2016年11月22日火曜日

765「陸奥三陸7」2016,11,22

 次の目的地は同じ宮古市にある浮金山十三仏霊場です。市内から閉伊川沿いに106号線を盛岡方面に進んで途中から左に曲がり、長沢地区南川目に向かいます。長沢川沿いに林道を進み学校跡を左に過ぎて分岐を左に更に進みます。橋を渡り右に渓流を見ながら更に進むと左側に十三仏霊場の案内標識があります。
 この霊場を始めて訪れた時に霊場の成り立ち、この地を開いた牧庵鞭牛(ぼくあん べんぎゅう)の存在に驚くと同時に強く興味を持ちました。立派な先達がこのような行動をとることで後世のこの地の方々が、今なお恩人としてありがたく敬意を示している方なのです。

 先ず先にこの十三仏霊場の紹介です。
「奇岩・巨岩のミステリーゾーン。長沢の旧神倉分校より南川目を奥へ2.5㎞ほど入ったところに十三仏がある。橋を渡って約50m程行くと、案内板があり、そこが入り口となっている。そこから山に入り登ること約15分くらいで山の中腹に大小の奇岩群が現れる。天高くそそり立つ岩や、崖の上に突き出た岩等、色々の岩場のあちらこちらに十三仏碑、その他の石碑合わせて約40基程が点在している。
 ここは古くからの霊場であったものに、鞭牛が再興開山したもので、宝暦5年(1755)から宝暦10年(1760)街道の開削の合間をみながら再興が行なわれた。鞭牛和上は、百姓達の苦しい生活、悪路による犠牲者の数々を見聞きし、宝暦8年閉伊街道の開削をタガネとゲンノウのみの手堀りではじめ、難所の開削を次々と行なった。そして、その偉業は天明2年73才で大往生するまで続けられた」
http://www.aiina.jp/environment/digieco/eco_spot/museum03/no.99/no.99.html
 以下が十三仏霊場の案内図です。


 実は前日のあわ歌会で拝受を頂いたKさんのお言葉とその時の絵があります。
「降る降る 降り来る多くの光。その身に降りて、共々に参らん降りて来る。
 どうぞしっかり受け取りて、その身のものと為さりませ。」



 その時にこの絵に思い当たることは無いかと尋ねられて、咄嗟にここの十三仏霊場に似ていると話して、先の案内図を示していました。この地に来て入り口の案内板を見てどうやらここの様だと中山さんも言います。Kさんがここの霊場を登り、参拝することで多くの光をその身に降り注がれて、受け取れることになるのでしょうか。

 更に牧庵鞭牛に付いて以下の様な紹介があります。
「牧庵鞭牛が林宗寺を隠居した宝暦5年(1755年)は、盛岡藩の四大基金の1つにあげられる「宝暦の大飢饉」の年であった。この年、鞭牛は南川目にやって来て岩屋を開き、「開山碑」を建てた。翌年には、北川目の滝に「布引白糸之滝開山碑」を建て、南川目の十三仏の霊場も、鞭牛が再興したとされている。
 これらの場所は鞭牛がお寺のように「開山碑」を建立したり、供養を行ったりしていることから、鞭牛の修行と信仰の場であったと考えられている。
 一方、鞭牛は閉伊街道の整備(宝暦8・9年)と前後して、北川目・南川目の難所を開削している。この地域には、豊間根から腹帯に抜ける道が通っており、交通の要所として花輪経由の道からも物資が運ばれていた。しかし、険しい岩場と谷が続く危険な道で、物資の運搬も容易ではなかったことから、開削にあたったと考えられる。
 この時も、鞭牛は開削が終わると供養碑を建てたので、北川目・南川目には鞭牛の道・橋の供養碑が6基も残されている。
 また、築地のNTT裏にも鞭牛の碑がある。破損のため詳細は不明だが、この日の存在から、鞭牛は当時の宮古町と鍬ヶ崎の間の難所、通称「七戻り」も開削したと考えられている。 出典:広報みやこ「新ふるさと博物館」
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