2014年5月23日金曜日

307「須佐、雲太10」2014,5,22

  祟る出雲神。果たして日本の源流と言われる古代出雲は如何だったのか。出雲大社の東隣にある島根県立古代出雲歴史博物館を訪れました。こちらも沢山の見学者で溢れていました。http://www.izm.ed.jp/
 中央ロビーには2000年に出雲大社境内から出土した本殿の巨大柱の宇豆柱(うずばしら)の本物が展示されています。

直径3mの巨大なものです。雲太と言われて当時の日本一の巨大建造物を裏付ける貴重な出土品です。展示物は巨大な出雲大社の推定模型が何種も展示されています。現在の出雲大社高さ24メートルですがど、その前 48メートル、更に 最初に建てられた時には 96メートルも あったと 言われています。
山陰中央新報2000.10.8)に以下の記載があります。
平安後期から鎌倉(十一-十三世紀)にかけての本殿の柱が見つかった、島根県大社町杵築東の出雲大社境内遺跡で、九本柱の中央に位置する心の御柱(しんのみはしら)と、南東にある側柱(がわばしら)の根元部分(柱根)が出土した。今年四月に出土した宇豆柱(うずばしら)と同様、三本の巨木の丸太を束ねていた。柱の間隔から本殿の遺構は、類例の少ない横長の長方形と判明。束ねた丸太の配置では、設計図とされる「金輪(かなわ)造営図」と食い違いが見られた。本殿の形状や建築様式をめぐり、新たな議論に発展しそうだ。同町教委が七日発表した。

 心の御柱と側柱は、宇豆柱と同じ平安期の地層から出土。だ円形の杉材が三本束ねられ、これまでの計測では、心の御柱に使われていた丸太一本の最大径は上層部で一・二メートル、側柱は〇・八五メートル。地中部分を想定すると心の御柱は最大三・二メートル前後で、宇豆柱(三メートル)、側柱より大きい。

何故三柱なのかについては巨大な建造物を支える以外に以下のように言われています。心御柱の三柱とは、神様を呼ぶときに柱と言いますがここでは大国主神、スサノウ命、クシ稲田姫の三神を言い、更に造化三神であるとも。
そもそも何故に巨大な神殿を出雲に作ったのか。神話の世界では大国主神が国譲りの時に出した条件があります。古事記によるとそれは以下です。

大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」と言った。

しかし果たしてすんなりと国譲りが成されたのかは疑問です。倉橋日出夫氏は「古代出雲と大和朝廷の謎」で以下のように述べています。

出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。

 高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ))が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。

オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。

 そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。
 いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけです。

 ところが、『日本書紀』の第二の一書は、国譲りに関して独特の話を載せています。
 オオナムチ(オオクニヌシ)のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけます。すると、高天原の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、オオナムチのことばをもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示すのです。
 その一番の条件は、オオナムチは以後冥界を治めるというものです。さらに、オオナムチの宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えます。オオナムチはその条件に満足し、根の国に下ってしまうのです

こうした出雲の国譲りは、ふつう、出雲国だけの話と考えられていました。朝廷に従わなかった出雲国がやっと大和朝廷に引き渡されたというわけです。これによって、大和朝廷の葦原中国の平定は完了することになります。

 これまでは、このような図式で理解されることが多かったようです。
 ところが、『出雲国風土記』はまったく別のニュアンスを伝えています。
 国譲りにさいして、オオクニヌシ(『出雲国風土記』では大穴持命(おおなもちのみこと))は、次のようにいうのです。
「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」
 つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのです。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけです。

 このように『出雲国風土記』では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。
 これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、置き換えようとしたのではないでしょうか。


出雲の古代文化圏とは以下です。
オオクニヌシは因幡の白ウサギの説話からわかるように医療の神としての性格があります。また、蛇や虫を避ける「まじない」を定めるなど、呪術の神でもあり、根の国からスサノオの神宝をもち帰ったことによって、祭祀王としての資格をそなえ「大国主神」となります。

 葦原中つ国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた、となっています。オオクニヌシとともに国造りを行った少名彦神には、農耕神としての性格があるようです。
 ところで、オオクニヌシが行った国造りとは、列島のどのくらいのエリアに及んだのでしょうか。
 出雲だけのことなのか、それとも他の地域も含まれるのか。そのあたりが重要になってきます。それはオオクニヌシの活動範囲を知ることで推測できます。
 オオクニヌシはまず出雲を出て、兄弟の神々の迫害を受けたときは、紀伊の国(和歌山)まで行っています。また、越の国つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。同様に、北九州の筑紫にも出向いている。
 また、『日本書紀』の第4の一書では、オオナムチは最初、朝鮮半島の新羅に天降ったのち、出雲に来たと伝えています。オオクニヌシやオオムナチという名は、ひとりの実在の人物を意味するというよりも、出雲族と総称できるような初期の渡来人の動きをシンボル化したものと、私は考えています。

 『出雲国風土記』には有名な国引きの説話があります。出雲は細い布のように狭い土地なので、新羅、高志の国(北陸)、隠岐など四つの地方のあまった土地を引いてきたというのです。大山と三瓶山を杭にして縄で引っぱったという。これはおそらく山陰から北陸にいたる地域、そして、朝鮮半島の新羅にもつながる出雲族の活動範囲を示していると考えられます。また、天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子のひとりは、長野の諏訪まで逃げている。これは出雲族がすでに東日本にも深く及んでいたことを示しています。

一方、出雲系の神社の分布についてみると、『延喜式』(927年)の神名帖に記されたものだけでも、出雲の名を冠する神社は丹波、山城、大和、信濃、武蔵、周防、伊予に及んでいます。大国主命を祀る神社も、能登、大和、播磨、筑前、大隅にあるということです(「出雲神社祭の成立」『古代出雲文化展』図録)。

 これはもちろん、中世に多くの神社が勧請を行い全国展開をみせる前のことで、このように広い分布はまったく異例だということです。つまり、出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいる。大和に多いのも大変重要です。
 こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシ、すなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになります。
 これを古代の日本列島の状況に照らして考えてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる最初の動きだったのではないか、ということができます。それが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていったようなイメージが見えてくる。おそらく、縄文文化ともつながる呪術を基盤にした共通の宗教文化圏のようなものが列島には出来あがっていったのではないでしょうか。いわば、出雲文化圏とでもいうべきものです。


当時の日本の状況、国譲りの事も、少しすっきりと全体をイメージできる様に思います。古代出雲王国とは現在の出雲地方だけでなく東北地方を除くほぼ全国を網羅する世界でした。その創始者がスサノウであり大国主神がそれを引き継いで国造りをしたのでしょう。
しかしその影響は東北にも及んでいたように思います。それは出雲地方の言葉と青森県津軽地方の言葉はとても似ています。そこには何らかの交流があったと思われます。
松本清張の推理小説「砂の器」でその方言がキーになりました。加藤剛主演の映画もとても印象深いものでした。ズーズー弁でカメダの言葉が鍵で津軽弁と同じような方言がある島根の亀嵩(かめだ)が浮かびます。ここで亀が出てきましたが日御碕沖の海底遺跡の亀石が気になります。