2014年10月9日木曜日

359「日高見遠野3」2014.10.8

 遠野七観音伝説について以下の記載があります。
「この遠野七観音は、慈覚大師が遠野において1本のカツラの霊木を得、この木から観音菩薩像を刻み、遠野郷の7箇所に祀ったものであると。
 遠野の歴史は、飢饉の歴史である。其れ故に、様々な思いが巡っていたのだろう。苦しい時の神頼みではあるが、今と違い昔は単純な願いだった。そこで男連中は遠野三山を1日で巡れば願いが叶うとされ、女子供はこの”遠野七観音”を1日で巡れば願いが叶うとされている…。
 滋覚大師の伝説が発生し、850年頃に遠野七観音が作られたという。それと共に、七つの井戸の伝説もまた伝わっている。七つの井戸といえば、小野篁の伝説が有名だ。小野篁の時代は805年なので、その伝説が遠野まで伝わってできたのが遠野七観音なのかもしれない。ただし、どういう意味を持って?と考えると、憶測の域はでないのであるが…。
 井戸は冥界に通じているという話の他に、井戸に人形を投げて呪い放つという場所として使われた。
 冥界に通じる七つの井戸水により仏像を清めて、遠野の七箇所へと分散して奉ったといえば聞こえが良いが、当時の遠野は朝廷にとっての鬼門の地の筈であるが…。
 青森の北斗七星型に建立された神社が鬼門を押さえる為にできあがった事を考え合わせると、遠野もまた封印する為の七観音という考え方もまたできる。
 呪法を永続的にする為には、庶民の信仰心を利用するというのが手段であった過去の例から考えると、滋覚大師の伝説はでっち上げで、実は鬼門の地である区域を呪法によって未来永劫押さえる意図から、遠野七観音が作られたと考えても不思議ではない。

 平城京やら平安京などは、陰陽五行により発展させる為の街作りであったが、何も陰陽五行は発展させる為のものだけではなく、その地を封印する為にも使われるものだからだ。
 とにかく七つという数字は聖数で、浄化の意があるのだが、中央から見ればあくまでも東北は鬼門である。つまり発展しては欲しくない地である事には変わりないのは、江戸まで続く歴史を見れば納得する筈。だから遠野七観音は、呪術的な意味合いが濃いと思った方が良いかも…。
 朝廷にとって、東北は鬼門の位置だった為に坂上田村麻呂を遣わし、蝦夷征伐を敢行した。風水的に、鬼門を押さえたい為だった。まあ他にも理由はあるが…。
 その田村麻呂が、青森に北斗七星の形に神社を建立し封じ込んだというのは、周知のとおり。しかし、その田村麻呂は遠野にも訪れたという…。
 さて…そこで、風水的な封印は施されたのだろうか?朝廷を中心に見ると、東北は鬼門。その鬼門の東北全体を見渡すと、更なる鬼門の位置にあるのは岩手という事になりそうだ。奇しくも田村麻呂の東征の後に建立された北は早池峰神社及び、南は伊豆神社には瀬織津姫という穢れ祓いの強力な神を奉っている。南北の軸を中心に、施された呪法があるに違いないと考えてしまう。陰陽五行に基づいた風水は、都市を発展させるデザインと共に、発展を押さえるという施しもできるからだ。
 東北でいう、西に位置するのは山形。元々西には、白虎を配する。それと西には悪気が抜けるという意味合いがあり、死の匂いもする。出羽三山神社なんど、天海が絡んでいるという事から当然、裏鬼門という意識の元に山形を押さえた風にとれる。
 例えば、出羽三山三社の階段に彫り上げている瓢箪は風水でいう「収殺」。つまり邪の気を瓢箪の中に吸収すると意味から使用されたものと考える。更に空海の真言密教が蔓延る山形には死の匂いがプンプン。やはり全国の裏鬼門という位置に属しているのが山形なのではと考えるのも、いた仕方ないものだろうか…。」

 しかし以下の様な記載もあります。
「元々四観音では?という説もあるのだが、当初と云われる、山谷観音・鞍迫観音・松崎観音・平倉観音が十一面観音が祀られているのに加え、立地を考えてみても、また並んでいる石塔を見ても、その違和感は大きい。」
 残り三観音とは宮守観音は千手観音、山崎観音は馬頭観音 笹谷観音は勢至観音の事です。 

「遠野四観音の一番は山谷観音で、2番は松崎観音。三番は上郷の平倉観音で、四番が鱒沢の鞍迫観音。この四観音で、昔は打ち止めだったらしい。
 ここで気付くのは、一番の山谷観音と二番の松崎観音を線で結び、また上郷の平倉観音と鱒沢の鞍迫観音を結ぶと罰点ができる。昔の簡単な呪法は、その地に×を打つ事だ…。
 ところで早池峰神社に祀られている早池峰大神とは誰か?それは、大祓祝詞に登場する瀬織津姫だ。そしてもう一つ、早池峰神社に祀られている観音様は何?それは、十一面観音である。
 白鳳時代から密教の流入は、従来の観音信仰を大きく変えた。そこに現れた「変化観音」は、不可思議な神威霊力を振るう最強の仏神として、国家鎮護の法要に欠かせない存在となっていった。また瀬織津姫も、最強の神としてエミシの国に祀られた経緯がある。要は最強の神と観音のタッグコンビである。
「東大寺のお水取り」で執り行われる法要「十一面悔過法要」というのがある。悔過(けか)とは生きる上で過去に犯してきた様々な過ちを、本尊とする観音の前で懺悔するという事だが、要は天下国家の罪と穢れを滅ぼし浄化する観音だ。
 つまり、瀬織津姫の穢れ祓いと同格の観音なのだ。そして瀬織津姫と違うのは、形としてハッキリ残る十一面観音を祀る事ができるというメリットだ。偶像を祀る事によって存在を明らかにし、その観音を信仰する事により”救済”という甘い言葉を振りかざし、その地の穢れを祓って浄化するという意識の現われが、瀬織津姫と十一面観音だったのかもしれない。」

  更に以下の記載もあります。
「エミシの地である遠野には閉伊族がいた…。
 東和町には、猿石ヶ川を望む場所に成島毘沙門天像がある。これは猿石ヶ川を移動手段として使う、閉伊族を睨む形で建立されたという説があるが、大量の人もしくは物資を移動させる為の最適最速の移動手段は、あくまでも川を利用したものであったと思われるので、それを阻止する手段としての、成島毘沙門天像であったのだろう。
 そして、そこから導き出される答えは、それ程までに、遠野の閉伊族を警戒していた
事になるのだと思う。
 その後暫くして、遠野四観音が建立されたわけだか、第一の観音は豊富な金山を有する、現小友町にある、山谷観音。そして次は遠野の中心、龍穴の中心に位置する松崎の松崎観音。そしてやはり鉱山資源が取れ、沿岸との流通の拠点である上郷に平倉観音。更に、猿ヶ石川を移動手段とする為に、その猿ヶ石川を睨むような形で建立された鱒沢の鞍迫観音。
 実は、遠野四観音とは、早池峰を拠点とし、遠野の地の主要な場所を押さえ浄化する
為の意味合い、いや意思を感じる観音堂だったのかもしれない。
 そしてこの四つの観音堂に加え、当時の遠野三山を結ぶと、少々いびつではあるが、
逆北斗七星の形が見えてくる。現在の地図で照らし合わせてみると、確かに不恰好だが当時の測量技術で考えれば、四観音のお堂が丁度柄杓の口の部分四つを示し柄の部分を遠野三山で大雑把に作り出せば、当時のイメージとしては北斗七星だったのかもしれない。それも逆だ…。裏返す、隔てるは当時の簡単な呪いだった筈。中国の道教で用いられる北斗踏みの儀礼を逆にするものは、当然封印を現す…。」

 更に、遠野七観音が配列されている分布図が、これが京都の妙見堂の北斗七星の形に符合するといい、遠野七観音とは北斗七星を意識して配列されたものだという指摘があります。
 


「北斗七星とは水を意識した星座であるのは確かである為、恐らく水の霊力を意識しての遠野七観音であった可能性は高い。水に加えて七つの霊力の源である北斗七星が意識されて当然だろう。ましてや、坂上田村麻呂を征夷代将軍に任命した桓武天皇は妙見信仰にはまっていた。そして妙見は天皇が信仰するものであるから、庶民は信仰してはならないという、妙見信仰禁止令を発布したほどだった。」
「遠野七観音とは、聖なる七つの星で輝く北斗七星を遠野郷に点在させ、蝦夷の民であった民衆の魂を浄化させる意図を含んでいるものだと考える。それはやはり、蝦夷平定の後の、俗化の一環であった可能性は否定できないだろうと思う。」

 長々と引用して紹介しましたが納得の個所も多々あります。
 巌龍神社、山谷観音のある小友町は金山があったようですし、不動巌の形成に係る自然の働きの中に金も産出されることになったのかもしれません。七観音の中の第一観音とされたのもその重要度があった地と伺い知れます。
 山谷観音は立派な鳥居近くに駐車場が整備されています。そこから10分弱登った先、木立の中に光を浴びている観音堂があります。お堂の左脇にはイチイの木の大きな木があります。お堂の右側には土俵がありましたのでその中であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「写したる光を廻りて、廻りて和を作り、皆々結びて生み出だす。
 大きな響きは是よりの光を届ける事となる。
 音はそれぞれ、その身を活かす元成るなり。
 皆々、音讃え、奉りて参りた。古きへ戻りませ。」14:34




 太陽の光りが燦々と降り注いでいます。田んぼの稲は実り、黄金に光輝いています。将に黄金の山です。