2014年9月4日木曜日

343「熊野転生10」2014,9,3

 出雲と熊野を結ぶ背景にはスサノウ命の存在が在る様に思います。ある方にスサノウ命は紀元前3500年に日本の地を治めていた、とお聞きしましたが通史とは異なる見解です。
 熊野三山に祀られる神々はスサノウ命やその所縁の神です。国を造り治めていたスサノウ命をこの地に封印し、この地を支配した者達はやがてスサノウ命の再生がある事を知っていると言います。それは熊野本宮での虫食い祝詞を読み解く事が出来る存在が鍵になるとも言われています。果たしてその転生が起きて、新たな大きな変化がもたらされるのかどうかが問題です。

 やがて縄文由来の原始太陽信仰が表舞台から消えて、信仰の中心が北極星に移ることになります。北極星(北辰)信仰は、古代中国の影響を受けたもので、概要は以下です。
「妙見信仰は、古代バビロニアにはじまり、インドを経て、中国で仏教と道教と習合し、仏教と共に日本に伝来したという。
 古代中国の思想では、北極星(北辰とも言う)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになった。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである。七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経には「我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見という。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す」とある。
 妙見菩薩信仰には星宿信仰に道教、密教、陰陽道などの要素が混交しており、像容も一定していない。 他に甲冑を着けた武将形で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物で北方の守り神)に乗るもの、唐服を着て笏を持った陰陽道系の像など、さまざまな形がある。」
 新道では天御中主神(あめのみなかぬし)と集合しました。少し経緯をたどってみます。

「西日本を中心に、大陸から、ルーツを異にする多数の民族が流入した結果、弥生時代は戦国時代さながらの動乱期であったことが、バリケードを幾重にもはりめぐらした数々の集落址から推定されています。
 その後、弥生人は、西日本を中心に勢力を拡大させていきますが、そのあおりを受けた縄文人たちは、アメリカ大陸の先住民であるインディアンが、開拓者に追われ僻地に居住地を移していったように、北端と南端に、居住地を移していくことになったといわれています。
 こうして、北と南へ追いやられた、原始太陽信仰のもとに生きる縄文人は、やがて、南は熊襲、北は蝦夷などのような蔑称を与えられることとなり、野蛮な民として、次々と征伐の対象となっていきました。」
「古代中国の哲学は、天文学と深く結びついていたことが知られていますが、北極星を中心とする部分を、最高の神「太一(たいいつ)」として重視し、その北極星は天帝であり、その近くに位置する北斗七星は天帝の乗り物とみなされ、この、北極星と北斗七星を総称した北辰信仰が、古代中国の思想哲学の基盤を作っていくことになったといいます。
 これは、「不動の北極星」のまわりを、無数の星が回転している様子が、「世界の諸民族を従えて君臨する王」のイメージにふさわしいものと映ったためともいわれ、北極星付近の星を、太子の星、后の星とするなど、天帝一家の星の一団は、「紫微垣(しびえん)」と名づけられ、古代中国の王は、自らを、そうした「天帝(北極星)」になぞらえていったといわれています。」
 
 日本でも、しだいに中央集権的な国家体制が強まってくるにつれ、王のイメージは、太陽のように動き回るものではなく、天空に不動の地位を占めて、その一点の星を中心に、無数の星が従い回転するという北辰に求められるようになっていきました。
 こうして、これまでの東西軸から、南北軸が、国家の神事・行事に、徹底的に実践されていくようになりました。北辰信仰に基づく南北軸への価値観の転換の例として、都の遷都があげられます。 
 667年の浄御原宮から北方の大津京へ、更に北方の藤原京、平城京、長岡京へ移し、 794年長岡京から北方の平安京へと 遷都が成されます。その間672年大津京から浄御原宮へのただ1回の例外を除き、約130年の間、新しい都は、常に北に向かって移されています。

「日本も、こうした古代中国の影響を受け、北極星と北斗七星を重視する「北辰信仰」が、知識人、そして支配階級の先進学問として学ばれていくところとなりました。
 また、学ばれただけではなく、古代中国の政治システムにならって、「天文暦法」を専門におこなう部署も作られました。
 天武天皇4年(675年)におかれた「占星台」が、記録に残る中では、その最古のものといわれています。 
 当初は、データの総括者である陰陽師たちは、天変地異など、主として自然現象に観測の主眼が置かれていたといいますが、占いは次第に、災祥や人事の吉凶に及ぶようになり、陰陽師たちは、単に占うだけではなく、災異を防ぐ役をも担うようになっていったといいます。こうして、彼らの手による陰陽道祭などが、公事として盛んにおこなわれるようになっていったのだといいます。
 しかし、こうした「北辰信仰」は、どちらかというと、中央集権のイメージに合致する、支配階級にとって魅力的な観念論であって、現実的に北極星は、五穀豊穣に関して何かを与えるかというと、太陽以上の具体的な影響力は持っていません。」

「日本は大陸から先進文化を取り入れてきましたが、日本古来の文化を軽んじ、外国の文化を崇拝するという傾向は、形を変えながら連綿と続いています。これは、大陸から先進文化を摂取していた、古代日本人の精神風土に、古くから土地にあったものは、時代遅れの古臭いもの、土着の好ましからざるものと、古い時代の日本のエリート階級においては、このような意識は、今以上に強かったものと推察されています。
 つまり、ときの中央勢力のエリート階級は、「北辰信仰」に移っていき、縄文時代に由来する土着の「原始太陽信仰」を、いまだにひきずっているのは、時代遅れの文化的程度の低い民という意味合いです。
 蝦夷とは、中央から見た差別用語であり、その蔑視の対象となっていた民に「日の本」の名称を与えているということは、「日の本」自体にも、蔑視の意味が、多少なりとも含まれていたとみるのが自然です。」

「縄文時代の頃の日本列島は、「原始太陽信仰」を共通基盤に持つ、太陽の恵みによって生きるという「日高見」の国であった。
 このような縄文文化とは異質の人々の流入により、縄文的気質を持つ人々は、南から順に制圧されることとなり、難を逃れた縄文人は北へ北へと拠点を移し、「日高見国」もそれにともない、北部に追いやられ、ついには、北上川を基点とする場所に拠点を移すこととなった。」

「「清水寺」の縁起について描かれた、幕府公認の資料の絵がありますが、蝦夷のリーダーの一人として、高名かつ、多くの追慕を集めている「阿弖流為(アテルイ)」との789年の「巣伏(すぶせ)村の戦い」の情景だとされています。ここに描かれている蝦夷の顔は「獣」のようであり、ツノを頭に生やしている者もあることから、蝦夷は、文字通りの「鬼」として描かれています。その「鬼」である蝦夷の軍船に“奇妙なモノ”が描かれています。
 それは「日の丸」のマークです。
 この「日の丸」が9個、見方によっては10個、蝦夷の軍船に描かれているのです。
一方の坂上田村麻呂の軍勢には「日の丸」のマークが見当たらないことより、「日の丸」のマークをかかげた「鬼」の軍隊を、坂上田村麻呂が征伐している情景の絵となっています。
 ここに、当時の蝦夷に対する公的な「ものの見方」が現れているといわれています。その見方とは、「日の丸」をシンボルとする「太陽の民」、それが「蝦夷」だというものです。」
 

 日本書紀(720年)に、次のような記述があります。
「東の夷(ひな)の中に“日高見国”あり その国の人、男女並に椎結(かみをわ)け、身を文(もどろ)けて、為人(ひととなり)勇み悍(こわ)し。これを総て“蝦夷”と曰ふ。亦土地沃壌(くにこ)えて広し、撃ちて取りつべし。」
 これは当時の大臣、武内宿禰(たけのうち すくね)による東国巡視の報告とされるもので、「東の夷の中に、日高見国がある。土地は肥沃で広大であるから、征服して奪い取るべきだ」という内容です。
「蝦夷征伐も大義名分の陰には、広大な土地と、そこに眠る豊かな資源の奪取があります。ときの中央勢力がねらったのが鉄であり、高度な鉄の技術を持つがゆえに、侵略の対象となりました。それがやがて金にと変わって行きます。
 そして滅ぼされた国の指導者の多くが「鬼」とされ、正史に記録されていきました。角を持っているという、文字通りの「鬼」として描かれた蝦夷が、太陽をシンボルとしているということから、太陽信仰が、蝦夷社会の背景にあったものとみられています。
 かつての日本は日本書紀にも記されている、太陽を名に冠し「太陽の恵みを受ける光り輝く美しい国」という意味の「日高見国」です。」

 今回の熊野巡りでまとめてみると色々な事が再発見でき、関連が見えてきました。
 出雲と熊野の繋がり、その原点は縄文の価値観を活かしながら治めていたスサノウ命の存在です。そしてヤマト王権が成立後、大和の地に隕石の落下により時の政権は一瞬にして崩壊したと言われます。その機を観て若狭から大和に入って支配した26代継体天皇(在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?))から以降は、それ以前のヤマト王権とは別の新たな閨閥が動いて行き、継体天皇は現天皇家の初代天皇と言われます。
 やがて蝦夷の東北の地は坂上田村麻呂がアテルイとの戦に勝利して(802年)中央政権の支配下に置かれていきますが、そこには桓武天皇の強い意向もあり北辰妙見信仰が利用されていたようです。
 妙見信仰は中国においては、紀元前二千数百年前の堯舜時代に存在した「尚書」や「詩経」「周易」などによって証明される非常に古い信仰なのです。我が国における妙見信仰の正確な伝来時期は不明ですが、キトラ古墳の「玄武」はまさに妙見さんを象徴しているといわれます。
 妙見信仰の一番古いものは大阪にある妙見寺と云われています。妙見寺は蘇我馬子(そがのうまこ)が創建したといわれ、妙見信仰は蘇我氏と関係していること、そして北極星の位置に聖徳太子ゆかりの斑鳩寺があります。妙見信仰と聖徳太子につながりがあることが考えられます。

 北辰妙見信仰は、初期の陰陽組織を成立させた役小角(えんのおずぬ)が起こした修験道と深く関わっていています。役小角は以下の方です。
「舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者。役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族。父は、出雲から入り婿した大角。」
 更に空海は806年唐から帰国して妙見大菩薩を取り入れて高野山真言密教を開いて広めて行きます。この様にして全ての政治、宗教、思想に深く根づいて行くことになります。

 9月に中山博さんと妙見に係る東北の地を巡ります。そこでの目的は妙見を支配する大元を動かす事ですが、北辰妙見信仰と太陽信仰を如何に融和出来るのか、ということのように見えてきました。太陽と星辰どちらも欠かせない宇宙の働きですが、人間の欲望が介在した支配の顛末でしょうか。