2016年5月31日火曜日

610「戸開き7」2016,5,30

 七戸町から十和田市に向かいます。快晴で残雪のある八甲田山の峰々が綺麗に見えます。

遅めのランチを農園カフェ・日々木で頂きました。民家風の内部は綺麗に改装されたお店で、日々木と書いてひびきと呼びます。私たちのあわ歌の巡りにぴったりの響きのお店です。ランチタイムの予約は出来ないのですが、是非ともとお願いして遅い時間で受け付けて頂けたのでした。


 農園かご盛りランチを頂きましたが美味しくお得な内容で、コーヒー、デザートもあり皆さん大満足です。時間が押してきていますのでそこそこに出発です。ここまで昨日から一戸から九戸まで巡り残すは、戸来(へらい)、と十和田湖の戸和多戸です。

 午後の最初は新郷村戸来の大石神ピラミッドです。ここも何度も訪れていますが、年々案内板、標識など整備されてきていて、キリストの墓程ではありませんがだんだん観光地化してきています。へらいの地名はヘブライから来ているとか。ユダヤの方々が古の頃にこの地に来て住んでいたようです。キリストと弟のイスキリの墓が在るのですがその真偽は分かりません。
 キリストの墓から少し十和田湖方向に進み右に入り、お墓から10分ほどで到着します。この発見の経緯などは以下のようです。
「竹内巨麿がキリストの墓を発見した翌日、(竹内氏に同行していた?)鳥谷幡山という人がこのピラミッドを発見した。「竹内文書」では世界各国のピラミッドの起源は日本にあったとされていて、これがそのひとつだというのだ。後に「竹内文書」研究家にして日本ピラミッド研究の大家・酒井勝軍もこの巨石群を調査し、石の割れ目が正しく東西南北を指していることを確認したという。」
巨石信仰であった当時、この地はその祭祀遺跡のようです。
http://www.aptinet.jp/Detail_display_00000488.html




 いつもの10m四方はある巨石の鏡岩の上であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「続きて参りて、響きて参られ。
 大いなる是よりの働きへと繋がりゆく事なり。
 果たせるや、これよりの事、皆々申した。
 是よりの事々しっかりその身のものと成し行かれませ。
 大きなる定めと致します。」15:38

 十和田湖畔のホテル街は未だ閉鎖されていて往年の賑わいはありません。夕暮れ間近で十和田神社も閑散としています。参道の杉の巨木は身体を浄化してくれるようで心地が良いです。この神社の縁起は以下のようにあります。
「青龍権現とも、熊野権現とも呼ばれていた十和田神社。その縁起には2通りの説があるとされています。
 一つは大同2年(807年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂創建とされる説。東征のおり湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈願しイカダを組んで渡ったという。
 もう一つは、南祖坊(南蔵坊、南草坊ともいう)によるもの。熊野で修行した南祖坊が、鉄の草鞋と錫杖を神から授かり、「百足の草鞋が破れた所に住むべし」と夢のお告げを得て、諸国をめぐり、十和田湖畔で百足の草鞋が尽きたといいます。当時、十和田湖には八郎太郎というマタギが、湖の岩魚や水を喰らううちに八頭の大蛇となり、湖を支配していたそう。そこで、南祖坊は、その霊験により九頭の龍に変化し二十尋(約36m)の身体を、十曲(とわだ)に曲げ、八郎太郎を退治たという伝説が残っています。南祖坊を青龍権現として崇め祀った名残りが今もあり、境内の熊野神社には彼の履いていたという鉄の草鞋が奉納されています。」
 http://www.genbu.net/data/tugaru/towada_title.htm

 本殿参拝もそこそこに、本殿脇の熊野神社を過ぎて、南祖坊を青龍権現として祀る奥宮の青龍神社に向かいます。長い階段を上りますが、木道が整備されてありがたいことです。


木々の葉が未だ繁茂していませんので青龍神社からも湖が綺麗に見えます。
最後のあわ歌の響きを発しました。その時のお言葉です。
「あ~(拍手)
 ありがとうございます。大きなる響きを頂きました。
 是よりもこの響き持ち、この光持ち行き、それぞれの大きなる思いを真の元へと繋ぎ行き、大いなる新たへ向かいましょうぞ。
 この北の地の力こそ、大きなり。」16:46



 目出度く北の地の戸を開く巡りを終えることが出来ました。お言葉でも「ありがとうございます。大きなる響きを頂きました。」とあります。今回参加してくださった方々の熱心な、素直な真心があわ歌の響きとなって新たな戸開きへと繋げることが出来たようです。さらに「この北の地の力こそ、大きなり。」とあります。これからも引き続きこの北の地の力を発揮して頂けるよう、努めて行きたいものです。貴重な体験をお与え頂きありがたきことです。
もう時間は5時です。急ぎ仙台への帰路に着きました。


途中、Kさんと田山サービスエリアでお別れし、岩手山の全容を綺麗に見て無事に仙台に8時半過ぎに到着できました。ささやかな食事会をして散会となりましたが、全てはお蔭様です。





2016年5月30日月曜日

609「戸開き6」2016,5,29

 五戸町の根岸八幡宮には以前にも中山さんを同行しています。社殿前には樹齢300年の巨大なイチイの木があります。見事な枝振りで、大きな円になるように剪定し育ててきているもので、添え木もしてあり他に無いものです。社殿の彫刻も素晴らしいもので龍神様が今にも現れるような見事な技です。http://www.aotabi.com/ao/5/nehati.html




 燦燦と降り注ぐ光の中であわ歌を奏上しました。その時のお言葉です。
「高々と掲げ行く、大いなる思いを、只々素直になさり行く事、この地にある方々にとって、如何に困難あるやは良く良く知りたるが、皆々様の真の思いは、その困難、一瞬の内に粉々と成して流しゆく大いなるものなり。
 ご自分の中に在りて、その身をこれまで立派に活かし来る方々、信じてこの時に、共々その思い、発して参られませ。」11:46



 五戸の次は六戸です。鶴喰若宮八幡宮は鶴喰集落の外れ、天皇山の麓の林の中に鎮座しています。看板のような目印がないので下見の時には見つけるのに難儀しました。鳥居を過ぎて直ぐに巨大な桂の木があります。参道を少し行くと長い階段があり八幡様が鎮座しています。その階段までの参道にはサワラ・桂・銀杏の樹齢400年の古木をあり御神木として注連縄が張られていて、この3本の御神木を六戸町で天然記念物に指定をしています。






 この地は南朝三代目の天皇長慶天皇に所縁があり、天皇山もそこから来ているようです。
 以下のような表記があります。
「南朝は、結城氏、伊達氏、葛西氏、南部氏といった、奥羽の有力な領主らが南朝方であったため、中央で南朝勢力が衰退した後もその足跡を奥羽各所に残している。戦国末期での奥羽の歴史はまさに南北朝期の争いの中にあったといって良い。それらの伝説の彼方にあるだろう史実の中心が、北畠氏であり、護良親王でありまた長慶天皇であるだろう。中でも、北畠氏は津軽で大きな勢力を築きながら、戦国末期に津軽為信に滅ぼされ、恐らくはこれで奥羽の南北朝期は終わったというべきなのだろう。
 この六戸町の「天皇山」の鶴喰若宮八幡神社は、長慶天皇の陵墓との言い伝えがあり、近くの「駒形神社」は、長慶天皇の愛馬を祀ったとされる。またこの「天皇山」周辺に住む方々は、長慶天皇の従者を先祖として持ち、この陵墓を守るためにこの地に残ったとする伝説が今も強く語り継がれている。」
http://www.pacs.co.jp/hist_walk/blog/mitinoku/archives/200.html
「ここの南・「鶴喰」の小高い山は「天皇山」と名づけられており、天皇は、ここで村を見おろし、余生を送ったとされていて、その頂上の「若宮八幡宮」は付き従ってきた家来達が建立したといわれています。天皇山のふもと「明光山月窓寺」の本堂には天皇の位牌も安置されているとか。いずれも長慶天皇の潜辛をしのばせる話です。」

 樹間に差し込む光は明らかにエネルギー変換されて心地の良い情報になっています。

桂の巨木に向かってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「大いなるなり。永きに渡り、ここにあり。これよりも大いなる姿をお願い申す。(拍手)
 響きはこの身を活き活きとさせたり。これより参るこの地を活き活きの水、活き活きの風吹かせて、嬉しき光を注ぎて下され。大いに是よりも生き、行きましょうぞ。(拍手)
 ありがたき。共に嬉しき地と成し行きましょう。」12:29

 七戸の見町観音堂も長慶天皇に所縁のあるところです。以下のような記載があります。
「室町時代の建築様式を伝える貴重な建物で、堂内にある絵馬や羽子板、読経札、棟札などは、国指定重要有形民俗文化財となっていますが、この観音堂は応永3年(1396年)に南部政光が長慶天皇の菩提を弔うため、創建したと伝えられています。」
http://www.aotabi.com/ao/7/kannon.html
 鳥居から参道を登りなだらかな道を進むと茅葺の観音堂があります。屋根の上にも木々が生い茂り、長き星霜を経て、未だここに姿を留めています。太陽の強い光を受けながら、観音堂に向かってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「進みて参る是よりは、それぞれ支えるその身には、大きなる見えざる多くがあり、日々それぞれがその身を開き、気を通わせて、一つとなりておられれば、多くの支援は働きます。
その時、肝心要はその身の思い定まりて、進みておらるる事なり。定めて共々参りましょうぞ。」13:33









2016年5月24日火曜日

608「戸開き5」2016,5,23

 2日目8日の朝は快晴です。ホテルから八戸市街、さらに太平洋が一望できる素晴らしいロケーションです。6時前からホテル玄関前では車が40~50台が乗り付けて朝市が行われていて沢山の近隣の方々が買い物に集まっていました。私は野菜や加工品、海産物などを覗き見して朝風呂に向かいました。皆さんで7時からバイキングの朝食を頂き8時前には出発出来ました。
 最初の目的地は八戸市南郷区島守にある龍興山神社、その山の麓にある福一満虚空蔵菩薩堂です。以下のような紹介があります。
「日本三大虚空蔵菩薩の一つで丑年、寅年生まれの守り本尊。
 京都の法輪寺、福島の円蔵寺とともに日本三大虚空蔵とされている菩薩堂です。
 丑年と寅年の守り本尊とされ、地元では「こくぞうさん」の呼び名で信仰されています。入り口には、御影石でできた牛と虎が対になった大きな石像があり、なでるとご利益があると言われています。」
http://blogs.yahoo.co.jp/yn37/32000605.html








 総合情報館、朝もやの館の駐車場に車を止めて参拝しました。龍興山は目の前で、新緑に覆われ、ピラミッドのようにそそり立ち一際存在感があります。菩薩堂は狛犬ならぬ牛と寅の大きな御影石の石造が鎮座していて迎えてくれました。朝日が降り注ぐ中、タンポポが咲く草の上で心地良くあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「燦燦と降り注ぐこの光を受けて、皆々生き生き、嬉しき、楽しきを只々過ごしたこの良き地が有りたり。
 幾多の争い、変化の後に、許されし皆々が作りたるがこの今なり。
 大いなる嬉しき地となりたるや、良く良く知りて、遥かなる真へ参る是よりを、しっかり定めて遥かな光と、豊かな水、澄み渡るこの気と共に参られませ、新しきへ〜。」8:51

 次の目的地は南部町に聳える名久井岳の山中にある恵光院 長谷観音堂です。四戸の地名は残っていませんので、かつてはこのあたりではと思える南部町の中で是はと言うところで決めさせて頂きました。恵光院には以下の紹介があります。
「宝珠山恵光院の創建は元中7年(1390)に開かれたのが始まりと伝わる古寺で、本尊である長谷十一面観音像を祀っている事から長谷寺とも呼ばれてきました。別の由緒によると建徳元年(1370)、長慶天皇の弟である明尊により開かれたとされ、境内背後の高台は長慶天皇が僧侶と偽り当地まで逃れ御所を構えた場所で、天皇も当地で崩御されたと伝えられています(南部煎餅は長慶天皇が長谷寺を訪れた際、家臣である赤松助左衛門が自分の鉄兜で焼き上げ献上したのが始まりとの説があります)。」
http://www.sukima.com/12_touhoku00_01/05keikou_.html






 観音堂の前、大銀杏の下であわ歌を響かせました。お堂には朝の光も燦燦と降り注いでいました。その時のお言葉です。
「来る日を大きなる素晴らしきとなさるは、皆々様の真をここに現し行く事なり。
 多くの永き時を経て、全く新しきへ向かうこの宇宙、この地球、それぞれの宇宙の大いなる  支援と共に参り行く。
 ここに現し行くは皆々様なり。
 しっかり受け止め、発し行き、多くの方々皆々共に参りましょうぞ。あ~」9:57


 三戸はかつて南部藩が盛岡に移るまでの中心地でした。三戸城の概要は以下に詳しく記載されていますので興味のある方はお読みください。
http://www.aotabi.com/ao/3/siro.html
 その三戸城跡には糠部神社があり、樹齢800年という杉の巨木、樹齢400年のサイカチや黄色い桜など珍しい木々があり、公園として整備されています。桜の名所でもあり、まだそこかしこに桜が咲き、つつじも鮮やかで、暖かい日差しに甘い色香をかもしています。








その桜の木の元であわ歌を響かせました。
「この身を借りて、数年にわたりて、共々為し行き来たりたり。
 ここに発し行くは始めなり。
 苦しき時を過ごし来て、遥かなる光の支援受け、新たなる道へと参ります。
 ここに申すは、皆々様の響きは、それぞれそのご自分の全てに伝わり、小さき全ては思いを受けて、それぞれの場を務め行く。
 大いなる光を只々この響きに乗せ行けば、全てを統べる身となりて、只々嬉しきへ参ります。
 この歌響くは大きなる真へ繋がりて参る事。
 いやいやいやう〜ありがたき。」10:40