2013年12月20日金曜日

265「大和4」2013.12.18

 12月1日は曇りで雲が空を覆い重い感じの朝です。予定通り7時半には宿を出発しました。最初の目的地は夏泊半島の岬近くの椿神社です。半島に入って海沿いの道を進みますが強風が吹き、波しぶきが上がり、裏寂しさが襲います。

 この地は義経伝説に係るところです。夏泊半島の椿山はヤブツバキの北限で1万数千本の椿に覆われていて樹齢800年程のものもあります。
 
ここは椿山心中の悲恋の地です。その内容を紹介します。
 「夏泊半島は椿と白鳥で知られる。この取り合わせは、義経にまつわる悲話から生まれたものと語り伝えられる。世に「椿山心中」という。
 義経は八戸滞在中、地元の豪族佐藤氏の娘と深い仲となり、娘は鶴姫を産む。義経がすでに北へ旅立った後だった。歳月が流れた。成長した姫が恋に落ちる。相手は地元の阿部七郎という武士。阿部家は頼朝に仕える身。義経の遺児と結ばれることは許されない。
 思い余った二人は、話だけに聞く義経を慕って、蝦夷地への逃避行をはかった。が、夏泊まで来た時、追っ手が迫った。二人は半島の絶壁で胸を刺し違えて、海に飛び込む……。
 あたりに白い椿が一本も咲かないのは、二人の血潮に染められた名残とか。こうもいう。白鳥は、薄幸の娘の霊を慰めるために、義経の魂が乗り移って、毎年飛来する、と。
 陸奥湾に早い冬が来る。ことしもきっちりと白鳥の群れが、シベリアから帰ってくる。やがて白い、暗い闇を溶かすように椿山が赤く染まり始める。ここは椿の咲く北限だった。」
 ここの椿は赤色だけですが果たしてこの悲恋との繋がりは如何でしょうか。


 椿神社には8時半前に到着しました。丁度氏子の方々が神社境内の清掃作業をしておられました。参道も綺麗に掃き清められ、私達を迎えてくれました。本殿でお参りしたいと御願いしたら快諾下さいました。本殿は掃除が済んで綺麗です。私達が来ることを待っていて下さったようです。ありがたいことです。







あわ歌を皆さんで響かせましたが、氏子さん達も聞いていてくださいました。その時のお言葉です。
「改めてご挨拶申し上げまする。
 新たなるへ、向かわんと、この度、この身を借りて、この地に降りて、このあわ歌の響き持ち、光と共々参り来て、 元なる地へと還すため、ここに参上致しました。
海穏やかに、暖かく、皆々平かへと成り行くよう、共々お頼み申す。
あーいー 」

 氏子さん達も私達に興味を示したようであわ歌の事やらいろいろお尋ね頂きました。椿の咲くころは全山、椿の赤色に染まるようです。
 義経の北行伝にまつわる悲話がこの夏泊に程近い青森市野内町の貴船神社にもあります。
 義経の愛妾には静御前のほかに浄瑠璃姫がいます。平泉で義経が打たれたと聞いて浄瑠璃姫は義経に逢いたさで陸奥に向かいます。そしてこの野内の地でようやく義経にめぐり会えたといいます。しかし喜びもつかの間、姫は長旅の疲れから病にかかり、旅を急ぐ義経は、従者の鷲尾三郎経春に看病を命じ、北へ向かいます。そして姫は間もなく息を引き取ったということです。
 その野内を通り過ぎて目的地の小牧野遺跡へバスは進みます。そのバス車中で中山さんにお言葉がありました。
 「開きて、開きて、開かれて、写して、写して、写し行き、現れたるは、アラアラアラ。こんなに嬉しいことですか。なんだ、なんだ、こうだったの。アラ嬉しい。」
 なんと嬉しいお言葉です。悲話も全てが新たな喜びの世界に開かれ、写しかえられていくのでしょう。
 
 小牧野遺跡は冬期閉鎖でした。遺跡はブルーシートで覆われています。縄文の情報が残るこの地は三内丸山ほど有名では有りませんが心地良い印象の地です。雪も少し残る肌寒い中、あわ歌を響かせました。
「この北の地に永くありて、嬉き時を過ごしたり。
 広き地は輝き渡り、木々はいきいきと実を付けて、海暖かく平らかなり。
 それぞれ皆々、いきいき過ごすこの地なり。
この度再び、この身を借りて、ここにあり。
光を届け、皆々様の大きなる力をいただきて、元へと還す時至る。どうぞこのことしっかりと、その思いにお留め下され。」




 バスは小雪舞う中、義経同様に津軽半島十三湊を目指します。車中で中山さんに大事なお言葉がありましたが、未だこれは公開しない方が良いとのことでした。やがて訪れる大きな変化を示し、如何に為すかという内容です。
 十三湖を左に見ながら十三湖オセドウ貝塚、相内神明宮には昼過ぎ着きました。ここは縄文前期の遺跡で、亀ヶ岡式土器につながる円筒式土器が多数出土しています。
 貝塚には神明宮が祀られています。かつては長脛神社と言われていて、12世紀頃に安倍神社になり、今はなぜか神明宮になっています。支配者の思惑があるのでしょう。

鳥居を過ぎると右手に巨石が祀られています。階段を上がると藁で出来た3m程の大きな龍体、この地では虫と言われる物が木につるされてあります。これは相内虫おくり祭りに使われるものです。

 虫おくり祭りは以下の様です。
「田植えを終えた時期に五穀豊穣と無病息災を祈願する「虫おくり」。
 木彫りの竜の頭に、稲わらの胴体で作られた「虫」を若者が担いで、囃子とともに村中を練り歩き、村はずれの一番高い木の枝に「虫」をかけ祈願します。
 津軽一円で行われていた民俗ですが、現在では、当市近郊の農村地域にその名残をとどめるに過ぎません。
 神話によれば、今から2000年以上前、大国主命(おおくにぬしのみこと)が田植えをした際、隣近所の人がたくさん手伝いに来てくれたおかげで田植えを早く終えることができたため、お礼として家畜をつぶし、様々なごちそうをふるまったところ、それを知った大歳神(おおとしのかみ・穀物の守護神)が、「農業に大切な家畜をつぶして食うとは何事だ」と怒り、神通力をもって一晩のうちにすべての田に虫をつけてしまいました。
 大歳神の怒りに触れた命は、恐縮し、ひたすら謝罪することで許されて、虫除けのお札をもらい、これを立てて虫を退散させました(虫おくりの起源)。また、大歳神のおかげで食べられることのなくなった牛や馬は大いに喜んで踊り(荒馬踊りの起源)、安心してよく働くようになりました。〜と伝えられています。」
 この祭りは全国でもここだけしかないようです。毎年6月に開催されるようです。



 参道を進むと何かありそうな感じで、中山さんの歩きが早くなります。正面に神明宮がありますが些か貧弱な構えです。社を通し過ぎて奥の林の中であわ歌を響かせました。
「戻りて参りました。永き時、この地に ある皆々様 ありがとう。
 再びあの頃の地へと戻る時は迫り来たり。
 皆々様には降り来る光に乗りゆきて、大きく広き大きなる地へ参られませ。
 これより変わりゆくこの地は、新しきと成ります。
今今なり、この時ぞ、参られよ。この光ぞ、参られませ。」

 中山さんはかつてこの地におられたことがあると言います。この地に立ちて蘇るものがあるようです。果たして攻め滅ぼした側なのかは私には定かでありませんが。




 昼食は直ぐ近くの道の駅十三湖高原で、十三湖の向こうに岩木山を望む素晴らしい場所です。十三湖の名物はしじみです。昼食は特注スペシャルメニューで特別にしじみラーメンとしじみカレーセットです。どちらも美味しいと皆さんにとても好評でした。


この地では後、靄山の麓にある洗磯崎神社と山王日吉神社を予定していましたがキャンセルさせて頂きました。目指すは亀ヶ岡遺跡にある雷電神社です。日本海に沿ってバスは南下します。



 亀ヶ岡遺跡はつがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡で、遮光器土偶が出土した遺跡として知られるところです。公園に遮光器土偶の大きなモニュメントが有ります。その山手奥に雷電神社があります。遮光器土偶などの多くはこの雷電宮の下からたくさん発見されたそうです。その遮光器土偶はとても特徴がある形で以下のように記載があります。
「遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていることである。また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。大型のものは中が空洞になっている。これは焼く際にひび割れをしないようにするためだと考えられている。
完全な状態で発見されることは稀で足や腕など体の一部が欠損していたり、切断された状態で発見されることが多い。多産や豊穣を祈願するための儀式において土偶の体の一部を切断したのではないかと考えられている。
普通の人間の形を逸脱した極めて特徴的な形態から、一部では宇宙服を着用した宇宙人の姿を模ったものであるという説(古代宇宙飛行士説)、東北地方で広く信仰されたアラハバキ神であるという説、古代シュメールの女神イシュタル説も提唱されている。」

雷電神社であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「どんどんどんと鳴り響く。
この地の大きなる気を受けて、広き原には多くの喜び生まれてありたるなり。
再びのこの時、永き時待ちたり。響きて、光を是よりは、共に致して参ろうぞ。(拍手)
お〜 」





 時間はどんどん過ぎて行きます。夕闇前に巡れるのは後一つだけです。最期の目的地は藤崎町の鹿嶋神社です。御祭神は建御雷神ですが以下の謂れがあります。  
「かつてこの地には、蝦夷の頭領の高丸らの霊鬼が出没した。坂上田村麻呂は、その霊鬼らをことごとく退治した。田村麻呂は兵とともに、一本の胡桃の大木の下で休息し、この地に高丸らの霊を鎮めるための社を建立することにした。田村麻呂は、その証として、手にしていた藤の杖を地面に突き刺した。その後、この藤の杖は根を着け葉を茂らせ、美しい花をつけるようになった。藤の木は、胡桃の大木に纏わり、二抱えもある藤となった。
 里人らは、この森を藤巻森と呼ぶようになり、この村を藤咲村と呼ぶようになったと云う。」
 坂上田村麻呂が高丸の霊を退治した際に、守護神の毘沙門天を祀ったと言われます。枯葉が境内を埋め尽くしています。ご神木の巨木であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「ぐるりと回りて次々伝え、光と響きを共々に、配りて頂きありがたき。
是よりも響きを発して、天地繋ぎて、大きな柱と成られませ。
新しきへ向かうご用意、くれぐれもお頼み申す。」





 今回の巡りの目的は達成できたようです。嬉しきことです。一路バスは仙台への帰路に着き無事に終える事が出来ました。ありがたき縄文・日高見・アテルイの旅でした。