2016年6月26日日曜日

619「縄文・アラハバキ8」2016,6,25

 山王坊日吉神社の巨大な朱色の鳥居は国道脇にあり、一際目を引きます。左に曲がり鳥居を過ぎて暫く進むと山裾の林の中に日吉神社があります。神社には以下の紹介があります。
「十三湖北の山王坊(さんのうぼう)川が流れる沢筋、日吉(ひえ)神社境内地には山王坊遺跡がある。ここは安藤氏が庇護したとされる神仏習合の宗教施設が発見されている。
伝承によれば、中世の十三湖周辺には「十三千坊(とさせんぼう)」と呼ばれる多数の神社仏閣があり、山王坊遺跡には「阿吽寺(あうんじ)」があったと伝えられている。そのほか十三湖北岸には禅林寺(ぜんりんじ)跡(露草(つゆくさ)遺跡)、龍興寺(りゅうこうじ)跡(現春日内(はるひない)観音堂)も中世の宗教施設であったと考えられている。また山王坊一帯からは五輪塔や板碑など、宗教関連の石像物も出土している。これらは蓮華庵(れんげあん)や市浦歴史民俗資料館で保管されている。
 十三湖一帯は今も大小さまざまの神社や宗教遺跡が数多くあり、中世世界を思わせる。」



 神社の案内版には以下のように記されています。
「十三湖北岸、相内集落の北東に位置する。日吉神社が鎮座するこの周辺一帯は古来から霊地・聖域として村民に畏怖されてきました。昭和57年の発掘調査で神社仏閣の礎石跡や十三湊の繁栄と同じくする室町期の遺物が出土しており、安藤(東)氏が勧請した神仏習合の宗教施設と考えられています。」
 山王造り京風二重鳥居を通り、参道を進むと遺跡の遺構を回廊で巡るように板の廊下があり、小川の護岸も整備され以前よりも手が入り綺麗にされています。
 本殿の中にも入ることが出来てしっかり参拝させて頂きました。神人さんからお払い、お清めまで頂きました。



樹間を太陽のエネルギー、威光が光輝いて燦燦と降り注がれています。中世の安藤氏の栄華の跡ですが、太陽、自然は何も無かったように只在りました。

 http://aomori-miryoku.com/2011/01/17/%E6%9C%9D%E3%82%82%E3%82%84%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%A7%E7%9C%A0%E3%82%8B%E9%81%BA%E8%B7%A1/

 次の目的地、神明宮、おせどう遺跡は国道に戻って左に曲がり、直ぐの信号の左手の小高い丘のあります。ここの神明宮は以下のように記されています。
「御祭神:天照皇大神 勧請年月不詳、 社地は御伊勢堂と称し福島城址の鬼門に当ることから館神として祀られたものと考えられる。 また、 一説に於瀬洞(オセドウ)は、古代の安日彦、 長髄彦の遺骸を再葬した墓地といわれ、 長髄神社あるいは荒吐神社と称し、 建久2年 (1191) 、安倍神社として再建されるが、 応永33年 (1426) 、福島城とともに焼討された。 延徳2年 (1490) 、天眞名井宮義仁親王は津軽に落ち当地に御幸し、 往古の安倍一族を偲び於世堂と号して一宇を建立したといわれる。元文3年 (1738) 、津軽藩の寺社令によって御伊勢宮と称され、 弘化2年 (1845) に神明宮と改める。 明治六年四月村社にら列せられる。 」(青森県神社庁HPより)

「於瀬洞(オセドウ)は、「御伊勢堂」が訛ったものとされていますが、一帯からは、大正12年、県道の工事中に貝塚が発見された他、円筒式土器が多数出土しました。この土器類は亀ヶ岡式土器につながる貴重なものだといわれています。
 さらに、昭和46年には斜面から多くの縄文土器が出土し、以来、オセドウ貝塚と呼ばれ、神明宮の本殿の裏側の森は「オセドウ遺跡公園」となっています。
 貴重な土器類もさることながら、この遺跡を有名にしたのは貝塚から発見された完全な人骨です。
現在、東京大学に保管されているこの大きな人骨は、神武天皇の東征により畿内の地を追われ、兄・安日彦とともに津軽へ逃れてきた長髄彦であると語られたこともありました。
 かつて、「長髄神社」「荒吐神社」と呼ばれていたことなど、ここ神明宮は、古代の津軽の歴史を感じさせる社です。」
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 鳥居を過ぎると大小の虫(蛇)のわら人形が木にぶらさがっています。奥津軽の伝統行事「虫おくり」で使われる「虫」です。
「虫おくりとは、田植えを終えた時期に五穀豊穣と無病息災を願い、【木彫りの竜の頭に、稲わらの胴体で作られた「虫」を若者が担いで、囃子とともに村中を練り歩き、村はずれの一番高い木の枝に「虫」をかけ祈願するお祭り(行事)】です。
 お宮を参拝し、お宮前で暫しここで見つかった巨大人骨が安日彦、 長髄彦の遺骸なのか、神人さんのお話に傾聴しました。