2013年12月22日日曜日

268「大和7」2013.12.21

 
 
瀬尾律姫神社であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「大きなる海の動きは、共々に成りて、是よりも参り来る。
暫しの時、過ぎ行けば、この地、この海、動き行き、大きな変化と成りまする。
皆々様方、思いを変えて、遥かなる明日へ向かうが大事。
今までは去りて無しなり。
光届けたるが、ここには在らず。海へと送らん。(拍手)あ~(拍手)」
 この海動き、大きな変化と成る。光を届けたがここには在らずです。
 

 
神社から程近いところに早馬(はやま)神社があります。少し山手に登りますが海抜12mの神社にも15mの津波が押し寄せて本殿が2m程浸かったようで、その目印が成されていました。神社の周りの家屋は全て消えていて土台のみが残っています。
 この神社の御祭神 倉稲魂命で由緒等は以下です。
「今から約790年前の建保五年(1217年)、鎌倉若宮(鶴岡八幡宮)の別当(宮司)であった梶原専光坊僧正景實(かげざね、梶原平三景時公の兄)は、正治元年(1119年)の源頼朝公の死亡、 これを追うかのような梶原景時公一族の没落、又、和田、畠山氏が滅んで行くのを見て世を憂い鎌倉を離れ、蝦夷千島を目指して下り、その途中の当町石浜にたどりつきそこを切り開き住んだ。
 家の脇に社を建て、源頼朝公(鎌倉幕初代将軍)、梶原景時公(源頼朝公第一の家来)、梶原景季公(景時公の子)の御影を安置し一族の冥福を祈り、菩提を弔う為梶原神社を崇め祀った。
 後、一族の梶原三郎兵衛尉景茂の子である第二代大和守景永は、景實僧正の後を慕ってこの地に至り景實の猶子(養子)となった。景永は唐桑の為に神職となり、早馬大権現別当として早馬山頂に神社(奥宮)を建立した。」
「梶原景時は頼朝の信任厚く、都の貴族からは一ノ郎党、鎌倉ノ本体ノ武士と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった大悪人と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。」
 
 ここでのお言葉は以下です。
「届きたる波は全てを引き払いて、元へと返さんと致したり。
この地にありて多くの御魂を祀りたるは、それぞれの思惑成り。ここへ巡り来るは、守りを固めて逃げ込んだなり。山抱き入り、入り江小さきは隠れて守る為なり。
度々この地は海に洗われるを承知の事なり。」
 梶原氏がここに逃げてきた経緯が分かります。

 

 業除(ごうのけ)神社は隣の入り江の集落の上手にありました。道路わきの小さな社ですが津波の被害はなかったようです。ここでのお言葉です。 
「己を滅して、思いを除きて、只の身と成りたれば、移り行くは、いずれへ参るも固きと成るなり。その時、この地は生まれ出で来る地と成りて、今に繋がりたる事なるが、ここに在るのみぞ。」
 己を滅して、思いを除きて、只の身と成ること無ければ業を除ける事が出来ないようです。

 唐桑半島から海岸沿いに北上して岩手県陸前高田市に入りました。高田の松原は江戸時代からの植林で防潮林として7万本の松林は素晴らしいものでした。是までは何度も津波を防ぐ役割を果たしていました、しかし先の3,11の津波では全滅してしまい、唯一1本が残りました。その奇跡の一本松が寂しげに立っています。市街地は何も無くなり、復興工事が進められています。


 目的地の冰上(ひかみ)神社は海岸からかなり離れた氷上山の中腹、住宅地の中にあります。途中、陸前高田市のプレハブの仮設市庁舎が有りましたが難儀している感じが伝わります。
 冰上神社の御祭神は天照大神、素盞嗚神、稲田姫命の三神です。以下の記載があります。
「氷上山上に、西宮・理訓許段神社、中宮・登奈孝志神社、東宮・衣太手神社の3社が鎮座しており、当社は里宮にあたる。古来は、山麓に3社が別に存在していたらしいが、中世、修験道の山岳信仰により、山頂に集められたといわれる。」
 「氷上神社由緒」には、以下のように記述されています。
「古記で知る。氷上山は御山と稱へ山名を稱へず。気仙郡に官を置くに當り始めて気仙山と名づく。後氷上山と改む。暁光七彩の雲間より旭日昇天を拝しての尊稱か、郷民の太陽信仰の名稱か。又往古より山頂野火多く三社附近で自然に消滅す。火伏の神徳を垂れ給ふものとして日神 火の神 音相通ずるものとして氷上と呼稱せらると。」
 古くからこの地の信仰を集めた聖地だったようで、とにかく、祭神3柱とも、本来は土地神・地方神であったのではないかといわれています。
 
 ここであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あ~。讃えましょうぞ、皆々を。
大きく纏めて光と成し行くこの道、続けるおつもりか。
働きは発しておられぬが、如何になさる。古きを続けるや。生まれ来る新しきを如何に見るや。(拍手)
今、送り行く光は如何に。(拍手)
沙汰あられば動き行くなり。沙汰あらぬななり。(拍手)
自らの思いい出されよ。是よりの新しきなり。大きなる海の怒りはそれぞれの古きを流し、それぞれが依って立つことなり。心得ませ。(拍手)
づいづいと参られたるは解りたり。光へ参らん。この地の三体それぞれ参る。(拍手)
大いなるかな、見事。」
 嬉しいことにこの地の三神が動き参る事を決めて下さったようです。ありがたきことです。

 神社を後にしてあわ歌の歌い方のお話をしている時に車中でお言葉がありました。
「整えましょう、整えましょう。あなた様の音を整えましょう。
 整えましょう。あなた様の響きを整えましょう。
 整えましょう、あなた様の想いを。
 整いたれば光と一つ。参りましょう、新しきへ。」
 歌と響きと思いを整えて光と一つに成って新しきへ向かう道が示されています。


 隣市の大船渡市も津波保被害が甚大です。しかし、セメント工場は難を免れたようで稼働しています。大船渡湾の北にある尾崎岬に尾崎神社が鎮座しています。尾崎神社については以下の記載があります。
「式内社の陸奥國氣仙郡・理訓許段(りくこた)神社ではないか、といわれており、この海辺の神社は山頂の本殿に対する遥拝殿です。社伝によれば、延暦2年(783)の創建で、現在の御祭神は稻倉魂神、配祀は海住神です。その後、藤原三代や伊達氏の崇敬が厚く、気仙郡総鎮守となりました。」
「尾崎神社の古名は「理訓許段(りくこた)神社」。この名前はアイヌ語による読解が可能で、「rik・un・kotan」(高い所・にある・集落)の意味だとしたうえで、次のように述べている。
「(昭和初期の社会学者、田村浩の導き出した結論によれば)
(1)尾崎神社の初めの祭神はリクコタン神であったこと、(2)リクコタン神は千余年以前、この地方における夷族の神であったこと、(3)このイナウは夷族の神への供えとしてのこされたものであったこと、(4)この地方は古代アイヌの聚落(しゅうらく)であってこれをコタンと称した-など田村のこの見解に私は同意する。とおい時代に蝦夷=アイヌの使用した短弓やイナウが今日まで伝えられていることは奇跡と呼ばれるにふさわしい」(『白鳥伝説下巻』 )
 神社の前の海には復元された千石船「気仙丸」が浮かんでいました。
 あわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あ~、この山、この海、この身と一つ。痛みも嬉しきも、皆々頂き共に参る。ここにありて。(拍手)
 讃えて参らん、その身の事を。
讃えて参らん、その思い。
光と共に参り行き、光を送れ、この山、海へ。」 
   



 
尾崎岬を北に進み大船渡市三陸町越喜来(おきらい)の三陸大王杉へ急ぎます。越喜来は珍し地名ですが鬼にまつわる以下の様なお話しがあります。
 エゾの鬼と言われる大鬼がいて、都の方から逃げてきてこの地は鬼が隠れるのには恰好なところで鬼が喜んで来たという事で鬼喜来(おきらい)と言われた。
 更には鬼が沢山住んでいて坂上田村麻呂が攻め込んできて鬼を討ち、始末して、バラバラにして海に流して、それらが流ついた先に頭崎、脛崎、牙が崎等の名が付けられたとか。
 いずれにしてもまつろわぬ民、蝦夷や鬼と言われる存在がいた処なのでしょう。
 越喜来も津波の被害は甚大で大船渡市で一番の被害があったとか。
 三陸大王杉に到着した時は陽が暮れて薄暗い中、八幡神社の参道を登りました。樹齢7000年と言われ、縄文時代からあったと言われています。幹周は約14mで樹高さ23mです。中山さんは木から凄いエネルギーが来ると言います。この大王杉の下で鬼たちも生きていたのでしょう。
 あわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あ~あ~あ~あ~あ~。(拍手)
 伝えて申す。
 うるう。こもる。ふみう。ぬきて。たどる。ひらく。
 海の大き道を見たり。是よりその道この世が辿る。(拍手)
 あ~。(拍手)」
 果たして如何なる意味でしょうか。


 時間は17時で既に暗闇の世界です。今日初めての食事を直ぐ近くの三陸町の道の駅で頂きました。いつもながらの強行軍ですが次に繋がる意味があったのではと思います。
 

  今回の旅も訪れてその地で響かせること、足を運ぶことで新たな光を届け、新しきへと進むエネルギーを呼び起こし、渦作る事になったのではと思います。
  中山さんと同行する中で多くの気づきと頂きがありますが、天地繋ぐ人の役割をこれからも進めて行ける、ひな形が少しずつ見えてきているそんな思いを抱いて仙台に戻ってきました。いつも変わらぬ中山さんの導きには感謝です。  
 大和の地での2014年3月3日の儀式では二つの宮を大きなる和となし、新たな始まりの渦を作ることになる事を期待して仙台駅でお別れしました。今年1年、ありがとうございました。