2014年2月5日水曜日

279「倭、ヤマト5」2014,2,5

 古事記でのヤマトタケル(幼少年時の名前は小碓命)征西については以下の内容です。
「父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は素手で兄をつまみ殺してしまう。そのため小碓命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭姫命が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
 九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。
 その後、倭建命は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換して太刀あわせを申し込み、殺してしまう。」
 東征は以下です。
「西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭姫命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭姫命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。
 倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受媛(宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く。
 相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那芸剣で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くす。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。
 相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘媛が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む
 その後倭建命は、足柄坂(神奈川・静岡県境)の神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘姫を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)を経て、倭建命は尾張に入る。
 尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受媛と歌を交わし、その際媛が生理中なのを知るが、そのまま結婚する。そして、伊勢の神剣、草那芸剣を美夜受媛に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうと、出立する。
 素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪が現れる。倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。
 弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市〉に到った倭建命は「倭は国のまほろば……」「……剣の大刀、その大刀はや」の4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。」

 景行天皇は兄を殺してしまった乱暴者ヤマトタケルを手に焼いて西征に熊襲退治に向かわせ、熊襲建と出雲建を卑劣なだまし討ちにする。しかし東征では叔母に泣きつき父の仕打ちを嘆き、最後は孤高の英雄として死んでしまいます。
ヤマトタケルは東国では人気がありますが西国では何故かありません。常陸国風土記ではヤマトタケルが天皇との記述すらあります。http://www5b.biglobe.ne.jp/~yottyann/73242955/

 更にヤマトタケルが亡くなったあと古事記に以下の事が記されています。
「倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちはなお3首の歌を詠い、その後を追った。これらの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌)となった。
 白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。」
 ヤマトタケルは白鳥になって飛び立ち、舞い降りた河内に御陵が造られます。何故に后達がヤマトタケルを偲び作った歌が大御葬歌として後からの天皇の葬儀で歌われるのか。ヤマトタケルはヤマト王権に利用されて無碍に扱った天皇がその怨霊を恐れての事なのか。はたまた本当は国を平定するに貢献した天皇だったのか。どこまで史実でどこから神話なのかはっきりしません。多くは記紀を創作した側の意図があるのでしょう。
 白鳥については羽衣伝説で豊受大神、トヨ、武内宿祢との関連事が言われています。更にはこのヤマトタケルの神話に似た神がいて出雲神のスサノウだとの指摘や、雄略天皇の事だという指摘もありますがいずれにしろ大和朝廷創世の頃の隠された史実がある様です。

 しかし大和の心に込められている意図は大切にしたいものです。その大和の心については以下のように記しているのに出会いました。
「大きく和する精神。和することが統べることであることを知る完全覚醒した心、すなわちZION(シオン)なのです。この精神はこれからの新しい世界を築く根本的な精神であり、宇宙の根源の精神であるのです。このZION=大和心=全ては1つ=宇宙の根源意識、である究極の真実を知っている人々は、まだ、世界でもほんのわずかな人々だと思われます。」
 シオンとヤマトは同じとの指摘です。「シオンはイスラエルのエルサレム地方の歴史的地名のこと」でユダヤの故郷でもあります。
 ヤマトについては「ヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう」、とのことです。
 更に「失われたイスラエル10支族が日本に新しい国家を建設した時、国名を「ヤマト」としても不思議ではない。」とも言われています。
 天皇は「スメラ・ミコト」の公式名で呼ばれていますが、これは「古代ヘブル語の一方言で、『サマリヤの王』という意味」で「サマリヤ」は、北王国イスラエルの別名なのです。
 更に日本最初の天皇「神武天皇」の名は「神倭伊波礼毘古命」と書いて「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」といわれます。これもヘブル語で訳すと「サマリヤの王、神のヘブル民族の高尚な創設者」という事です。 ここでも、失われたイスラエル10部族の日本への渡来のことが伺えます。

 京都で行われる祇園祭りがありますが、このギオンは「本来のヘブライ語では『ツィオン』であり英語読みでは『ザイオン・ジイオン』となる」といわれ本来はシオン祭りだとも言われています。ユダヤとの関係が色濃くヤマトには在るといえそうです。
 
 祇園祭について以下の記載があります。
「祇園祭は清和天皇の御世に、疫病が猛威をふるい、その原因をスサノオ怨念としてその怒りを静める為に牛頭天王を祭り疫病の退散を願ったものが始まりとされる祇園祭の神幸祭は7日間に渡って行われるが、イスラエルの過ぎ越し祭や仮庵祭も同じく7日間なのだ。仮庵祭では庵を建てるが、祇園祭では山鉾を建てるのである。
 そして7月17日は、あの洪水伝説のノアの箱舟がアララト山に流れ着き、救われた日である。祇園祭は人類が全滅を免れ、救われた日に行われるのである。更に祇園祭の山車はノアの箱舟を象徴するものだとする研究家も存在する。」
 祇園祭は八坂神社のお祭りです。八坂神社は「斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建」とされ御祭神は素戔嗚尊 と御妃の稲田姫命と8人の御子の八柱御子神です。
 今回、八坂神社を参拝しましたが京都の祇園に鎮座する社は楼門、本殿ともに朱に染まっています。早朝ゆえ参拝者もほとんどいない中ゆっくり巡りました。




 倭、ヤマトを訪ねての巡りでしたが、色々調べる中にいろいろ分かったことがありました。古事記、日本書紀のもつ不整合性となぜ同時期に二つの国書を作らせたのか。それはその矛盾がやがて明らかにされることを意図していた。と指摘する方がいます。
 そしてそこに記されている神武天皇以降の天皇は決史8代どころではなく、神武天皇から18人の天皇が全て同一人物という図式が出来上がるとも言います。それは「神武天皇=崇神天皇=神功皇后=応神天皇=仁徳天皇」というすさまじい仕掛けです。
 その真偽は解りませんが、前に記した神話の神々がユダヤの神々と同じ構成であることが持統天皇、藤原不比等の大きな意図を感じます。いまだ明らかにならないヤマトの世界ですが、結果的にヤマトはシオンに繋がった今回の旅でした。