2016年6月29日水曜日

620「縄文・アラハバキ9」2016,6,27

 昼食は十三湖を目の前にみるお店です。十三湖特産のしじみを頂きました。

食事を済ませて外に出ると快晴です。湖面の奥、正面に津軽富士の岩木山の全容が綺麗に見えるではありませんか。大きな御褒美を頂けた様で嬉しくなりました。皆さんも食後のひと時を、湖面を渡る心地よい風、燦燦と降り注ぐ太陽の恵み、そして絶景のお岩木やまを満喫して津軽、十三港、アラハバキのエネルギーを楽しみました。


 次の目的地は青森市の小牧野遺跡です。五所川原市から高速を利用しますが、そこに向かう道路からも岩木山が綺麗に見えます。
小牧野遺跡は以下のように紹介されています。
「青森市南東部、八甲田山西麓に広がる荒川と入内川に挟まれた、青森平野を一望できる標高80〜160mの舌状台地上に立地する、縄文時代後期前葉(紀元前2,000年頃)の環状列石です。
 環状列石は、中央帯が直径2.5m、内帯が直径29m、外帯が直径35mの三重の環を描くように配置され、さらにその周りを囲むように直径4m前後の環状配石や一部四重となる列石などが配置されており、全体では直径55mにものぼります。環状列石の内帯や外帯は、平らな石を縦横に繰り返し、あたかも石垣を築くように並べられています。この縦横交互の列石は全国的にも珍しく、“小牧野式”配列(配石)とも呼ばれています。
 環状列石のほか、竪穴建物跡(住居跡)や貯蔵穴、捨て場跡、湧水遺構など、生活に必要な遺構や、土坑墓群、土器棺墓などの墓制に関する遺構も発見されています。
 また、環状列石に隣接する墓域や捨て場跡を中心に、土器や石器など日常的に使用されている道具のほか、土偶やミニチュア土器、動物形土製品、三角形岩版、円形岩版など、祭祀的要素の強い遺物が出土しています。特に三角形岩版は、400点以上も出土しており、環状列石などで何らかの儀式が行われたものと考えられます。
 環状列石は、縄文時代の土木技術上、極めて先端的かつ完成度の高い遺構であり、日本列島にかつて独自の文化が存在したことを示すとともに、縄文時代の宗教的な思想のもと、人々の狩猟、漁労、採集による定住の在り方や自然との共生を示す顕著な物証の一つです。」
http://komakinosite.jp/index.php


 青森市内には三内丸山遺跡があり全国的に有名で、その発見により縄文時代にこの陸奥に栄えていた文化への認識を大きく転換させる契機になりました。小牧野遺跡は三内丸山より10キロほど山手ですがその規模は小規模ですが綺麗な3重の環状列石が残り周辺環境も素晴らしく、私のお気に入りの縄文遺跡です。
 初めてこの遺跡を訪れたときは発掘作業の途中でしたが今は立派なセンターも出来て、施設も充実して沢山の訪問者もあります。駐車場では朝から同行していた地元の方々が既に到着して出迎えて下さいました。のんびりと自然の豊かな青き森の地を古を偲びながら散策しました。

 今回の旅の始まりは大湯の環状列石でした。そして締めくくりは小牧野の環状列石です。大いなる先祖達の陸奥、津軽の地での足跡を辿り、アラハバキ、蝦夷の文化、精神に触れる貴重な体験をすることが出来ました。そのガイド役が神人さんですから極めつけです。新たな始まりの様に思いました。


ここ小牧野で4名の方が地元の方々と別行動をされることになっていてお別れです。そして新青森駅で17時に10名程の方々が新幹線で帰京されるということでお別れです。共に名残惜しく、バスが見えなくなるまで手を振って見送りしてくださいました。ありがたき始まりのお別れです。


 バスは仙台へ向けて350キロの帰路に着きました。バスの車中では神人さんの「車中、神人とあなたが語る生放送」というインタビューが1人15分ほどで行われました。かつてラジオのパーソナリティーも経験したという神人さんです、いろいろな切り口で皆さんにこれはと言う問いかけ、インタビューが成され笑いで車中が満たされました。
 仙台駅にも予定の9時半に無事到着です。今回は予定した時間通りに昼食会場、宿、仙台駅に到着です。1000キロに及ぶ旅で予定時間通りで巡ることは稀なことです。大きな導き、配慮があったようです。仙台駅で皆さんとお別れです。
 神人さんと私たちスタッフは軽食を頂き次回の打ち合わせです。今回、神人さんから頂いた言葉に中に「蝦夷の正統な核なる存在だ。」そして「共に絶妙なバランスで行われていて、柱がぶれない存在だ。共に受け入れられるのは中々の人だ。」とありました。果たして如何でしょうか。この地でこの時に果たす役割はあるようです。
 次回は大筋決り以下のように内容が決まりました。9月30日ライブ、10月1~2日「神人と行く 陸奥・縄文・アラハバキの旅 in 東北」です。是非ともご縁の皆様、参加宜しくお願いします。
http://genkiup.net/seminar/seminar284.pdf

2016年6月26日日曜日

619「縄文・アラハバキ8」2016,6,25

 山王坊日吉神社の巨大な朱色の鳥居は国道脇にあり、一際目を引きます。左に曲がり鳥居を過ぎて暫く進むと山裾の林の中に日吉神社があります。神社には以下の紹介があります。
「十三湖北の山王坊(さんのうぼう)川が流れる沢筋、日吉(ひえ)神社境内地には山王坊遺跡がある。ここは安藤氏が庇護したとされる神仏習合の宗教施設が発見されている。
伝承によれば、中世の十三湖周辺には「十三千坊(とさせんぼう)」と呼ばれる多数の神社仏閣があり、山王坊遺跡には「阿吽寺(あうんじ)」があったと伝えられている。そのほか十三湖北岸には禅林寺(ぜんりんじ)跡(露草(つゆくさ)遺跡)、龍興寺(りゅうこうじ)跡(現春日内(はるひない)観音堂)も中世の宗教施設であったと考えられている。また山王坊一帯からは五輪塔や板碑など、宗教関連の石像物も出土している。これらは蓮華庵(れんげあん)や市浦歴史民俗資料館で保管されている。
 十三湖一帯は今も大小さまざまの神社や宗教遺跡が数多くあり、中世世界を思わせる。」



 神社の案内版には以下のように記されています。
「十三湖北岸、相内集落の北東に位置する。日吉神社が鎮座するこの周辺一帯は古来から霊地・聖域として村民に畏怖されてきました。昭和57年の発掘調査で神社仏閣の礎石跡や十三湊の繁栄と同じくする室町期の遺物が出土しており、安藤(東)氏が勧請した神仏習合の宗教施設と考えられています。」
 山王造り京風二重鳥居を通り、参道を進むと遺跡の遺構を回廊で巡るように板の廊下があり、小川の護岸も整備され以前よりも手が入り綺麗にされています。
 本殿の中にも入ることが出来てしっかり参拝させて頂きました。神人さんからお払い、お清めまで頂きました。



樹間を太陽のエネルギー、威光が光輝いて燦燦と降り注がれています。中世の安藤氏の栄華の跡ですが、太陽、自然は何も無かったように只在りました。

 http://aomori-miryoku.com/2011/01/17/%E6%9C%9D%E3%82%82%E3%82%84%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%A7%E7%9C%A0%E3%82%8B%E9%81%BA%E8%B7%A1/

 次の目的地、神明宮、おせどう遺跡は国道に戻って左に曲がり、直ぐの信号の左手の小高い丘のあります。ここの神明宮は以下のように記されています。
「御祭神:天照皇大神 勧請年月不詳、 社地は御伊勢堂と称し福島城址の鬼門に当ることから館神として祀られたものと考えられる。 また、 一説に於瀬洞(オセドウ)は、古代の安日彦、 長髄彦の遺骸を再葬した墓地といわれ、 長髄神社あるいは荒吐神社と称し、 建久2年 (1191) 、安倍神社として再建されるが、 応永33年 (1426) 、福島城とともに焼討された。 延徳2年 (1490) 、天眞名井宮義仁親王は津軽に落ち当地に御幸し、 往古の安倍一族を偲び於世堂と号して一宇を建立したといわれる。元文3年 (1738) 、津軽藩の寺社令によって御伊勢宮と称され、 弘化2年 (1845) に神明宮と改める。 明治六年四月村社にら列せられる。 」(青森県神社庁HPより)

「於瀬洞(オセドウ)は、「御伊勢堂」が訛ったものとされていますが、一帯からは、大正12年、県道の工事中に貝塚が発見された他、円筒式土器が多数出土しました。この土器類は亀ヶ岡式土器につながる貴重なものだといわれています。
 さらに、昭和46年には斜面から多くの縄文土器が出土し、以来、オセドウ貝塚と呼ばれ、神明宮の本殿の裏側の森は「オセドウ遺跡公園」となっています。
 貴重な土器類もさることながら、この遺跡を有名にしたのは貝塚から発見された完全な人骨です。
現在、東京大学に保管されているこの大きな人骨は、神武天皇の東征により畿内の地を追われ、兄・安日彦とともに津軽へ逃れてきた長髄彦であると語られたこともありました。
 かつて、「長髄神社」「荒吐神社」と呼ばれていたことなど、ここ神明宮は、古代の津軽の歴史を感じさせる社です。」
http://madamada888.blog.fc2.com/blog-entry-263.html?sp

 鳥居を過ぎると大小の虫(蛇)のわら人形が木にぶらさがっています。奥津軽の伝統行事「虫おくり」で使われる「虫」です。
「虫おくりとは、田植えを終えた時期に五穀豊穣と無病息災を願い、【木彫りの竜の頭に、稲わらの胴体で作られた「虫」を若者が担いで、囃子とともに村中を練り歩き、村はずれの一番高い木の枝に「虫」をかけ祈願するお祭り(行事)】です。
 お宮を参拝し、お宮前で暫しここで見つかった巨大人骨が安日彦、 長髄彦の遺骸なのか、神人さんのお話に傾聴しました。

2016年6月23日木曜日

618「縄文・アラハバキ7」2016,6,22

 次はベンセ湿原です。津軽国定公園を代表する湿原で、ここからの岩木山の眺望は感動です。私は何度か訪れているのですがお花が咲いている時に遭遇できずにいましたが、今回はニッコウキスゲが咲き始めていました。散策路を進み、お岩木さまのビューポイントまでいきましたが湿原からの岩木山は雲で見ることが出来ませんでした。休日で沢山の観光の方々で賑わっていました。
http://www.aptinet.jp/Detail_display_00000540.html

 亀ヶ岡石器時代遺跡の公園で遮光器土偶のしゃこちゃんの巨大石造にご対面です。亀ヶ岡遺跡は縄文後期のもので今から3000年ほど前の低湿地の集落遺跡です。なんともユニークな姿の土偶ですが、往事の存在に思いをはせて頂きました。亀ヶ岡遺跡には以下の記載があります。
「台地上の亀山地区では、マウンドや供献品・副葬品をもつ土坑墓による墓域が発見され、低湿地からは、完形品を含む多数の造形的に優れた土器、土偶、植物製品、ヒスイ製の玉類などが出土しています。出土した土器や土偶に代表される縄文時代晩期の優れた物質文化は「亀ヶ岡文化」と呼ばれ、その名称の由来となった遺跡です。
 中でも、1887(明治20)年に沢根地区から出土した左脚を欠いた大型土偶(国重要文化財)は、その眼部の表現が「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」の名称の起こりとなったことで知られ、日本の縄文文化を代表する遺物として位置づけられており、土器とともに海外でも高い評価を得ています。亀ヶ岡遺跡における遮光器土偶をはじめとする土偶の製造は、縄文文化の要素である祭祀・儀礼、定住社会の実態をよく表しています。日本の縄文文化を代表する造形美を有し、特に精緻な文様や漆による赤彩などがある精製土器に代表される「亀ヶ岡式土器」は、縄文土器造形の極致とされています。」
http://jomon-japan.jp/jomon-sites/kamegaoka/

 津軽半島を日本海沿いに北上すると十三湖に到着です。
「十三湊遺跡が位置する十三湖周辺は、岩木川水系を通じて結ばれた内陸部との物資供給地として、古くからその役割を果たしていました。
 この地域は、樺太・北海道などとの北方交易において、本州最北端の拠点としての役割を担っていた地域でもあり、海上・水上交通の要衛として重要な位置を占めていました。」
 この地は中世、今から600年ほど前までに栄えた安藤氏の拠点、港湾都市十三港(とさみなと)です。巨大津波で跡形も無く消えてしまったと言われます。安藤氏は「前九年の役で戦った北方の勇者安倍貞任(あべさだとう)の末裔を名乗り、室町時代には「日之本将軍(ひのもとしょうぐん)」の称号を与えられて、津軽海峡を挟んだ北方世界を支配した。」存在ですが、古の栄華を偲ぶにはあまりにも寂れた感じは否めません。十三湖大橋からの眺望を楽しみながらバスは更に北上します。
http://www.okutsugaru.com/tanbou/chusei.html

 暫く進むと正面に綺麗なピラミッド形の霊山、靄山(もややま)が見えてきます。津軽レイラインを成すこの山については以下の記載があります。
「「モヤ」はアイヌ語で「小さい」を意味するといわれ、「モヤ」と名のつく山は、北海道や青森県、秋田県に多くありますが、いずれも整った三角形の形をしており、昔から人々に神聖視され、信仰の対象になっていたようです。
 ここ脇元の靄山は標高150m位の山ですが、数々の伝説が伝わる山です。
 青森県には、八甲田山をはじめ黒石市の黒森山など、岩木山と「背比べ」をした山の昔話がありますが、この靄山もまた、そのひとつです。
 岩木山との関わりはとても深く、【昔、安住の地を捜して旅をしていた安寿と厨子王が、この地に立ち寄ったときに、厨子王が獅子舞のとりこになり、姉の安寿と離ればなれになってしまった。姉の安寿はあきらめて遠い津軽の岩木山におさまることになったが、弟の厨子王は形が似ている脇元の靄山におさまることになった。】という伝説もあります。姉の安寿は岩木山に、弟の厨子王は靄山に鎮座したという分けです。
 頂上には「岩木山神社(脇元岩木山神社)」も建っており、岩木山で盛大にお山参詣行事が行われている頃、同じくここ靄山でも「さいぎ、さいぎ」の声と登山囃子の演奏が響き渡ります。
また、この靄山は、昔、安東氏が築いた「人工の山=ピラミッド」であるという話もありますが、ロマンをかき立てる神秘の山といえそうです。」
http://blogs.yahoo.co.jp/sadisticyuki10/10798063.html

 靄山を右手に見ながら過ぎて程なく道路の海岸側に荒磯崎神社(あらいそざき)があります。
「安倍・安東氏が荒吐神をまつり、崇拝したといわれている古い神社です。文永11年(1274)天台宗の僧賢坊により薬師堂が建立されたのが始まりといわれています。明治までは薬師宮あるいは薬師堂と呼ばれていましたが、神仏分離令により命じ、明治元年3月の洗磯崎神社と改められました。」 
 更に以下の記載もあります。
「この神社は、日神(男神)・月神(女神)・死神の3神体(遮光器土偶像)を、天神・地神・荒吐神として祀っていたというアラバキ神社でもあります。と同時に、縄文時代の投影をしのぶ日本古来の神道(巨石信仰)。)
http://ameblo.jp/sf-spirin/entry-11293747075.html





 神社の国道を側には不動山という三角形の山があり、山頂近くには巨石があり、神社からも観ることができます。境内の松も素晴らしい枝ぶりです。
 岩木山信仰の中心は当然、お岩木山ですのでその遥拝出来る地に社が祀られています。この荒磯崎神社からも日本海の海上にその姿を見ることが出来ます。朝の曇りの天候も回復して青空です。岩木山山頂が見えて来ました。ありがたき、ご褒美を頂けました。

2016年6月21日火曜日

617「縄文・アラハバキ6」2016,6,20

 宿に着いて一息ついて祈り歌の神人ライブです。ステージのある大広間で17時から1時間行われました。大湯ストーンサークルでの、「始まり、終わり、そして始まり」の言葉を受けて多くのこの地、津軽の御霊、縄文の方々が沢山現れたようです。


 ライブの後は温泉を楽しみ美味しい夕食です。神人さんも今日一日の巡りの内容に喜び、満たされたようで、皆さんの席を巡り杯が進みます。


 食事も終わり、大いに満腹です。席を又、大広間に移して、二次会ライブの祭り唄です。浴衣のままで神人さんは津軽の祭り、ねぶたの歌、アラハバキの歌など熱唱し、皆さんも踊り、跳ね回っています。何故か仙台組はおとなしく座して聞き入っています。1時間のライブはあっという間で終わりましたが、神人さんからのスペシャルプレゼントです。


 3次会は私たちの部屋でほぼ全員が揃って全員がお話をして交流を深めました。流石に神人さんはお酒に酔われたようで12時でお開きです。その後は2時半まで同室の方々と深いお話が続きました。そして爆睡です。

 翌朝は朝風呂ですっきりして6時50分から朝食、そして7時半には宿を出発です。神人さん始め、皆さんには不二やホテルさんの宿の設備、御もてなしに大満足頂き嬉しいことです。
 最初の訪問先は津軽国一ノ宮の岩木山神社です。岩木山は雲の中で姿は見えません。ここで地元の神人さんや参加者の縁者の方々数人が合流しました。そこからは自家用車で同行する形です。



朝早い参拝ですのでいつも程の参拝客も無く、ゆっくりお岩木さまを味わえました。
 岩木山神社の紹介は以下です。
「津軽富士とも呼ばれる美しい岩木山のふもとにある神社で、創建約1,200余年の歴史を持っています。岩木山神社は、本州最北端の鎮守様の木材・県産のヒバを使用し、古いものは390年の風雪を耐えた建造物です。
 岩木山を望む鳥居から本殿までの長い参道は、杉木立に囲まれています。
 何回かの焼失を経て、藩政時代に再建された社殿は重厚で「奥の日光」という異名を取るほど秀麗です。旧暦8月1日を中心に行われるお山参詣、津軽の象徴である岩木山は「お山」とか「お岩木様」と呼ばれ、津軽の人々の信仰の山です。」
      
 大石神社は岩木山の裾野を北に向かって程なくあります。参道の山門にはおどろおどろしい赤、黒の龍体が柱に纏わり着いています。

 参道には白馬をお祭りした祠が20基もあります。農耕馬の守護神として祀られたのでしょう。拝殿の裏手には石垣で囲われた巨石が2つ、陰陽石が鎮座しています。
 祭神は高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)です。
「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、両神が対になって男女の「むすび」を象徴する神であり、大石神社が安産・縁結びの神様として信仰されているようです。
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/035_oishi/035.htm
 拝殿脇に、「竜神御鎮座所」と記された立て札があります。かつて私が参拝した時には大石川のせせらぎが下を流れていたのですが、数年前の台風の影響で川の流れが変わり今は見ることが出来ません。直ぐ側の杉の巨木が真っ二つに折れています。自然の力は凄いです。


 そんな中にこれまた驚きのことがありました。巨石を案内して拝殿前に戻るとなんとそこにはIさん親子がいるではありませんか。五所川原市に住んでいてあわ歌の会、モンゴル旅行も一緒に行った二人です。例年、大石神社から奥の赤倉山に登るのだそうですが、駐車場に大型バスがあるので珍しいと思い見たら、フロントに仙台天命塾とあったので私たちだとこちらに来たようです。ご主人も後で来ましたが驚きの再会でした。縁結びの神の成せる業でしょうか。

 巌鬼山神社(がんきさん)は岩木山の麓を更に北西に進むとあります。元々も岩木山神社がここに鎮座していたものが遷座したので岩木山神社元社と言われます。参道の杉木立は素晴らしい気が漲る心地良い世界です。そして拝殿の左手にある御神木の大杉は樹齢1000年を越える見事なもので、その存在感は圧巻です。
http://www.genbu.net/data/tugaru/gankizan_title.htm





 皆さん思い思いにこのエネルギーを満喫して津軽、お岩木さまの元の元を楽しんで頂きました。

2016年6月19日日曜日

616「縄文・アラハバキ5」2016,6,18

 6月4日午前11時、大湯ストーンサークル、万座環状列石前での神人さんの奏上の後、メッセージがありました。最初の言葉が聞き取れず些か曖昧、不明ですが以下のような内容でした。
「ここに合う事も良し。
 謂わば、我が友、男と大地、この上喜ばしきと。
 そこかしこ、皆、所縁(ゆかり)ありし者、ここに集う意味あり。
 聞し召せと。
 皆、各々、いわば必要とし、繋ぎし者、縁(えにし)有る地の出。
 時越えて約束ありし者、各々学び、教えてあり。
 必要な時来て、繋がり始まり、この地の始まり、終わりて始まり。
 皆ここに集いし時来たり。
 各々、諸々あり。
 又集いし、祀りだし、我ら霊もそなた人と共に致し、作る世、又始まり。
 空の上から人降りて、この地より始まりて、多く皆集いて、必要なこと行い、約束するこの地。
 繋ぎ、世のそこかしこに散らばり、時越えて又同じと致す。
 約束の時、到りて 皆々現る。
 神人、名を「ふるうぬし」と申す。
 この世、祀り、取り仕切りた者、時来たりて又、祀り致す。
 我らこの地守りて来た者、縁有る者集い、繋ぐ。
 顕る石、皆の思いを固めたもの。
 そこかしこにあるは皆それぞれ1つ1つ、物言わぬ石、思い込めたもの。
 約束の形、輪として繋ぎ世の現れ、神の心繋ぐ形。
 そなたら皆、この形、心をおき、皆と繋がり、世に現わし、変え行く事。
 物申す時。
 霊、人共に。」




 お言葉が終わり空を見上げると、雲が渦を巻いて天空に舞い上る姿は、将に龍体の様です。暫くするとその姿が四方八方に拡がり行きます。
 お言葉にあるように、
「空の上から人降りて、この地より始まりて、多く皆集いて、必要なこと行い、約束するこの地。
 繋ぎ、世のそこかしこに散らばり、時越えて又同じと致す。約束の時、到りて 皆々現る。
 必要な時来て、繋がり始まり、この地の始まり、終わりて始まり。
 皆ここに集いし時来たり。又集いし、祀りだし、我ら霊もそなた人と共に致し、作る世、又始まり。
 そなたら皆、この形、心をおき、皆と繋がり、世に現わし、変え行く事。物申す時。
 霊、人共に。」
 始まり、終わり、始まりの地であり、今日から始まったようです。約束の時に至り、大きな意味有る集いが成され、霊と人共に新たな世に変え行く時の始まりのようです。
 ありがたきことです。暫し、この地のエネルギーに浸り、各自、思い思いに時空を超えた物語世界を楽しみました。

 大湯環状列石については以下です。
「秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。国の特別史跡に指定されている。環状石籬(かんじょうせきり)やストーンサークルとも呼ばれる。」
http://www.ink.or.jp/~oyusc/index.html

クロマンタ山(黒又山)は大湯ストーンサークルから見えますがピラミッドの山様です。ある種の祭祀が成されたものと両者は関連して考えられています。興味のある方は以下を参考にしてください。
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/9ada2ade4b9454af32bb39f8c01ab4f4
http://www008.upp.so-net.ne.jp/k-hime/kuromanta.html/

 バスは十和田湖休屋へ向かいます。12時半に湖畔のお店で豪華なきりたんぽの昼食を頂きました。

 昼食後は十和田神社を参拝し、湖畔に立つ乙女の像を見学です。青森、十和田湖も初めての方も沢山いて、その神秘的な自然美に皆さん感動しておられました。



 奥入瀬渓流の素晴らしい渓流、沢山の滝を見ながら石ケ戸までバスは進みます。小雨の中、銚子大滝では下車して、その瀧の圧巻の姿を間近に見て大満足です。石ケ戸でも下車して巨石の石ヶ戸を見て、奥入瀬川の散策です。皆さん新緑の活き活きした緑深い青き森のエネルギーを満喫しました。



 心身が満たされた中、バスは一路、大鰐温泉の宿に向かいます。不二やホテルは天命塾お気に入りの常宿ですが、宿には予定の16時半に到着しました。
 今日は仙台駅出発、休屋での昼食、そして宿の到着と全てが予定の時間通り進んでいます。これも大いなる計らいなのでしょう。