2014年8月24日日曜日

340「熊野転生7」2014,8,22

 熊野本宮大社旧社地・大斎原(おおゆのはら)は雨が上がっての朝の気は清々しく爽やかです。日本一高い、高さ33,9mの大鳥居をくぐり、足元の水たまりを気にしながら散策しました。既に参拝の方々がおられますがほぼ独占状態です。








2000年以上も前に如何にしてこの中州に祀られていたのか。果たしてどれほどの民がこの山奥の地に住んでいたのか。その生業、営みは如何に為されていたのか。
 神が舞い降りたと言われる聖地は、やがて11000坪の敷地に社殿等が作られ、江戸時代まで橋も無く川を渡って参拝したと言います。現在の本宮大社は500m程離れてありますが、そちらよりも心地良い処です。
 3つの川の流れが合流する中州ならではの浄化力でしょう。社も無く、とてもクリーンなエネルギーで気持ちが良いです。果たして、今は神が居られないのか、何らかの依り代が残っているのか分かりませんが、洪水で流されたことで、形姿にこだわる人為が無しとされ、更に人々の願いの残渣も無しとされ、神が降臨した最初の姿に復元されたようにも思います。自然力は凄いと思います。現在の異常気象も人為を浄化する自然のエネルギーでしょう。それこそが神の顕現でもありそうです。


 この熊野本宮大社を一つの頂点として、5か所を結ぶ綺麗な五芒星がある事が知られています。その地点は、熊野本宮大社・伊勢神宮内宮・伊弉諾神宮・元伊勢 外宮豊受大神社と伊吹山です。そしてそれら星の中心に奈良の平城京であるのです。
 果たして偶然に出来たものなのか、はたまた意図として作られたものなのか分かりませんが、平城京を守る為に5つの拠点を設定して結界を作ったとも考えられています。2000年以上も前にこのようなレイラインを作る事が出来ていたとしたら驚きです。当時は相当な測量技術があり、それは神の力、自然の力を頂き活かす方法として用いられていたのでしょうか。
 しかし平城京は思いのほか早く遷都してしまいました。710年元明天皇により藤原京から遷都され、途中、難波京等に遷り、再度平城京に戻り、最終的に桓武天皇が784年に長岡京に移されるまで70年余りです。


 更に驚くことは熊野本宮大社から、五芒星の中心にある平城京に線を引き延長して行くと、伊勢神宮内宮と伊弉諾神宮の各点を結ぶ線との交点に飛鳥京があり、平城京を越えて更にその先の交点に平安京があるのです。その線は若狭湾に伸びますがその線上に若狭彦神社、若狭姫神社があるのです。
 更に元伊勢と伊吹山を結ぶ線の延長上に出雲大社と富士山があるのです。一体、この様な仕掛けを出来る存在はどのような方なのか、この仕掛けに仕組まれた意図は何なのか、その効果は如何なのか、ますます謎が深まります。このレイラインは、古代のロマンと言うにはあまりにも桁外れな、凄い技術力、摩訶不思議な力を感じてしまします。
 レイライン(ley line)とは、1921年にイギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスが提唱した概念で、古代の遺跡などが直線的に並ぶように建造されているとき、その描くラインのことです。
http://www.ley-line.net/gobou/gobou01.html「近畿の五芒星を巡る」
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1042「秦氏の謎を解く」


 「近畿地方の相互に関連する聖地を結ぶと現われる五芒星。五角形の一辺は約110kmでそれに内接する五芒星の一辺は約180km。
 五角形の上辺は、「御来光の道」の一部を成し、五芒星の中心では、富士山‐伊弉諾神社、出雲大社‐伊勢内宮を結んだそれぞれ約350kmのライン、そして熊野本宮‐明日香京‐平城京‐平安京ラインが交差する。いったい、誰がこんな「設計図」を引いたのか?」http://www.ley-line.net/motoise/motoise_08.html「浮かび上がる五芒星の謎」

 仙台の城下を作る時に伊達正宗が陰陽五行説に基づいて五芒星と六芒星で結界を張った事は有名ですが、その効力が失われるのが2036年とかと言われています。その真偽は解りませんが後20年程先で、もう直ぐです。果たして熊野本宮を頂点にする近畿の五芒星の効力は如何なのでしょうか。

 熊野本宮と東北の繋がりには以下があります。
「養老二年(七一八)、瀬織津姫神が「熊野本宮神」としてエミシの地に上陸したところが唐桑[からくわ]半島(宮城県唐桑町)とされる。同半島(舞根地区)には、その名も瀬織津姫神社が現在も鎮座している。
 熊野本宮神は、この唐桑半島から、室根[むろね]山(八九五㍍)へとまつられるが、しかし、現在の室根神社の本宮神は伊弉冉[いざなみ]命とされ、養老時代にやってきたとされる瀬織津姫の神名はここにはみられない。
 大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていました。
 しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出ました。
 東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。・・・
 瀬織津姫神は熊野・那智においては、那智大滝に象徴されるが、かつては滝神としての祭祀がなされていた。しかし、この室根神社の伝承では、さらに「熊野本宮神」でもあったことになる。これは、一見突拍子もない伝承にみえるかもしれないが、瀬織津姫神が熊野本宮神でもあったことは、ほかにもすでに事例がみられることである。・・・
 瀬織津姫神を、蝦夷征服の祈願神という、中央サイドからみた「ご利益神」の側面だけでとらえられるならば、瀬織津姫神は熊野本宮神としてそのまま室根山にまつられつづけてしかるべきで、しかし、山上に至ると瀬織津姫の名は消えるという事実をどう考えるべきであろうか。瀬織津姫神を、「エミシ征服の祈願神」と単純にみなすには無理があるのかもしれない。
 熊野から、この東北・唐桑半島の地への遠征航海には、そこには瀬織津姫神の流罪=配流のイメージも喚起されてくる。なぜなら、熊野本宮も那智も、その後、祭祀の表面から、この熊野の本源神を消去しているからである。」

 記紀が成立する前の事ですので、瀬織津姫神は熊野本宮神であったとの関係が読み取れます。唐桑の瀬織津姫神社や室根山の室根神社は何度か参拝していますが、東北には瀬織津姫神をお祀りするところが多いです。早池峰神社には御祭神として祀られていて、特に岩手県遠野市には深い繋がりがありそうです。遠野の地は10月4,5日に中山博さん達とじっくり巡る予定です。
 興味のある方は以下のサイトを読んでみてください。
http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/kumanosin.html「熊野大神の原像」

 次の目的地は熊野三山の奥宮と言われる玉置神社です。十津川に沿った国道168号を上流に向かいます。途中、明媚な景色、瀧が随所に見られます。


国道から離れて十津川の橋を渡り、玉置山へ向かうカーブの続く山道を登って行くとようやく到着です。

 玉置山は標高1076mでその山頂近くに玉置神社は鎮座しています。


 霧のようにガスがかかった境内を鳥居から10分ほど歩いて行くと樹齢3000年と言われる巨大な神代杉に遭遇します。神気漂う森には随所に杉の巨木が林立しています。拝殿には参拝者が思った以上に沢山です。エネルギースポットとして人気なのでしょう。






 この地の修験道は開祖の役行者によってはじめられたと言われ、熊野本宮大社と吉野を結ぶ大峰奥駈道は全行程約170kmで、すべてが険しい山岳地帯にある厳しいものです。ここ玉置神社は大峰奥駈道の靡(なびき)のひとつで奥駈修験の参籠宿だったようです。

 玉置神社に付いては以下の通りです。
「玉置神社は近年まで陸の孤島と呼ばれていた大峰山系の南端、奈良県吉野郡十津川村の霊峰玉置山(標高1076.4m)の山頂直下に鎮座。 この地は古来より,熊野の地であって、佐野命が熊野に上陸した後、八咫烏に先導され大和に入る際、この霊峰玉置山で兵を休め神宝を鎮めて勝利を祈ったと言い伝えられており, 熊野信仰の奥之宮として皇族の行幸や宗教指導者、修験者、霊能者が数多く参籠修行した重要な神体山でもある。
 神武天皇東遷以前から磐座信仰の地として崇められていたと思われ、日本最古の神社説もある。 近くの杉の木の根元には白い玉砂利が敷きつめられ、そのなかにわずかばかり地表に顔を出した丸い石がある。 この石がご神体で、この石は地中にどれだけ埋もれているのかわからないほど大きいといわれている。この石が玉置神社の始まりである。
 神武東征の折、玉置山で兵を休めた佐野命は、この石の上に神宝を置いて勝利を祈った。その後、 第十代崇神天皇が紀元前37年に玉置山に行幸し、その4年後に玉置神社が造営されたと伝えられている。
 祭神  国常立尊、伊邪那岐尊、伊邪那美尊、天照大神、神日本磐余彦尊」
詳しくは以下をご覧ください。
http://www.ne.jp/asahi/network/tamaki-yama/tamaki-j.html
http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kinki/tamakikumano.html
 
 これで熊野三山、玉置神社を巡り終えて次の目的地は天河神社です。