2016年1月27日水曜日

568「仕切り11」2016,1,26

 今回の巡りは目出度く終わりました。自然に活かされ、自然を神として、畏怖し感謝の存在として捉えて、古のこの日本国の先祖、先達達が、知り得た宇宙法則、仕組みを宗として教え、それを信仰として来た姿が見えてきました。
 先ずはいのちの安全、継続の為に居住に適した場所、そして食料やエネルギーなどの諸々の自然の恵みをいただける地を選択すること、その為には地形、地理的条件を見定める視点は不可欠です。その法則を知りえていた長がいて、その考え、判断が大きく影響していたと思えます。その長にはこの3次元的現象世界に顕現する仕組みをもつ高次の無形世界からの情報を感受できる能力、未来を見定める予知能力など神的存在との通信、ネットワークが出来ていたように思います。ある時代にその長、リーダーとしてスサノウがおり、国土を治め、その治世は多くの民を豊にし、その存在は慕われ、崇敬されていたのでしょう。
 しかし、スサノウから次の存在に役目が変わり今ここに至ったことも、この世界での必要、必然だったのでしょうか。

 日本で見られる荒神信仰、地母神信仰、スサノウの存在について、「スサノウの数字」の中で以下のように記されています。
「荒神信仰に見られるように、日本人も古くから火を畏れ、信仰して来た。火は闇を照らし、善や知恵の象徴とされる「光」の源。不浄なものを焼き尽くし、清浄にする。常に上へ上へと燃え上がり、燃やした物を煙として立ち上がらせる。
 火は人間の生活に必要不可欠なものであるが、扱い方を間違うと死に至らしめる恐ろしいもの。人間はその火や炎を神聖視し、神格化し、太古の昔から崇拝してきた。そのような信仰にインドのゾロアスター教がある。
 火炎信仰といえば、仏教では不動明王は背中に火炎を背負い、憤怒の形相で人間界と仏界を隔てる火生三昧に住している。人間界の煩悩や欲望が天界に波及しないように、烈火で焼き尽くす炎の世界のことを言う。不動明王信仰は火炎そのものを信仰するのではないが、火を頼り、その力を貰っている点では同じといえる。」

「復活(命の蘇り)は古代人にとって聖なる物語。ツクヨミとウケモチ、スサノウとオオツゲヒメの物語は、自然の厳粛な摂理を神話的に表現したもので、出雲は「蘇り神話」のふるさと。西の果ての出雲はスサノウの母イザナミが隠れた根の国(幽界)とされ、一方、太陽が出る東、伊勢にはアマテラスが祀られ、西の出雲と東の伊勢、それは日の出と日没、生と死の循環を象徴するものだ。」

「見えない部分とは、何も変わらない世界であり、そこに再生復活の本当の意味とその真実がある。その真実とは宇宙の法則、自然の摂理にほかならない。このことをスサノウ一族は解かっていた。
 宇宙、地球、自分自身、生命の根源を知らないと、見えない世界は見えてこない。この見えない世界には、すぐそこに存在する時間も含まれる。こうしたことを知り、そこに意識を向けなければ何も見えてこない。見えない部分とはまさに生命の根源、自然の摂理でスサノウは根本的に譲らなかった。」

「スサノウはある意味、危難を乗り切る為の重要なフィクサーといっても過言でない。彼のやってきたことは現代人の心の拠り所であり、今後も心の守護神として導いてくれると期待している。
 神道系にも火の神、竈の神の荒神信仰があるが、他に密教、道教、陰陽道などが集合したスサノウ信仰、いわゆる「牛頭天王」信仰もある。」

 更に大井氏は以下のように纏められています。
「大地に刻印をするには点(基点)を作る必要がある。点を正確な線で結ぶことが出来るのは円(和)であり、男女、夫婦、親子などどのような点であってもその中心を結ぶことが出来る。そうして出来るのが和であり、円であり、人が生き続け、生命を繋げるということはこうした和を作り出すことだ。
 古代人がこうした刻印をして来たのは、幸せに生きたいと願い、人生を享受するためであったと思われる。」
「正確な時、場所、時間の経緯などを正しく知ることは人が何時生まれ、どのような生き方をするのかを認識することに他ならない。時を知るには正確な場所を基点とすることが大切で、基点とはある場所と場所を結ぶ為の中心点で起点でもあり出発点でもある。」
「地盤が脆弱で、火山の多い島国で安心して生活するには、時間や地理、場所などを正確に把握して危機を察知し、乗り切る必要があった。その為に現代人の及ばない驚異的な知識と経験で刻印を残してきた。そして非常に広範囲な基点を設け、そこを軸に主要な神社等を建てられていることを思うと、古代人の叡智に感動する。」

 果たして今起きつつある立替、立直しには、是までスサノウを始め、稀有な能力を持ち、神的な役割をこの次元で果たすべく、送られて来た先人達が成した仕組みが機能しているのか、はた又、新たな仕組みに切り替えが成されるのかわかりません。見えない世界で成されている物語が現象化されないと私達には分からないことですが、私には大きな仕切り直しがいよいよ始まるように思えます。
 古の覚者の打った点の法則を読み解き、新たな時代、次元変換の時にスサノウ的な役割を担い、点を定めて打ち直し、危難を乗り越え、子孫に豊な未来をもたらせる基盤作り、国土造りを如何様に成すかです。その役割の方々はそろそろ登場でしょうか。
 中心として、点(基点)なる縁者の共鳴因子を起動させて教導し、機能化して、円(和)となり、その人達が動き、働かない限り、次は開かれない様に想います。点と天なる共同想造です。それを目的にこの時所に生きる御魂にはいよいよ時節到来の時です。皆々様方、くれぐれも準備怠り無くです。
 
 最後に関東の基点の一つでスサノウ所縁の江島神社参拝の様子です。江島神社は、552年、欽明天皇の勅命で、岩屋に宮を建てたのがはじまりとされますが、由緒等は以下です。
「御祭神は、天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれた神で、三人姉妹の女神様。
 奥津宮の多紀理比賣命、中津宮の市寸島比賣命、辺津宮の田寸津比賣命、この三女神を江島大神と称している。古くは江島明神と呼ばれていたが、仏教との習合によって弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるに至り、海の神、水の神の他に、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として今日まで仰がれている。福岡の宗像大社や、広島の厳島神社と御同神でもあられます。江の島弁財天は安芸の宮島、近江の竹生島とともに日本三弁天です。」
「江ノ島全体が龍の巣ともいわれ、龍神をおさえる関東の要所です。かつて江ノ島は修行の島でした。江ノ島最奥にある江の島岩屋の洞窟は、修験道の開祖・役小角、弘法大師空海、日蓮聖人などが洞窟に籠り修行したとされる、修験道の霊地です。
岩屋の扉の先は、昔から富士山の鳴沢氷穴に通じていると伝えられ、洞窟の奥から来る冷たい風は富士山からの風と言われています。」

 沢山の参拝者で賑わっていました。辺津宮(下の院)を参拝し、江の島弁財天が祀られる八角形の御堂の奉安殿、スサノウを祀る八坂神社だけの駆け足の巡りでしたが、八坂神社に丁度光が射していました。
 ここ江ノ島も富士山と氷穴で繋がっているとの事、富士山を要に更に如何なる仕組みがあるのでしょうか。






2016年1月25日月曜日

567「仕切り10」2016,1,24

 富士山の裾野を三島からスタートしてひと巡りしましたが、ある意味で現代版の富士講、浅間講を行ったようです。「スサノウの数字」では更に分析が進んでいきます。次のテーマは関東地方の中心はどこかです。ここではあまり詳しく触れずに結論だけお伝えします。

・富士山と須賀神社のラインの延長上に玉前神社(千葉県一宮町一宮)、その少し南に貝須賀鹿島神社(千葉県いすみ市大原町)があり、その差は須賀神社と10秒で310mの差。
 そしてこの貝須賀鹿島神社と富士山を結ぶ中間点が「源頼朝墓所」で、その西500mに鶴岡八幡宮がある。
・須佐神社から東へ、もっとも東端の時間軸と思えるところに猿田彦神社(銚子市猿田町)がある。そして富士山と猿田彦神社の中間点に「神田明神」がある。この神田明神は時間軸でなく土地の中心軸である。
・神田明神と富士山を結ぶ円を描くとその円上に、犬吠崎、武田神社、三島大社がある。
 神田明神を中心に富士山を通らない円を描くと、成田山新勝寺、高尾山薬王院、寒川神社、江島神社、鎌倉がある。
・神田明神と同じ東経139度46分04秒の上の線上には平将門首塚、川崎大師、林羅山墓地、大塚先儒墓所、佐藤一斎墓などがある。
・江戸城は東経139度44分59秒にある。時間軸は東経139度43分51秒であり神田明神との中間の東経139度44分58秒で江戸城とは1秒差でしかない。つまり「江戸城は時間軸と土地の中心軸の中間にある」。
・江戸城と富士山を結び、円を描くとその線上に犬吠崎、武田神社、伊豆大室山がある。
・小田原市にある紀伊神社と出雲須佐神社はほぼ同緯度で、3秒(100m弱)差でしかない。その緯度のライン上には、他に多賀大社、富士山本宮浅間大社、箱根元宮神社、貝須賀鹿島神社がある。
・神奈川県松田町の寄(やどりき)神社と出雲大社はほぼ同緯度(500m差)にある。
・紀伊神社と寄神社の経度はどちらも139度08分上にある。9秒の差があり225mの差でしかない。この2つの神社に出雲と位置的な関係があり、富士山のお膝元であり、何らかの刻印が押されている。

 これらを更に簡単に纏めると以下のようです。
「関東の中心は神田明神であり、平将門首塚、江戸城はそれら中心軸を考えて造られている。鎌倉の鶴岡八幡宮、源頼朝墓所も、出雲と富士山の関係の中でみると中間点であり、重要な場所だ。
 出雲の須佐神社、出雲大社の位置関係は、紀伊神社と寄神社の配置と相似形でスサノウの刻印がされている。」

 ここに登場する鶴岡八幡宮、紀伊神社、寄神社等を巡りましたので簡単に紹介します。

 鶴岡八幡宮は鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として有名です。
「当宮は康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。
 その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。」
 沢山の参拝客で道路も大渋滞で駐車場もいっぱいです。源頼朝墓所の白旗神社まで辿り着けずに鶴岡八幡宮の境内社で参拝しました。






 寄神社は北条氏の小田原城から真北にあります。「スサノウの数字」の中では足柄平野の玄武は寄神社で、朱雀は紀伊宮大権現とあります。つまり四神を配置しているのです。
 寄神社寄神社は、神仏混交の寺社で、かつては弥勒寺と呼ばれた禅刹です。神社の鳥居前に寄大杉があり、北条政子の安産祈願に植樹された樹齢700年の大銀杏で産土神が祀られています。この地は縄文中期から人が住んでいたようで、方位取りの為に造られた神社で北の玄武が祭神で、弥勒大神ほか18の神様を祀っています。




  紀伊神社は小田原城の南の朱雀にあり、早川の氏神様の紀伊宮大権現で、以下の紹介があります。
「往古は木宮大権現、のち紀伊宮大権現と称され、土地の人からは「木の宮さん」と呼ばれた。箱根物産木工業の人たちに昔から崇拝されてきた神社である。
 神社縁起によれば、貞観年中(859~876)の創建で、祭神は五十猛命と惟喬親王(文徳天皇の第一皇子)とが奉祀されている。」
 東海道線の線路のガードレールを潜り神社はあります。神社脇の御神木の大楠木は中々のものです。光が降り注がれていました。
 


 小田原城から北、北極星に見立てて、宗我神社は鬼門の北東に配置された神社です。その由緒は以下です。
「宗我神社は、曽我の人々が小澤大明神を崇拝して祀ったことがそのはじまりだという。
1028年(長元元年)、大和国の宗我都比古神社の神主だった宗我播磨守保慶が、祖先の宗我都比古命と武内宿祢命を祀って社を創建した。」



 ここは曽我兄弟に縁のある社とのことですが、赤穂浪士の仇討ちと供に日本三大仇討ちの一つです。
「曾我兄弟の仇討ちは、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。」

2016年1月23日土曜日

566「仕切り9」2016,1,22

 忍野八海は沢山の中国人観光客で溢れていました。以前にも増してあまりにもの観光地化に驚きです。ささっと巡りました。

 忍野八海から程近い忍草(しぼくさ)浅間神社に参拝しました。こちらは落ち着いてお参りできます。
「忍草浅間神社は大同2年(西暦807年)に創建されました。桧皮葺屋根・三間社流れ造りの本殿は村指定重要文化財です。本殿には、木花咲耶姫命・鷹飼(たかがい)・犬飼(いぬかい)坐像の三神像(国指定重要文化財)が祀られています。」
 立派な社殿で時代を感じる由緒ある神社です。源頼朝所縁の神社でもあり、江戸時代に盛んだった富士講の聖地の一つになっています。



 ここで富士講(浅間講)について少し触れてみます。富士山とその神霊への信仰行うものですが、狭義には江戸時代の民衆信仰を言います。その起こりは角行(かくぎょう)藤仏(1542年~1646年)という行者によります。角行の伝記などについて以下の表記があります。
「応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記された。
 当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。」
「富士講の説では、人穴にて修行中の角行行者に徳川家康が謁見し、天下泰平のための法を伝授され江戸幕府を開いたと伝えられています。」
 
 仙元大日神とはどのような神であったのでしょうか。更に富士講について以下の記載もあります。
「富士信仰の信仰対象は、山そのものであり、浅間大神・仙元大菩薩・木花咲耶姫大神である。この神は、大日如来と一体のものだとも云われているし、穴信仰では弁天と同一視としている場合もある。」
「参拝者は、富士山の頂上を目指すのではなく、人穴や山麓にある「富士八海」と呼ばれる霊場をまわった。今日では、富士五湖と言われるものだが、八海には富士吉田市の明見〈あすみ〉湖と泉津湖、それに市川三郷町の四尾連湖(その時代は志比礼湖)も含まれていた。この富士八海には、「法華経」に登場する八大龍王(あるいは八大龍神)がまつられていた。今流に言えば、パワースポットだったのである。こうした信仰者たちを神社として集める中心となったのが、静岡県の側では、富士宮市の富士山本宮浅間神社であり、山梨県側では、富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社である。北口とは、吉田口の登山道のことを言い、両者では「富」と「冨」の字が違う。」
 東口本宮冨士浅間神社も立派な神社です。須走浅間神社(すばしりせんげんじんじゃ)とも言われます。その由緒は以下です。
「平安時代初頭・延暦21年(802年)、富士山東麓が噴火をしたため、須走に斎場を設け祭事を行い鎮火の祈願を行った。それにより同年四月初申の日に噴火が収まったため、大同2年(807年)に鎮火祭の跡地に、報賽のため社殿を造営したと伝えられている。」
 閑散とした中に神気満ちるエネルギーを感じます。




 冨士巡りを終えて三島に下ります。
 ここまで来て、私のお気に入りの長泉町元長窪にある愛鷹水神社を参拝するのを欠かせません。富士山の南東側にある愛鷹山の山中、富士山からの湧水が流れ来る渓流に小さな滝があります。その脇に神社はあります。
 この由緒は以下のようです。
「日竜上人明治初年、中山法華経寺大荒行道場の修法を成満し、桃沢川をたどりこの地に着き、水神竜王尊楼神の姿を霊感してこの地に修験の行に励む。明治36年水神竜王尊を配置し本堂建立、その後、昭和50年日蓮宋々教法人愛鷹教会となり法華経の道場として水信仰の場として現在に至る」。

 参拝者はおられず一人で富士山からの龍脈、龍神様のパワーを満喫しました。滝には光が降り注ぎ、素晴らしいエネルギーです。










2016年1月21日木曜日

565「仕切り8」2016,1,21

 富士宮市にある富知(ふくち)神社は富士山本宮浅間大社の北西500mほどの位置にあり浅間大社の境外摂社で、祭神は大山津見神です。由緒は以下のようです。
「今の富士山本宮浅間大社が鎮座した大宮は、もとは福地明神(当社)が鎮座していた地、とあり浅間大社が鎮座した、平城天皇大同年間以前から、当地の地主神として崇敬されていた古社ということになる。案内板によると、坂上田村麻呂によって、浅間大社が大宮の地に移され、当社は、大宮の地から現在地へ遷座させられたらしい。」
 浅間大社が山宮から大宮の地にあった富知神社の場地に里宮として祀られ、それに伴って現在地に移って来たようです。道路脇の小川を渡った先にあるこじんまりした神社で特別なものはなさそうです。


 富士山山宮浅間神社は富士宮市山宮にあります。富士山の世界遺産の構成資産の1つですが、由緒等は以下の通りです。
・御由緒
 当浅間神社は通称山宮と呼ばれ、往古霊峰富士を神として仰ぎ崇めた人々が、山の頂から直接山体を礼拝した神聖な霊域で始めから社殿が無く、敷石は祭事執行の際、神官参列者の配列を考慮したもので、最も古い形式の神社である。
・御祭神
 木花佐久夜毘賣命 古くは富士大神を申し上げ、後には浅間大神とも申し上げた。
・御鎮座の由来
 当浅間神社は現在、富士宮市宮町に鎮座する元官幣大社浅間大社の元宮で、その御鎮祭は極めて古い。浅間大社の社記によると、人皇第十二代景行天皇の御世皇子日本武尊が勅命により東夷を征討される余次、駿河国で賊の攻撃に遇われた際、陣中で富士の神を祈念され無事、災難を免れられた。尊は深く富士の神の恩恵に感謝され、神霊をこの山宮に祀られたと伝えられている。
 更に、社記には平城天皇の大同元年(806)征夷大将軍・坂上田村麻呂が勅命により東夷を征討した帰途、浅間大神の神威を敬い奉って、現在浅間大社のある地(大宮と称した)に壮大な社殿を造し、神霊を山宮から遷し奉ったと伝えられている。その後、当社と浅間大社との間柄は山宮(元宮)里宮という密接不離な関係を保ちつつ悠久今日に及んでいる。



 この山宮は富士山本宮浅間大社の創建以前に富士信仰の大神が最初に奉斎された場所ですので、浅間大社も含め、全国に約1,300社ある浅間神社のなかで最も古いと考えられているものです。
 神社の奥に富士山を遥拝するための遥拝所があり、これは、古い富士山祭祀の形をとどめているものです。遥拝所は溶岩流の先端部に位置していて、石垣に積まれた上には、本殿といった祠などはなく神の依り代である榊の木と御神石が祀られていて、富士山が林の間からしっかり見る事ができます。まさに神域の佇まいです。現在遥拝所の階段工事が成されていていましたが仮設歩道で進め、不二の山を遥拝できました。




 この神社は社殿が無く遥拝所のみですがその謂れが以下にあります。
「美しい富士山も、ある時期突如として大爆発を起こし、人々の生命財産を奪う恐ろしい山であった。その火を噴く不思議な力を人々は畏敬し、山そのものを御神体として祀り、噴火の度に富士山を拝み、朝廷でも山の神の位を上げ、使いを派遣して富士を拝ませた。
 その富士山を拝んだ場所が山宮浅間神社だと考えられている。
 山宮浅間神社には本殿がなく、いつのころか、この神社に神様を祀る本殿を建てたいと村人が本殿造りに取りかかった。しかし、上棟式までこぎ着けたとき、大風が起こって吹き倒されてしまった。こうしたことが何度か起こり、「山宮浅間神社に本殿を造ろうとすると、
 風の神の祟りがあるので本殿を造ってはいけない」というようになった。
 こうした伝承に託して、昔の人々が古い信仰の形を今に伝えてきたのである。」
(富士宮教育委員会案内板より)

 村山浅間神社は山宮浅間神社から10分程です。祭神は木花開耶姫ですが富士修験道の中心地として栄えた神仏習合の神社です。ここも世界遺産の構成資産のひとつです。
「鎮座地は富士山村山口登山道の要所を占める。社伝によると孝昭天皇2年に富士山中腹の水精ケ岳に創建され、崇神天皇朝に神領地や神戸を賜り、応神天皇朝に社殿修造、大宝元年(701年)に現在地へ遷座したという。中世になると末代上人が富士山を修験の霊山として開くが、その末代が現境内地に堂舎を構え、以後富士山に対する神仏習合の地として発展したという。元は富士山興法寺を構成する1つであり、付属する7坊を有して多くの修験者の信仰の中心として仰がれた。」
 閑散としています。この村山浅間神社や山宮浅間神社は「富士山を守る龍神様のねぐらであり、休みの場であった。」とのことですが如何でしょうか。






 富士宮市上条にある千居(せんご)遺跡は富士山の西南麓のなだらかな裾野に立地する繩文時代中期の集落跡および配石遺構を主体とする遺跡です。
 集落跡は径約50メートルの大環状をなす20余棟の円形竪穴住居跡からなっていて、約50mほどの規模に環状列石や帯状列石といった配石遺構が12か所で検出されています。このうち、帯状列石を形造っている2本の列は、平行して直線的に富士山(の方向)に向かって配置されていることから、明らかに富士山を意識して富士信仰とのために造られている遺構と考えられています。
 遺跡から富士山が綺麗に見える素晴らしい場所です。古の民は豊にこの地で過ごしていたのでしょう。





 白糸の滝も圧巻です。ここも世界遺産構成資産の1つで、昭和25年の観光百選滝の部で1位に選ばれた国の名勝及び天然記念物にもなった名瀑です。湾曲した岩壁の高さは20m、幅200mの大スケールで、幅は日本で最大です。白糸の滝は全面から幾筋にも水が流れ落ちる姿は素晴らしいです。

「白糸の滝のすぐ上には岩窟がある。そこには「お鬢(おびん)水」という水が湧いている。このお鬢水で源頼朝は髪のほつれを直したと伝えられている。また、このお鬢水は富士講の霊場の1つでもある。」

 白糸の滝の奥には富士山も綺麗に見えます。時間が無いので滝壷には下りずに済ませました。