光と響きによって新たな展開が起きるような予感、そんな気がします。
 早池峰神社であった5ヶ所の巨石を巡る2月の建国記念日の旅はそれらの呪法、封印の解除として、将に新たな世界を開くものになるのではないかと楽しみです。
 その前に果たして如何様な呪法が成されているのか知る必要があります。そのことを的確に纏めたものに遭遇しました。それは「早池峰神社の呪法」と題して「不思議空間遠野」にあります。その内容を少し簡潔に紹介します。
http://dostoev.exblog.jp/15040292/

「早池峰神社の草創は大同元年(806)来内村(現在の上郷町)の猟師藤蔵が早池峰山頂において神霊の霊容を拝して発心し、参道を開いてその年の6月18日山頂に一宇を建立して神霊を祀ったと云う。
 嘉祥年間、天台の高僧慈覚大師が、この地に来て早池峰山の開山の奇端を聞き宮寺として妙泉寺を建てた。というのが、現在一般的になっている由来である。しかしこの9世紀前半というのは、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の頃でもあった。
 古来、遠野には閉伊族という有力な蝦夷がいたという。そして遠野には、蝦夷の首領である岩武の伝説が存在する。蝦夷征伐の坂上田村麻呂が綾織の霊山である笠通山の頂上に立って、綾織町寒風の羽黒堂に隠れ住んでいる岩武を、発見したという。そして現在の羽黒岩にある羽黒神社で、岩武を弓で射殺したという伝説である。
 ただ以前知り合った考古学者で遠野を調査した人物に聞いたところによると「田村麻呂は遠野の地まで来たのでしょうが、戦は行われず和平交渉で済んだものと思われます。」という事であった。ただ弘仁二年(818年)閉伊村の蝦夷が反乱を起こし、この時の征夷大将軍である文屋綿麻呂が二万六千の征夷軍を送り込んで閉伊族の反乱を鎮圧したが、これが蝦夷最後の抵抗戦争であったと云われている。それならばやはり、遠野の地で蝦夷討伐という名目の戦が行われた事となる。つまり最後まで朝廷にとっての"まつろわぬ者"が遠野に住んでいたという閉伊族(蝦夷)だったのかもしれない。
 
 延暦20年(801年)に田村麻呂は、窟に籠る蝦夷を激戦の末に打ち破り、蝦夷を平定したとされる。田村麻呂は勝利を毘沙門天の加護と信じ、その御礼に京の清水の舞台を真似て九聞四面の精舎を建て、百八体の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として、窟毘沙門堂と名付けたというのが、平泉の達谷窟毘沙門堂である。しかし毘沙門像はその後、黒石寺(水沢市)藤里毘沙門堂(江刺市)立花毘沙門堂(北上市)成島毘沙門堂が建立されている。毘沙門像の顔が田村麻呂に似せてあるという事から蝦夷を平定した後も、毘沙門像として田村麻呂が蝦夷地を鎮護しまた蝦夷の怨霊をも調伏し、鎮めているのであろう。
 
 そして鬼門の地である岩手に、坂上田村麻呂がもたらした毘沙門天像の力とはまた別に、瀬織津比咩という謎の女神が朝廷側により運ばれていた。毘沙門天であろうが、瀬織津比咩であろうが、当時の朝廷の鬼門を押さえるという意志が働いた為に、これらの神々を蝦夷の地まで運んだのである。つまり、それほどまでに鬼門の地に住む蝦夷を恐れていたのだろう。
 瀬織津比咩は、天照大神の荒神であり、穢れ祓いの神と共に、水と桜を司る神でもある。水といえば庶民的には不動明王が有名なのだが、実は瀬織津比咩との関わりあいがある事がわかっている。
 水の流れや滝そのものが瀬織津比咩という女神なのであって、そこを祀る祠には後に流行した不動明王が祀られている為に、瀬織津比咩が隠れてしまっているのである。
 その穢れ祓いの三女神は遠野に光臨しており、それぞれ遠野三山に祀られている。早池峰山に瀬織津比咩、六角石山には速秋津姫、石上山には速佐須良姫がいる。これは穢れ祓いによる浄化システムがそのまま、遠野三山で三角形を形成しているのだ。そこに関わるのは、直接的な水の流れと間接的に人の罪と穢れを溜め込みそれを川という流れに戻す役割として桜の存在があったのかもしれない。川沿いには桜並木が多く、桜は根が深く沢山の保水力を備えている為か、川が氾濫し多くの死者が出た後に、日本人は多くの桜の木を植えている。
 つまり桜は、死者への鎮魂の意味をも備えていたのかもしれない。瀬織津比咩には、死の匂いがする。いや死というよりも、伊邪那岐命が黄泉からの帰還の為に禊祓いをして生まれた瀬織津比咩には、生と死の狭間に揺れ動く魂の平定という役割があったのだろう。
(810へ続く)