2017年1月31日火曜日

836「奈良田・富士8」2017,1,31

 昇仙峡から山を下り、甲府市内を一望できる展望所を通り、次の目的地の甲府市酒折にある「酒折宮(さけおりのみや)」に向かいます。
 酒折宮は日本武尊(やまとたける)所縁の古社で八人山の南麓にあり、その由縁は以下のようです。
「酒折宮は山梨県で唯一、古事記、日本書紀に記載のある古い神社です。記紀には、日本武尊が東夷征伐の帰りに酒折宮に立ち寄り、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
 と片歌で問いかけたところ、御火焚の者が 「かかなべて夜には九夜日には十日を」
 と片歌で答えたことが記載されています。この問答歌のやりとりが日本における連歌の起源とされ、酒折宮は「連歌発祥の地」と言われています。
 当宮の由緒によると、日本武尊が酒折宮を発つときに「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と言われ、自身の身を救った「火打嚢(ひうちぶくろ)*」を塩海足尼(しおのみのすくね)に授けました。日本武尊の御命を奉戴した塩海足尼がこの「火打嚢」を御神体として御鎮祭したと伝えられています。
(* ここにいう「火打嚢」は、日本武尊が東夷征伐に向かわれる前に参った伊勢神宮で叔母の倭姫命より「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とともに授けられたものです。駿河の国で国造に欺かれて野火攻めに遭ったとき、これを用いて難を免れたといいます。(古事記による) )
 ご祭神である日本武尊が酒折宮に御鎮座したのは、今から1900年前のことです。塩海足尼が社殿を建て鎮祭した当初の酒折宮は、現社地の北側の、月見山の中腹にありました。月見山は三角錐のかたちをした「神奈備山(かんなびやま)」と言われる山で、当時は山そのものがご神体と見なされ、人々の信仰を集めていたとも考えられます。」



 酒折宮に着く頃には天気予報通りに雪になってきました。拝殿左手の丘に上がり、大きな石が沢山ある辺りで集い、ここではあわ歌を歌うことなく、八人山の方に向かって中山さんが声を発しました。即、お言葉を頂きました。その時の問答の様なお伝えです。


「只今聞こえたその響きは、幾千年の昔に還える、大いなる同胞の声ぞ。
 共々なる身も発し行く。(拍手)
 うーおーー(拍手)
 伝えは届きた。この地を守りて行くは、遥けきなるへ。(柏手)
 うおーうーうー(足踏みしながら)お~
 ゆるゆる参る。(柏手)
 北よりの光を送り行く。(柏手)」14:00
 ここでも北からの光りを送ることが示されています。
 

 雪が本降りになって来ました。急ぎ、次の目的地の山梨岡神社へ向かいます。しかし、何故かもう一つ同名の山梨岡神社へナビゲートされてしまったのです。
 それは笛吹市春日居町鎮目にある山梨岡神社です。ここも立派な由緒ある神社で、その由来は以下のようです。
「発祥は御室山を神体とする古い信仰に遡ると考えられているが、「御室山」の山名は大和国の「御諸山(みもろやま)」(三輪山のこと)に同じく、「神霊の籠もる山」を意味するものと推測されている。なお、文化11年(1814年)の『甲斐国志』(以下『国志』と略記)に、かつて御室山は国に異変のある際に、その前兆として鳴動したという記載がある。
 社伝によれば、崇神天皇の時代、疫病が蔓延したため勅命によって日光山高千穂の峰(当神社背後の御室山と見られている)に3柱の祭神を祀って近郷の鎮守とし、成務天皇の時代に郡境を定めるにあたり、山麓の現社地にあった梨の木数株を伐採して遷座、鎮座地を「甲斐嶺(かいがね)山梨岡」と名付けたという。現在も境内には郡境の標示石であったと伝える「郡石(こおりいし)」があるが、鎮目の地は令制下の甲斐国山梨郡山梨郷に比定されるので、この社伝に従えば、当時の郡名の、そして現在の県名の発祥の神社ということになる。」
 境内を歩きながら私がこの地と違う山梨岡神社へ行くつもりだったと中山さんにお話し、場を離れた直後に、中山さんがあわ歌無しに突然語りだしました。
「さにあらず。さにあらず。
 この地を興す大きなるは、これこの山の懐深く、眠りし大きなる身なり。
 出でたる時には、この地は揺らぐぞ。(拍手)
 解りたり。如何なることを成すが良いか。(拍手)
 定めは深き地、鎮めて、共々これより5000万年の永きを過ごす。
 無駄なる動き致さず、鎮まれ。(拍手)
 うおーん」14:44

 この地を訪れる必要があったようです。由緒にも「御室山は国に異変のある際に、その前兆として鳴動した」とありますが、この地で5000万年を過ごした存在が守っていたようです。






2017年1月30日月曜日

835「奈良田・富士7」2017,1,30

 奈良田のミッションを終えてKさんはホットしています。これで3日間の巡りの前半を終えて後半に入ります。
 早川町から次の目的地の甲府市の「昇仙峡」に向かいます。昇仙峡の中の「覚円峰、夢の松島」が目指すところです。
  天気予報では午後から崩れて雨、雪になる様です。昇仙峡まで天気が持ってくれることを願って急いで車を走らせます。

 昇仙峡の紹介は以下です。
「昇仙峡(しょうせんきょう)は、山梨県甲府市、甲府盆地北側、富士川の支流、荒川上流に位置する渓谷である。特別名勝に指定されており、国内有数の景勝地である
 1923年(大正12年)に国の名勝に指定され、1953年(昭和28年)には特別名勝に指定されている。秩父多摩甲斐国立公園に属し、同公園を代表する景勝地として知られる。
 長潭橋(ながとろばし)から仙娥滝までの全長約5キロメートルに亘る渓谷は、川が花崗岩を深く侵食したことにより形成された。渓谷内には、柱状節理の花崗岩および輝石安山岩の奇岩が至る所に見られる。日本二十五勝、平成の名水百選等に選定されている」

 覚円峰(かくえんぼう)の紹介です。
「日本一の渓谷美、昇仙峡の主峰『覚円峰』はその昔、澤庵禅師の弟子僧侶覚円が畳が数畳敷ける広さの頂上で修行したことが、その名に由来します。
 覚円峰は花崗岩が風化水食を受けてできたもので、急峻で直立約180mあります。」

 渓谷沿いに走る渓谷道路の車で進める終着点まで行きました。そこは目の前に覚円峰が聳え立っています。道路から渓谷近くに下るとそこは、夢の松島です。




そこから見上げる勇壮な岩は見事な雄姿です。覚円峰の対岸にある巨大が岩壁の岩肌がカットされた曲面の凹面、凸面が強烈なインパクトをもたらします。この岩の名称は定かでありませんが、めまい岩と言うのかも知れません。



 実は中山さんから今朝、この年末年始にあったお言葉や絵を見せて頂いていましたが、その中にある絵にそっくりです。中山さんも似ているとおっしゃっています。
 そこには岩の絵と下に、「ゐずる。2017,1,17」と記してあります。果たして1月17日に出でるのでしょうか。

 その覚円峰とめまい岩に向かってあわ歌を響かせました。最初に宇宙通信してみる、と中山さんがおっしゃって意味不明の言葉を発しておられました。



  歌い終わってのお言葉です。
「あ~ら~えよ~ お~
 下だりてみたる。伝えたり。
 響きは来たる、新しき時を迎え、発して繋ぐ。
 その時は、北の星、一番の光送られ、南へ注ぐ。」12:23

 ここでも北の星、一番の光を送られ、それを南へ注ぐ、とあります。いよいよ、ますます北のお役目が大事です。


 昼食はこの渓谷道路を下って直ぐにある樹光庵です。甲州名物料理のほうとう鍋を頂きました。なかなか美味しいほうとうです。お鍋の味噌の味付けは各自で行ないますので自分好みの味になります。味噌おでん、キノコご飯を頂きましたが、寒い時でしたので身体が温まり、嬉しい限りです。




2017年1月29日日曜日

834「奈良田・富士6」2017,1,29

 奈良田法王神社から国道に下り、来た道を戻ります。次の目的地の早川町下湯島にある「山王神社・湯島の大杉」を目指します。
 「湯島の大杉」は山梨県の指定天然記念物にも指定されている山梨県1の杉の巨木です。しかし道路からはほとんどその存在が分からないほどに隠されてあります。
 小さな標識と山王神社の鳥居があり、道路から直ぐに参道の階段です。登っていくと右手、目の前に巨木が現われます。驚きの巨木でその存在は圧巻です。神社の境内平面に半身を残し、あと半身を崖の下に伸ばす巨大杉です。




 以下の様な表記があります。

「山側の道路沿いに山王神社がある。参道を登ると、昼なお薄暗い崖上の小さな境内を支えるようにして斜面に立っている大スギが見える。「湯島の大スギ」は樹齢1200年、樹高45m、幹周11,1mと記され、山梨県下随一のスギといわれるに相応しく、見るからに堂々とした大杉である。この数値は崖上での目通り計測だと思うが、崖下に下りて見た時の印象は更に強烈で、もう一回り大きな樹を感じてしまうほどに迫力がある。この木が持つ伝説によると、およそ1200年前、この地の村人が紀州熊野から二本のスギの苗木を持ち帰ってこの神社に植えたのだという。大きく育った杉は男杉・女杉と呼ばれていたが、火の不始末によって女杉は消失してしまい、今に残っているのがこの男杉なのだという。」

 大杉を右手に見ながら参道を進むと直ぐに山王神社があります。社の後ろには巨石があります。この神社に付いては以下の様にあります。
「創立年代は不明です。御祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)。江戸時代の地誌『甲斐国志』に“湯島村山王権現”についての記述があり、山王神社のことと推察されているそうです。)


 巨木には精霊が宿ると言われますが大きさ、樹肌には驚きです。神社参道を登る時は足が重く、身体も息が苦しいくらいな感じでした。何か重たきものがこの境内、巨木にはありそうな感じです。
 大杉の根元であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「たんたらりんらん たんたらりんらん
 定かにならぬ、この地の真、憂いは先を暗きとなして、皆々そこへ留まりたるが、
 大きく放つ遥かな地より、送り来る来る北の気を、此処に留まり承りて、
 しっかりこの地を定めてみせる。
 北の大きな石に繋ぎて、受けたるを皆々に。」9:53

 大きく放つ遥かな地より、送り来る来る北の気を受けてこの地に定め、北の大きな石を繋ぎ受けて皆々に伝えてくださるとのことです。嬉しき事です。


 歌い終わってみたら、先ほどの身体の重さは消えて、スッキリ爽やかです。あわ歌の響きによって、この地の憂いが晴れたのでしょう。
 いよいよ2月の陸奥の5ヶ所の大きな石を繋ぎ、早池峰山からの北の気を送るシステムを起動させることが大事になって来ています。今回の巡りはKさんに下ろされたことが機縁でしたが、私達にとってもこの時期に為す必要があったことだ、と改めて認識をしました。

 車は更に早川を下って行きます。程なくフォッサマグナの糸魚川静岡構造線の断層が間近に見る事が来る「新倉断層」があります。車で直ぐ傍まで行くことが出来ます。
 断層は少し土砂崩れがあったようでしたが大地の断層を確認できる貴重なポイントです。
 大きな地震、プレートの移動など、大変化が起きる時にはこの断層帯が最も危険な場所に成ります。ここの大地が滑るのでしょうか。大きな変化を免れて、新たな御世へと進めることを願うのみです。

2017年1月28日土曜日

833「奈良田・富士5」2017,1,28

 8日朝はスッキリ目覚めて、朝風呂、朝食を頂いて8時前には宿を出発出来ました。


今日の最初の目的地は早川町奈良田の「奈良法王神社」です。Kさんと中山さんは今年の春にこの地を訪れていました。この奈良田には法王と名がつくに値する歴史があります。
 奈良田と奈良法王神社の謂れは以下です。

「昔 々、今から1300年余り昔のこと奈良の都にお住まいの奈良王様が、ある夜夢を見ました。夢の中で、真っ白い髭をたくわえた翁がこう申します。「甲斐の国、白鳳の深山に諸病に効ある霊泉あり」この頃の奈良王様はご病気だったのです。奈良王様とは、第46代孝謙天皇のこと。
 奈良王様は、甲斐の国を目指して旅を続けました。古府中(現在の甲府市)に入ると、夢の中の風景を思い浮かべ「あの山を越えたところじゃ」と、櫛形山を指差しました。奈良王様の御一行は、御勅使(みだい)川に沿って険しい山道をのぼり、土ノ小屋峠を越えて、山奥の小さな村にたどり着きました。
 奈良王様は 「おお、ここじゃここじゃ。この地に相違ない。奈良の都は七条なるが、この地は七段、ここも真に奈良だ」と驚かれ、この地は奈良田と呼ばれるようになりました。奈良王様は早速、川向かいの八幡社に手を合わせ、夢の翁に礼を述べられました。
 こうして、奈良王様は奈良田の温泉で病を癒しましたが、全快した後もすっかりこの地をお気に召され、8年の春秋をお過ごしになったということです。奈良王様が都へお帰りになった後、村人達は奈良王様のお住まいを奈良王神社として奉り、その残された功績を奈良田の七不思議として後世に伝えました。
 現在はその ほとんどがダム(奈良田湖)の出現で湖底に沈んでしまい、長い歴史を閉じるかと思われましたが、七不思議の中の「洗濯池」と呼ばれた温泉は、今もなお村人達に親しまれ、いろいろな病に効くことから七つの名を持つ温泉として残っています。御手洗のぬく湯、しょみづ、みょうぞんの湯、長寿の湯、子宝の湯、おぼこの湯、くなの湯。これらをひとまとめにして、奈良王様の七不思議にちなんで、「七不思議の湯」と呼ばれるようになったということです。」
http://blog.livedoor.jp/gallery_ogon/archives/65391850.html

 しかし、このような伝説ですが、それに付いて歴史的に以下の様な指摘もあります。
「孝謙天皇は758年に吉野を出発し、この地に8年滞在したそうです。758年は藤原氏の仕組んだ「橘奈良麻呂の乱」によって側近をすべて奪われ、失意のうちに淳仁天皇に譲位して(させられて?)しまった年ですから都を離れて湯治に出てしまったとしても分かるのですが、6年後の764年には淳仁天皇を廃して重祚しているのですから、8年間も山梨に滞在していたはずはありません。
 この間に退位して上皇となっていた女帝は、道鏡に出会い、道鏡や吉備真備らと共に巻き返しを図っていたようですから、何年も都を空けるようなことはなかっただろうと思います。」

 それはそれとして、その真偽は分かりませんが、この奈良田の地はフォッサマグナの重要なポイント地点でもあり、この地が今大事なところだからこそKさんにメッセージが下ろされているのでしょう。
 早川沿いの道を上流に上って行くと何とも険しい渓谷でトンネルを幾つも通り、橋を越えていくと人造湖の奈良田湖に着きます。湖の水は干上がってかなり水位が低くなっています。奈良田の温泉旅館を過ぎて細い道を山手に登って行くと奈良法王神社があります。



 道路脇に鳥居があり、林の中にひっそりとした小さな神社がありました。Kさんに12月3日に奈良田のお言葉あった時に、描かれた杉の木の間にある神社はこの奈良田法王神社そのものでした。


 静かな境内であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「うみう うみう うみう (拍手)
 あああ〜〜あ〜〜(拍手)
 永きに渡りてこの地を守り、深き大きなるこの地の宝、ここに沈めたり。
 今ここに、揺らぎ始まりたれば、この大きなる宝、出づりて、皆々の争い起こすなり。
 新たへ皆々変わりて後の、宝と致す為、何卒この地、鎮まらんとのこと、願いまする。
 その事しっかり知りて頂きたし。(柏手)
 おーあーうーん
 方々、皆々お頼み申す。」9:24


 この地には大きなる宝が埋められてあるようです。揺らぎと共に現われると争いの元になるので鎮まるように願っている、とのことです。その宝とは何なのでしょうか?

2017年1月27日金曜日

832「奈良田・富士4」2017,1,27

 次の目的地は富士宮市山宮の「山宮浅間神社」です。富士宮市では富士山本宮浅間大社が有名です。
「富士山本宮浅間大社は式内社、駿河国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。社家は富士氏。 全国に約1,300社ある浅間神社の総本社である。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。」

 今回は時間も押していますので「山宮浅間神社」に向かいましたが、太陽も沈みだして夕暮れの時間に成ってしまいました。参道を急ぎ足で進みます。遥拝所の木々の間にかろうじて富士山を遥拝出来ました。




 山宮浅間神社に付いては以下の様に記されてあります。
「山宮浅間神社には富士山を遥拝するための遥拝所がある。これは、古い富士山祭祀の形をとどめているものと考えられている。遥拝所は溶岩流の先端部に位置し、遥拝所の周囲には溶岩礫を用いた石塁が巡っている。遥拝所内部の石列は、主軸が富士山方向に向いている。 
「富士本宮浅間社記」には、浅間大社は山宮浅間神社の地から移転されたとある。山宮浅間神社の創建年代は不詳だが、発掘調査では祭事に使用されたと推定される12世紀の土器(カワラケ)が出土しており、文献史料では16世紀から確認できる。 
 また、かつては、浅間大社の祭神が春と秋に浅間大社と山宮浅間神社を往復する「山宮御神幸」が行われていた。山宮御神幸の道筋(御神幸道)50町(1町は約109メートル)には、元禄4年(1691)に1町毎に標石が置かれた。明治7年(1874)以降山宮御神幸は行われなくなり、標石の大半も失われているため、現在正確な道筋は不明である。」


 気温も下がってきて風もあり寒さに耐えながらあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「うみう うみう うみう
 必ずの事なり。
 これより参る事ごと、皆々新たへと向かう事なり。
 しっかり受け止め、それぞれその身を立てて、
 この地と共に、遥かなるへ参られませ。」17:21

 既に宵闇が覆い、集合写真は撮れません。急いで今晩の宿のある下部温泉に向かいました。
 途中、下部温泉の町中で2次会用の飲み物、つまみを仕込もうと思ったのですが、コンビニは無く、あまりにも閑散としてお店がありません。かろうじて灯りの灯っているお店に入ってみましたが、昔ながらの商店でおばあさんが中かから出てきて応対してくださいました。これはというものを買い込んだのですが、お釣が無いとのこと、小銭はまけて頂来ましたが、閉店間際の大量な買い物のお客さんでおばあさんはご機嫌宜しく、おまけまで下さいました。 
 宿に到着は18時半を優に過ぎています。こじんまりした、小奇麗にしている和風温泉旅館です。部屋に入るなりコタツが置かれてあるのを見て、中山さんからマージャン卓だね、と声が出ました。急いで温泉に入って直ぐに夕食を頂きました。中々手の込んだ盛りだくさんな品数で美味しく、皆さんも杯が進んで大満足です。



 何故か2次会は、マージャンをすることに話が決まりました。女性の皆さんはほとんど知らないので最初はオープンで練習です。半ちゃん過ぎて、今度は男女のペアを籤で決めて、女性が主に行い、男性が後ろでサポートするペアマージャンです。半ちゃんを行いましたが、男性陣も久しぶりでそれなりに勘を取り戻し、楽しめました。果たしてその戦果は如何に?

 岩手のKさんがラス前の親の時に、七対子(チートイツ)でテンパって、待ち牌は「北」です。目出度く宮城のTさんが安全牌と確信して親萬を振り込んでしまいました。結局Kさんがトップとなりましたが、やはり「北」にエネルギーが集まっているようです。
 午前様近くに終了してゆっくりと休みました。