2014年5月21日水曜日

306「須佐、雲太9」2014,5,19

 日御碕灯台から出雲大社に向かいます。いよいよクライマックスに近づいてきました。海岸沿いの道を日本海を右に見ながら西に向かいます。
 先に訪れた日御碕神社の西方100mにある経島(ふみしま)はウミネコの繁殖地で、かつて日御碕神社の下の宮が祀られていて現在も神職以外上陸できない島です。そこで古から夕日の神事が成されていたと言われます。日出でる伊勢神社と日沈む日御碕神社は対と言われます。
 10数年前に日御碕の先の海底のボンクイと言われるエリアの岩礁に人工的な階段等が見つかり、更に岬よりの海底のサドカセのエリアで亀石や滝様に水路等も発見され、祭祀場の様で古代の海底遺跡と注目されています。
 経島の鳥居のある先のタイワと言われるエリアの海底にも、参道の様な階段と玉砂利が敷き詰められた洞窟が発見されていて、石組が沖縄の斎場御嶽に似ていて、一帯がかつての神殿であったのではないかと言われていいます。紀元880年の出雲大地震で水没してしまいそれ以降、夕日の神事が経島で行われたのではないかと言われています。しかし未だはっきりしたことは分かっていません。
 以下はその映像です。
「神々の海日御碕」海底遺跡   http://www.youtube.com/watch?v=qET62Ij33jA
 神々の海 日御碕に眠る「海底遺跡」  http://www.youtube.com/watch?v=16hD1c5Hy34
「日御碕に海底遺跡か」 http://www.san-in-tabi.net/travel/44.html

 出雲大社については以下の紹介があります。
「杵築(きずき)大社ともいう。祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)『記紀』に載っているのは、国譲りの代償として、高天原(たかまがはら)では大国主命に対し、底つ石根に太い宮柱を深く立てた壮大な宮殿を造り与えたが、これが出雲大社の始まりという。国譲りの神話だが、たとえ史実の反映であったとしても、具体的年代は分からない。従って、出雲大社の建物がいつごろ創設されたか明らかでない。しかし、『出雲国風土記』には杵築大社が載っており、大国主命のために、大勢の神々が集まって宮を杵築(きず)いたという地名伝承を記している。したがって、少なくとも8世紀初期には、この社は大社(おおやしろ)と呼ばれ、大きな社殿が建てられていたと思われる。平安時代中ごろの『口遊(くちずさみ)』に、「雲太、和二、京三」という大建造物の歌謡をあげている。すなわち、出雲大社がもっとも大きく、次いで大仏殿、大極殿の順だというのである。出雲大社本殿の高さは、太古は32丈(96.96m)、中古は16丈、近古は8丈という伝えがあるが、平安時代の大仏殿が15丈といわれるから、雲太といわれたころの出雲大社は16丈(48.48m)の壮大な建物であったろう。これが8丈に縮小されたのは、鎌倉時代宝治2年(1248)の造営からであるといわれる。現在の本殿(国宝)は延享元年(1744)造営されたものである。」



 出雲大社は流石に縁結びの神様と国民的な人気で、大勢の参拝客で賑わっていました。昨年の60年の平成の大遷宮が行われて本殿も新しくなりありがたいことです。駐車場から拝殿、更に左手に回って正面から本殿大国主神が向いている西方の正面で参拝しました。



出雲大社は多くの神社と異なり二拝四拍手一拝の作法で拝礼するのです。
 真後ろのスサノウを祀る素鵞社は未だ遷宮の影響で東側に仮殿になっていました。こちらは参拝者は少なくあまり知られていないのでしょうか。
 しかし出雲大社の名で呼ばれるようになったのはごく最近のことです。

「古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。」
「明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。」
 国造家は天皇家と血縁を持つ家柄です。古代の役職名ですが他では廃止されているのに何故か出雲だけがその名を未だ使用しています。記紀、出雲国風土記にも登場する由緒ある家柄です。
 出雲国風土記は以下のものです。
「編纂が命じられたのは和銅6年(713年)5月、元明天皇によるが、天平5年(733年)2月30日に完成し、聖武天皇に奏上されたといわれている(異説あり)。「国引き神話」を始めとして出雲に伝わる神話などが記載され、記紀神話とは異なる伝承が残されている。現存する風土記の中で一番完本に近い。」
「713年(和銅6年)に太政官が発した風土記編纂の官命により、出雲国国司は出雲国庁に出雲国造の出雲臣果安(いずもおみはたやす)を招き、出雲国風土記の編纂を委嘱した。733年(天平5年)になって、出雲国造の出雲臣広島の監修のもと、秋鹿郡(あいかのこおり)の人、神宅臣金太理(かんやけのおみかなたり)の手によって出雲国風土記は編纂された。
「風土記(ふどき)とは、奈良時代初期の官撰の地誌。元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があった。中国の事例に倣い、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした。写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。」
 
 出雲国風土記は記紀の編纂とほぼ同時期に編纂されそれをまとめたのが出雲国造家です。更に出雲国造家は「出雲国造神賀詞」を天皇に奏上することが義務づけられています。
「出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。六国史などによれば、霊亀2年(716年)から天長10年(833年)までの間に15回確認できる。その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。
『延喜式』にその文章が記述され、『貞観儀式』に儀式の内容が記されているが、前者の文章は8世紀中期以後の内容であると推定されている。内容は天穂日命以来の祖先神の活躍と歴代国造の天皇への忠誠の歴史とともに、天皇への献上物の差出と長寿を祈願する言葉が述べられている。」  http://www.ookuninushiden.com/newpage22.html

 出雲国造家は何時頃からこの出雲国造神賀詞を奏上するようになったのかはっきりしていません。天武・持統朝の頃、8世紀と思われます。その内容は出雲の国譲りを述べ、出雲が天皇家に恭順することを誓うもので屈辱的なものです。続日本書紀では奏上した時に元正天皇ではなくその代理人に向かって奏上したと記されていますので更に屈辱的な扱いを受けています。
 出雲国造神賀詞の奏上を義務づけられ、更にそのころには、意宇の熊野大社を最重要視していたのに、意宇の地から杵築に移されて杵築大社の祭祀をするようになっています。この後に出雲国造の出雲臣広嶋の位階が約二年で七階上昇していて、異常な昇級をしています。朝廷に懐柔され何らかの代償として与えられたものの様です。そしてその後に編纂されたのが出雲国風土記です。ですからその内容はかなり政治的な意図が反映されていて純粋な地元の神話とは言えないと指摘されています。
 これらの一連のことは出雲国造の意図ではなく朝廷から強制されたことであり、8世紀に朝廷に「荒御魂としての出雲神」を鎮める必要があったと思われます。

 当時の朝廷は祟る出雲におびえていたと言われます。祟る出雲神を封印する為に、出雲の神々は出雲国造家と共に、出雲の地に流竄(るざん)され杵築(出雲)大社に封印されたのでしょうか。朝廷では藤原鎌足と藤原不比等の権力独占で政敵が追い落とされ数々の粛清がなされその祟りがあったのでしょう。その政敵の多くは出雲と深い縁で繋がっていた。そこで巨大な祟り神を鎮めるために巨大なものが必要になった。それが巨大神殿、杵築大社建造で、平安時代の口遊で「雲太、和二、京三」という言葉があるほどに日本一の建造物を作り、出雲国造家にしっかりと祀らせたのが真相のように思えます。