2016年12月31日土曜日

805「陸奥中心11」2016,12,31

 次の目的地は奥州市水沢区黒石町にある黒石寺です。この黒石寺辺りが先の達谷窟毘沙門堂で記されていたアテルイの本拠地であったところのようです。
 黒石寺に付いては以下の様な記載があります。
「天平元年(729年)、東北地方初の寺院として行基が開いたとされる。東光山薬師寺と称していたが、延暦年間(782年〜806年)兵火により焼失。その後大同2年(807年)に坂上田村麻呂により再興され、嘉承2年(849年)円仁(慈覚大師)が中興して現在の寺号となったとされる。もとは修験(山伏)の寺であり、胆沢城鎮守の式内社である石手堰神社の別当寺として、盛時には48の伽藍があったと伝えられ、一帯には多くの寺跡がある。重要文化財で平安時代初期の在銘像である木造薬師如来坐像や、選択無形民俗文化財の黒石寺蘇民祭で知られる。」
「蘇民祭(そみんさい)は、岩手県を中心に日本各地に伝わる裸祭りである。1000年以上の歴史を持つと言われる。岩手県内では毎年1月から3月にかけて複数の蘇民祭が行われ、岩手の蘇民祭の名称で国の選択無形民俗文化財として選択されている。その中で最も著名なものは日本三大奇祭ないし日本三大裸祭りの一つに数えられることもある奥州市の黒石寺蘇民祭である。」

 この黒石寺には是まで再三訪れてきていますが、中々動かず、頑なに拒否をされていた経緯がありました。しかし前回の9月11日に訪れてようやく大きな謎、課題が紐解けました。黒石寺ではなく本家本元はその裏山の大師山の黒石でした。
 今回も、その後のご挨拶も含めて、大師山を登り、中腹にある黒石を目指しました。山道の前方は太陽の光に導かれるように輝いています。一汗かいて身体は活性しました。


 その黒石の巨石に向かってあわ歌を響かせました。




その時のお言葉です。
「戻り来たるは、元なる真。
 この地球が持ち来たりたる大きなる真。
 宇宙それぞれ皆々進み行く、それぞれの理(ことわり)あり。
 この宇宙に在りて、この地球大いなる真を発して進みて、稀なる星が皆々に大きなる気を発し行き、共に進むが理なれば、半場にして、その思い砕けたれば、この宇宙の在り様無くす事となる。
 大き御許の憂いを戴してここに在り。
 知らせて伝えて道正す。」9:55

 何とも宇宙規模の壮大な意図がここに秘められていて、これから知らせ、伝えて道を正すとあります。

 次の目的地は遠野市宮守町にある稲荷穴です。早池峰山の南にある大麻部山の南西側にあります。稲荷穴に付いて以下の記載があります。
「この稲荷穴は、村の東北部に位置し、入り口付近は北に向かっているが全体として東西方向に発達し、奥行きおよそ1,000mの洞内は変化に富み、コウモリなどが生息している。」

「菅原進著の「アイヌ語地名考」 に「おおまぶ山」は地元の方言で「おおまんぶ山」と呼ばれ、その意味は「岩穴のある山」ということであると伝えられており、これをアイヌ語で解読を試みると「おおまんぶ」とは、=アィヌ語の「オー・マク・ウン・ペ」の転訛で、その意味は、 =「深い・奥・にある・洞窟泉」であります。 したがって、これに「山」を加えて「おおまんぶ山」とすると、その訳は、=「オー・マク・ウン・ペ・シルで、その意味は、 =「深い・奥・にある・洞窟泉の・山」ということになります。 
 ここの「稲荷穴」の前にこれらの「神」が祭られたのはいつからかと申しますと、その始まりは遠い縄文時代からだったと想像されます。ここでは、紙面の都合で縄文時代や弥生時代についての話は割愛するとして、少なくとも、現在の「稲荷神社」や「水神」の原形は古代エミシの時代にすでに存在していたのではないかということだけはつけ加えて置きたいと思います。」

 稲荷穴には燦燦と光が降り注がれています。稲荷神社前であわ歌を響かせました。





その時のお言葉です。
「遥かなる伝えは、この年の内にしっかりと出だして、この身に伝えます。
 来る年には幾多の事事、皆々様、共々のご用意あり。
 大いに働きて、この地変え行きましょうぞ。
 篩は大きく広きと致す。」11:57




2016年12月30日金曜日

804「陸奥中心10」2016,12,30

 中山さんのお言葉を受けての質問へのコメントです。
「七大宇宙がサポートするが、来年の事は、今繋がっている存在、私に繋がり90数日の存在が言っている。これまでいろいろ伝えたが、しっかり出来る人が少ない。
 これから元々やっていた、岩、山を通して伝えることをする。そこを通した通信を受けるのは人間だ。
 それによって私たちの中にいる小さいレベル、細菌、麹などが変わって行く。変な波動が伝われば、変な菌に変わって、やがて自分を食らう様になる、のと一緒だ。それは人間にとって怖いことだ。しかし嬉しいという感情になっているとそれは起きない。
 しかし、ただ嬉しがっていて大丈夫か?それだけではコントロール出来ない。怒った方が良い場合もある。それを言う役目の人が大事だ。ヒッピーの様に、楽しい事で全て良い、と言っていたが、それでとんでもない事になった。」

「想いを定めるとは、どういうことか。
 揺らがない自分を作っておくこと。これで変わって行くと思える自分を作っておくこと。
 あわ歌も変わって来た。それへの反応が激しく、それにやられていると思って、私(中山さん)に魔が付いていると思ってしまう。
 あわ歌をやっているから良いという事ではない。」

 ミーティングを終えて入浴タイムです。温泉に入って身体を癒し、その後は美味しい食事です。

2次会もそこそこに明日へ備えて私は早めにお休みです。

 4日の朝も良い天気に恵まれました。高台にあるホテルから栗駒山が見えます。朝食を済ませてホテルを8時に出発です。

 最初の目的地はホテルから程近い、平泉町の達谷窟毘沙門堂です。以下の様な紹介があります。
「この達谷窟は、別当・達谷西光寺にあります。お寺なのに鳥居があり毘沙門堂は神域で、達谷西光寺境内とは厳格に区別されていました。別当は毘沙門天に仕えるのが勤めとされたため、檀家が一軒もなく葬式をしないという珍しいお寺。
 お寺に伝わる「毘沙門堂達谷窟縁起」によりますと、以下のような由来があります。
 約1200年も昔、この地に悪路王・赤頭・高丸などと呼ばれる蝦夷(この頃の朝廷の人達が東北の人を指した呼び方)が、この窟に塞を構え乱暴な振舞いでこの地の良民を苦しめていました。国府も抑えることができず、時の天皇・桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、蝦夷征伐の勅令を下します。悪路王達は3000の兵を率いて駿河国清美関まで進みましたが、坂上田村麻呂が京を出発した知らせを聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めました。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は窟に籠る悪路王等と戦い、激戦の上これを打ち破り首を刎ね、蝦夷を平定。
 坂上田村麻呂は戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、そのお礼にと清水寺を真似た舞台造りのお堂を建て、108体の毘沙門天を祀り国を鎮める祈願所として「窟毘沙門堂」と名付けました。
 この「悪路王」というのは、当時この地の軍事指導者だった「アテルイ」だとする説があります。アテルイは延暦8年(789年)、現在の岩手県奥州市付近に侵攻した朝廷軍を撃退しましたが、後坂上田村麻呂に敗れ処刑されました。」  
 何とも征服者側からの歴史であり、支配と怨念封じの為に毘沙門天を祀り堂を建てた、という意図ですから、これも致し方ないことでしょう。


 お堂では朝の勤行が成されていますので中に入らずに、壁岩仏の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「さてこれより、この身を借りて伝え行くは、
 来る時に、この地へと遠きなる光を送り行く。
 遥かなるよりなり。
 さんさら するらん ふむん たらりろ つるつん たらたんたり おんらる らりよられや?
 響きを皆々発して頂き、その響きに合わせて送り行く。
 この光に慣れて、それぞれの身が進みてご用意なさるを、ひたすらお待ち申すなり。
 これよりは都度お知らせ申す。ありがとう。」8:45

 この光に慣れ、各自が進んで用意すること。これから必要なことはその都度知らせるとのことです。



2016年12月29日木曜日

803「陸奥中心9」2016,12,29

 宿泊先は厳美渓の目と鼻の先にある、かんぽの宿一関です。いつもよりも早い15時に到着です。今回は昨日のあわ歌会であわ歌を拝受受けられなかった方々のあわ歌拝受と、その後、あわ歌ミーティングを行い年内最後に皆さんといろいろとシェアリングする計画です。


 チェックインして早々に4名の方が拝受を頂きました。
 その中でKさんが頂いたお言葉が以下でした。
「奈良田、奈良田、奈良田、奈良田、奈良田
 揺るぎて参る是より、崩れて参るその地、柔して、鎮めて、そのまま、そのまま、
 思いを発して、行く行くは、天なる宮と共々に。」



 彼女は1年ほど前から出身地の静岡県の駿河湾、富士山から山梨県早川町にある奈良田の繋がりがあり、今年春に中山さんと同行して奈良田の地を巡っていました。その後暫くかの地を訪れずにいたようです。今度、このようにはっきりと奈良田が出ましたので、いよいよ次のアクションが求められているのでしょう。
 奈良田の地は糸魚川静岡構造線が走る断層がある要注意な所です。今回のお言葉で1歩進んで又、彼の地を巡ることになるかもしれません。

 引き続いて16時半くらいからミーティングが始りました。直ぐに中山さんから以下のお言葉がありました。

「あ~。この身を借りて申す。
 この身と共に90数日、この地に相見え、多くを感じ来たり。
 ここにあるは響きに降りて、動き来たりて、響きを受けて多くを得たり。
 この地球が発する振動は、元なる地球が始りより持ち来たりて、日々進み行く元々あり。その上に幾層も出来上がりたる物質、土地、川、山、植物、水、空気あり。
 それぞれに、そのもの作りておるものあり。
 その中にて動く、見えざる小さき方々、この事知れば、皆々様方、ここにその身を持ちて、大いなる思いにて日々過ごされるは如何なることかお分かりなさり、なお只今は、それぞれの身は如何なるを望みて、真を外されておらるる哉が分かりましょうぞ。
 小さき多くの見えざる方々、只々生きるを過ごし行くが、大きなるこの揺らぎにて、皆々変わりております。

 過ぐる日々、このあわ歌を始めたる時より、全く新しきへ参るを定めたり。
 この身を通して再三、伝え来たるが、その事今だ現われず。
 その現われの前のご用意も無しなり。
 大きく進む日は迫り来たれば、来たる次の年、大きなる年となります。
 この年の終わりに当たり、皆々様の想いしっかりと為さるを望みて申しました。

 あ~あ~
 変わりて来たる時へ向かうを、如何になし行くかは、伝え来たりた事々なれど、是までの古きを流される事、ここに現われたる事は、全ては是までなり。
 方々、皆々、伝えられる全ては是までなり。
 全てが変わるは、泡沫(うたかた)のこの地を終わりと致すなり。
 真に惜しき事なれど、このまま進むは大いなる問題となりまする。
 皆々様、その想いと覚悟持ち行けば、何事も恐れること無し故、しっかり定めて、淡々と響きを発し、繋がり、外さず参られませ。
 如何に成る哉の御心配、御無用なり。
 そのまま定めたる持ちて、只々で。(拍手)」17:32

2016年12月28日水曜日

802「陸奥中心8」2016,12,28

 昼食は平泉駅前の芭蕉館で豪華なわんこ蕎麦を頂きました。24個のお椀にお蕎麦が入っていて、各種の薬味で食べるのですが、その膳の広さに先ずは驚きです。しかし珍しいだけでなく美味しいと皆さん大満足で完食です。





 お腹を満たして次なる目的地は一関市厳美町にある龍神穴瀧です。

 ここは初めて中山さんをお連れするところです。今回のテーマの1つである地と繋がる「穴」となるポイントです。 
 下見の時に、実はここを探し当てるにあたって少し難儀しました。道路から草むらに入って行き、道なき道を草を掻き分けて辿り着いたところです。瀧も流れ着いた樹木がそこかしこにあり、瀧に近づくのも躊躇したのです。帰りは出来るだけ枝を折り、木を抜いて、草を踏みつけて少し道らしくと素手で格闘したのです。

 そのかいあって今回は前回よりは楽に、でも皆さんは草に閉口していましたが、瀧へと誘導できました。瀧に進み、中山さんは大きなものを見出したように、周りを見回してここの重要性を確認されました。滝つぼは綺麗な円形で脇の岩が崩れ落ちています。

 そしてここは前日に私に降りた絵に相当する場所でした。

 瀧に近くに陣取る方、巨石に上がる方、更に後方で安全なところに立つ方と少し散らばっての布陣ですが、穴瀧に向かってあわ歌を響かせました。


 歌い終わってのお言葉です。
「更なる大きへ向かう時、この大きな天地繋ぐ穴、光を取り込み発しなされ。
 進みは是より、地の気を発して参られよ。」14:31

 大きな天地繋ぐ穴、まさに穴場を見つけた様です。早池峰山の柱と地からのこの穴瀧との繋がりは如何なるかです。探し当てた功績は大きかったようです。


 帰りの草むらの道を進んで行くと、みかんの様な、かりんの様な実が木にぶら下がっているでは無いですか。やはり、昨日、中山さんが描いた絵と同じです。目的の地はここでやはり良かったのでしょう。

 次は直ぐ近くにある厳美渓を見学してその渓谷、奇岩を楽しみました。この厳美渓は猊鼻渓と並び証せられるは一関市の東西にある渓谷美で有名な観光名所です。岩場のカゴにお金を入れると、対岸からロープ伝いにカゴが飛んでくる厳美渓名物「空飛ぶだんご」の郭公だんごは休業でした。



 厳美渓の紹介です。
「栗駒山に源を発し、一関市内へと流れる磐井川の浸食によって形成された厳美渓。奇岩、怪岩、深淵、甌穴に滝と、訪れる人々を魅了するダイナミックな景観が約2キロメートルにわたって続きます。悠久の時の流れが磨いた岩肌とエメラルドグリーンの水流、そして川岸を彩る四季が奏でる美しい景色は、国の名勝天然記念物に指定されています。」
「厳美渓は栗駒山の噴火によって堆積したデイサイト質凝灰岩が、磐井川の水流によって浸食され、形成されたものである。奇岩、瀑布、深淵と様々な表情を見せるが、特に川底には甌穴の発達が顕著。これは巨石の隙間を流れた礫(小石)が水流の中で暴れて弧を描き、岩盤を球状に削っていったもので、地質学上にも貴重なもの。」

2016年12月27日火曜日

801「陸奥中心7」2016,12,27

 次の目的地の一関市舞川町にある観音山の山頂付近にある舞草神社の大部が岩です。ここも中山さんを同行して今年の9月に訪れています。
 狭い山道を進み神社前に着くと、ぱっと開けますが何とも心もとなくなる鬱蒼とした長い林道です。神社は通り越して大部が岩に向かいます。


 舞草神社は以下の様に紹介されています。
「式内社・儛草神社に比定されている古社。社名は、「まいくさ」と呼び、「もくさ」とも呼ばれる神社。社伝によれば、大同2年(807)に坂上田村麿によって創建。神仏習合時代は、吉祥山東城寺と称していた。古くは、白山岳に鎮座していたという伝承もある。
 白山岳周辺には、鍛冶遺跡があり、舞草鍛冶として有名で、全国の刀工の祖神としての崇敬も篤い。」
「儛草神社は、718年に菊理姫命を祭神としたのが始まりの、由緒ある神社です。坂上田村麻呂が必勝祈願の為観音を安置したとも言われています。そして、日本刀の源流と言われている舞草刀を作刀していた鍛冶集団、舞草鍛冶が修験者として鍛錬しつつ活動してい
たとされる場所です。」

 この舞草神社は日本刀発祥の地です。なぜ日本刀の発祥の地が岩手県にあるのかと思う方が多いのではないかと思います。又白山信仰、熊野信仰などとの繋がりのある地で興味のある方は以下を参照下さい。
「舞草刀と白山神そして物部部族」
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/hakusan1.htm

 又、「舞草神社のいわれ」東北大名誉教授 高橋富雄先生のお話に「なぜ「舞草刀」が「日本刀」の源流なのか」、「日本の原点がどこにあって「舞草刀」が「日本刀」の源流なのか」、「日本国」とは「日高見国・蝦夷国」のこと」など興味深い内容が記されています。
http://iwaigaku.com/contents.php?c=chair&p=112&sc=9

 その最後に「「大分岩」は「丈部岩」のことか」と言う見出しで以下の様な表記があります。
「私は今日見た「大分岩」というものがありましたね。いろいろな説を承りました。私はこれは、大部の「大」は、意味の分からなくなった「丈部(はせつかべ)」の「丈」という字、「丈部岩」ということだと考えます。こここそは「丈部郷」の郷民たちの、神祭りの場としての神体、岩で、本来舞草神社の奥庭はここだったというような考え方さえすることができるのでないかと、私はそんなふうに思っています。」

 さて前置きが長くなりましたが、陸奥の豊かな土地を一望できる神体の岩に登り、暫し美しき国土を豊かな自然の恵みを満々ともたらす山河、田畑を眺望して過ごしました。北上川(日高見川)は太陽にキラキラと光輝いています。



 天地に向かってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「沙汰ありて伝えます。
 これよりの北の地、以前に訪ねたる大きな岩、皆々繋ぎて、この北の地を元へと変えます。
 この光、来る年の2月の初め、必ず5つ選びて響かせ、繋ぎて、結ばれませ。」12:33

 次なるミッションが下されました。この北の地で既に訪ねた大きな5つの岩で響かせること、それにより北の地を元へ変えるとあります。果たしてその5つとは何処でしょうか?