2014年2月2日日曜日

277「倭、ヤマト3」2014,1,31

 崇神天皇は宮中から自らの皇祖神の天照大神を出して、崇神天皇の皇女に檜原神社を始めに各地を転々と彷徨いながら伊勢神宮に収まるのですがその間、奉戴された地を元伊勢と言います。皇祖神と言われながらなぜヤマトの地を出されて彷徨うのか、ここでいう天照大神とは如何程の神であったのか素朴な疑問が浮かびます。

日本三景で有名な天橋立は京都府の日本海側、宮津湾にあります。その天橋立が参道のようにして籠神社があります。丹後一宮で元伊勢の一社として数えられる由緒ある神社です。朝の参拝でしたから閑散としていましたが、流石に立派な構えです。





 籠神社の由緒・由来は以下とあります。
「神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮真名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、その御縁故によって人皇十代祟神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からお遷りになって、之を吉佐宮と申して一緒にお祭り致しました。その後、天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、また豊受大神は二十一代雄略天皇の御代に、それぞれ伊勢におうつりになりました。依って當社は元伊勢と呼ばれております。両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め元伊勢の社として、また丹後国の一之宮として朝野の祟敬を集めて来ました」
 主祭神は天孫彦火明命(ひこほあかりのみこと)ですが、この神の別名は「天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやのみこと)と言います。長い名前ですが同一神の異名を併記しているようです。
 相殿神は豊受大神 (とようけのおおかみ)、天照大神 (あまてらすおおかみ)、海神 (わたつみのかみ) - 社家・海部氏の氏神、天水分神 (あめのみくまりのかみ)です。

籠神社の社家は海部氏です。海部氏の系図は現存する日本最古の系図として国宝に指定されています。5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として丹後に天降っていて、それ以後今日まで海部氏が代々続いており現在は82代目です。籠神社には2000年間にわたり伝えられてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。

 籠神社の奥宮、真名井神社は籠神社から数百m奥の山を登ったところにあります。霊気あふれる林の中に鎮座していましたがこの社も元伊勢の1社です。






由緒には以下のようにあります。
「古代丹波の最高神である豊受大神(天御中主神又は國常立尊とも云う)を氏神として戴いて当地方に天降られた天照國照彦火明命は、大神様をお祭りするのにふさわしい神聖なところとして、常世の波の寄せる天橋立のほとりのこの地をお選びになりました。こうして名勝天橋立の北端真名井原に御鎮座、第十代崇神天皇の時に天照皇大神の御霊代が當宮にお遷りになり、吉佐宮と申して豊受大神と御一緒に四年間お祭りされました。元伊勢の御由緒の起こりです。
 天照皇大神は人皇十一代垂仁天皇の御代に伊勢国伊須須川上へ御遷宮になり、豊受大神は人皇二十一代雄略天皇の御代に至るまで當地に御鎮座あらせられ、同天皇の御代二十二年に伊勢国度会郡の山田原に遷らせられました。
 奥宮は今、神代が現代に生きている聖地として信仰者の熱い祈りが日々捧げられています。」

 社殿奥には磐座があります。向かって右側が豊受大神(天御中主神)の磐座、左側が天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神の磐座とされています。以前参拝した時には磐座近くまでお参りできたのですが今は立ち入り禁止で塀が回されていて、周囲の林、境内も禁足地になっていました。幸運にも他の参拝者が居なく、静かにゆっくりと堪能できました。

 籠神社神紋は三つ巴紋ですが、裏神紋は籠目紋の六芒星、ダビデ紋で、ユダヤとの繋がりを取りだたされたことがあります。天の真名井の御神水がありますが、豊受大神をこの地にお祀りする地に選ばれたというものです。

 元伊勢内宮皇大神社は福知山市大江町にあります。ここも 天照大神をお祀りする元伊勢で、大江山の鬼退治で有名な地です。広大な敷地で雪が残る境内はひっそりとしています。



 奥宮、天岩戸神社は日室ヶ嶽の遥拝所を経て1キロ程山を進むとあります。日室ヶ嶽(岩戸山)は神が降臨したと言われる綺麗なピラミッドの形をした山で、夏至の日には日室ヶ嶽の山頂に太陽が沈む神秘的な光景も見られると言います。
 天岩戸神社は道から川に下り、瀧の脇に鎮座していて、大きな岩の上に社があり登るには難儀です。社殿奥に磐座があります。雨でしたので寒々としていて、激流の川音が響いていました。



 今回は訪れませんでしたが、同じ大江町で少し離れたところに豊受大神社があります。ここは丹波の籠神社の豊受大神が雄略天皇22年に伊勢へ遷座する途中でこの地にしばらく鎮座し、その跡地に建立したものとも言われています。 
駆け足で元伊勢と言われる丹後、丹波の地を巡りましたが冒頭にあげた疑問が残ります。

 天火明命(アメノホアカリ)にはウイキぺディアによると以下の記載があります。
「「天照」の名があるが「天照大神」とは別の神である。元伊勢の籠神社では、主祭神を「天照国照彦火明命」とし、相殿神に「天照大神」としてそれぞれ別の神としている。
天火明命の子孫を「天孫族」としている。物部氏の祖であるニギハヤヒと同一ともいわれる」
 ニギハヤヒには以下の記載があります。
「神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。」
「スサノオノミコトの子であり、大物主、加茂別雷大神、事解之男尊、日本大国魂大神、布留御魂,大歳尊と同一視する説。」

 饒速日命(ニギハヤヒ)は天津神とされ天照大神と同系です。ヤマトの地を治めていた豪族の長髄彦はこの地に来た饒速日命を神と奉じ、長髄彦の妹を饒速日命の妻として仕えていました。
 神武東征の時に神武天皇は長髄彦に敗れますがやがて饒速日命は長髄彦を殺して国譲りをして神武天皇がヤマト王権を打ち立てます。記紀神話の以下の内容です。

「神武天皇(イワレビコ)は塩土老翁から、東方に美しい土地があり、天磐船で先に降りたものがいると聞く。そして彼の地へ赴いて都を造ろうと、一族を引き連れ南九州から瀬戸内海を経て東へ向かい、難波碕(現代の大阪)へたどり着く。その後河内国草香邑から生駒山を目指す。そこに土着の長髄彦(ナガスネヒコ)が現れたため戦うが苦戦する。神武は「日(東)に向って敵を討つのは天の道に反す」として、熊野(紀伊半島南端部)へ迂回し北上することにした。
 菟田(奈良)に到達し高倉山に登ってあたりを見渡すと、八十梟帥が軍陣を構えているのが見えた。その晩神武の夢に天神が現れ「天神地祇を敬い祀れ」と告げる。その通りにすると敵陣を退治でき、続いて長髄彦を攻める。
 すると長髄彦は「我らは天磐船で天より降りた天神の御子饒速日命(ニギハヤヒ)に仕えてきた。あなたは天神を名乗り土地を取ろうとされているのか?」と問うたところ、神武は「天神の子は多い。あなたの君が天神の子であるならそれを証明してみよ」と返す。長髄彦は、饒速日命の天羽羽矢と歩靫を見せる。すると神武も同じものを見せた。長髄彦はそれでも戦いを止めなかった。饒速日命(ニギハヤヒ)は天神と人は違うのだと長髄彦を諌めたが、長髄彦の性格がひねくれたため殺し、神武天皇に帰順して忠誠を誓った。」
 ヤマトには神武以前に何処からともなく饒速日命なる人物が舞い降り君臨し、さらにそれ以前に出雲神大物主神はヤマトに舞い降りている。

 少し整理をしてみます。籠神社の天孫彦火明命(ひこほあかりのみこと)は物部の祖と言われる饒速日命であり若き日は大歳と言われた方で、天照御魂神で、天津神です。
 天照大神を宮中に祀っていたが崇神天皇の時に祟りが起きて宮中から遠ざけた。天照大神は各地を彷徨ったすえ、最後に治まったのは伊勢神宮で、その地は物部所縁の地でした。
 片や同じく宮中に祀っていた倭大国魂神は大己貴、大国主で国津神です。これらはヤマトから遠ざけることなく大倭(和)神社に祀られます。
 大物主神は地主神、龍神の大物主、倭大物主櫛甕魂命であり大田田根子によって三輪山、大神神社に祀られます。
 神武天皇は実は皇祖神として高御産巣日神(たかみむすびのかみ)を祀っていたようです。同じ天津神でも素戔鳴尊が皇祖神の饒速日命とは別です。ここに事の起こりが有りそうです。

 伊勢神宮に祀られている女神天照大神は大日霊女貴で日向、筑紫でのみ祀られていた神の様です。日向の伊弉諾尊の娘であり、須佐之男尊の妃だった向津姫(むかつひめ)が記紀の女神天照大神です。
 そもそも古代の陰陽の考えでは太陽は与える者で男性の象徴であり、月こそ女性の象徴です。古い時代に祀られた神社には天照大神という祭神名は無く、殆どは大日霊女貴になっているようです。神に仕える巫女は、霊女とも書き、それに日を加えて太陽神に仕える「日霊女」としたもので、記紀で云うアマテラスも太陽神に仕える巫女だったとも言われています。
 ヤマトを治めていた大和国王、饒速日命が天照御魂神であり、伊勢神宮創設の時に記紀神話で天照大神としてすり替えが成されたのではないのでしょうか。そして多くの書物、系図、神社等から大和国王の饒速日命の存在が消さられているのです。

 古事記、日本書紀の成立について大化の改新後、壬申の乱で勝利した40代天武天皇が命じて編纂を開始しました。その後を引き継いで影響力を行使したのは、天武天皇の妻であり38代天智天皇の娘で41代持統天皇(645年~703年)です。初の女性天皇であり、天武天皇を引き継ぎながら天智天皇の意向の治世に変えたと言われています。そこに強く関与したのが藤原鎌足の子、藤原不比等です。不比等については天智天皇の子という説もあります。そして天照大神を女神に変えたのは持統天皇の意向が強く働いたようです。
 伊勢神宮の遷宮が天武天皇が伊勢に斎宮を建立して、完成は持統天皇4年の時で初めての第1回の伊勢皇大神の遷宮が成されています。
 更に出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年です。ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に創建されます。大己貴命、大国主が亡くなってから800年も経った後のことです。

 この事については以下の記載があります。
「壬申の乱に勝利した天武天皇は、神道界の大改革に乗り出すことになったのです。天武天皇は、海民(南朝系、新羅)の庇護を受けて乱に勝利していたため、この海民らの推薦によって、海民の祖神であった太陽神のアマテル神を国家神として祀ることに決めたようです。(なお、それまで祀っていた大物主神は、三輪山へ封印されることになったようです。『伊勢神宮に秘められた謎』より)
 しかし実際は、男神のアマテル神は表舞台から消え、代わって女神のアマテラスが伊勢神宮で祀られることになったのです。天武天皇の死後、北朝系(百済、藤原氏)であった藤原不比等と持統天皇が勢力を盛り返してきたためです。
 藤原氏はその後、天武天皇のご意思を引き継ぐかのように、全国の神道界を再編するとともに、縄文の神々や出雲神を封印していきました。このように、元々神道派であった藤原氏は、なぜかその後、仏教の布教に力を入れることになったのです。この裏には、封印された神々に目を向けさせない目的があったのでしょう。」