2018年5月23日水曜日

1313「祈り3」2108,5,23


 講演会の内容から少し離れますが、アシリ・レラさんの講演会は仙台でも天外さんと一緒に開催した事があります。アイヌの活動家としてのアシリ・レラさんのインタビュー記事がありましたので紹介します。http://www.papersky.jp/2015/01/06/asir-rera/

Tomoko Kusakari, 2015/01/06
 日高山脈から流れる沙流川沿いに開けた山裾の集落、北海道平取町二風谷。ここでは山と川からの豊かな恵みを得て、昔からアイヌの人びとの暮らしと文化が営まれてきた。その末裔である山道康子さんは、彼女を慕う多くの人たちから、アシリ・レラさん(アイヌ語で「新しい風」の意)と呼ばれている。二風谷ダム建設で揺れる時勢を受けて15歳からアイヌ女性活動家として奔走し、アイヌの文化継承と職業訓練のためにアイヌ語学校を設立。その傍ら事情がある子どもを引き取り育てあげてきた。世界各地で儀礼を行い先住民族との交流も多いアシリ・レラさんを、彼女が主宰する「アイヌモシリ一万年祭」の会場に訪ねた。
 
―おいたちから聞かせてください。
 今から68年前の2月のことでした。私は雷が落ちたときに生まれたそうです。私を雷神の生まれ変わりと火の手を恐れた両親は、一度私を外に捨て、拾って東の方角から家に入れて「この子が落ちていました。人間の子として入れます」と、カムイに申し送りをしました。そうやって人間の子として授からせてもらう儀式をしたそうです。
 貧しくても道徳を重んじる両親のもとで、私は山や川で熊の子みたいに遊んでいた子どもでした。学校をさぼってばかりいる私を見かねて家庭訪問に来た先生に対し、母が「普通の子といろいろ違うのでご迷惑をかけますが、やる気になったら学ぶでしょうしやる気がない時に押しつけてもやらないでしょう」と笑って追い返したのを覚えています。子を守る愛の強い人でした。父親はアイヌ民族のアイデンティティを確立しようと猛烈に勉強し、尋常高等中学校を優秀な成績で卒業した人でした。教師を志しましたが、アイヌであるがゆえに夢は叶わず、山奥に引きこもり、炭焼きで生計をたてていました。
 当時の北海道では、線路の敷設工事やトンネル工事でアイヌや朝鮮人、日本の囚人が奴隷のように働かされる状況が続いていました。父は工事現場に炭俵を3つか4つ売りに行っては、帰りの炭俵にひとり入れて逃がすということもしていました。アイヌよりも悲惨な扱いを受けていた朝鮮人の男がこう叫ぶのを聞いたそうです。「茅葺きの家に逃げろ」。アイヌの家に逃げ込めば生きて帰れると。そういう話を仲間としては「こんなことが許されてはいけない」と話す父の姿をよく見てきました。「もしかしたらうちの父親、政治犯かもしれないな」と思いながらね(笑)。
 
―アシリ・レラさんのさまざまな活動は、そんなご両親の姿を見ていたから?
 そうです。自然のあらゆることを教えてくれました。動物が木の実を食べて排泄することで種を撒いていること、リスは冬眠のために埋めた木の実の食べ残しが翌年には発芽し、森をつくること、川岸に柳を植えると根が張って護岸になること、柳の根の下に魚は産卵し、天敵から卵を守ること……いろんなことを教わりました。小学6年くらいになると、父は急に厳しく読み書きを教えるようにもなって。当時は多くのアイヌが借用と偽られて土地を奪われていたので字の勉強は重要と思ったのでしょう。
 山が開発され、洪水はひどくなる一方で、アイヌ研究が始まり、学問という名のもとに先祖の墓がどんどん掘り起こされていました。最終的に日本人はみんなアイヌのルーツである縄文人が原点だという結論に達したけど、骨は持ち主に返してほしいと憤りを感じていたんです。だけど厳しい時代を生きてきたアイヌの老人たちは「日本語を話せ」と言う。アイヌ語は記憶伝承だから、しゃべらなくなると、子どもたちは覚えられなくなる。思春期の多感な時代にいろんな思いが渦巻いていた私は、中学校の卒業式にアイヌの鉢巻きマタンプシをいつもと同じように巻いていきました。そうしたら「それを外すなら卒業証書をやる」と言われました。私は卒業証書をビリビリに破いて、運動の世界に飛び込んだんです。
 
―このアイヌモシリ一万年祭も今年で26年目になりますが、一万年という言葉にはどんな思いがあるのでしょうか。
 一万三千年前は日本も大陸と陸続きでした。当時はアイヌの祖先である縄文人が南までいて、後からきた渡来の文化と融合して日本の文化が形成されているので、もちろん日本人は混血だし、アイヌも今は赤ちゃんに蒙古斑が出るようになりミックスが進んでいます。長い間、血と破壊の歴史は繰り返されたけど、一万年前はすべての人は神の子で、大地はウレシパ・モシリ(互いに育ち、育み合う大地)だった。だから一万年前の原点に戻ろうという思いがあります。会場のあるここは、新冠の御料牧場建設のために強制移住させられたアイヌがいた場所。同じように労働に従事して亡くなった朝鮮人、日本人の慰霊も兼ねて毎年お盆の時期に行っています。
 

2018年5月22日火曜日

1312「祈り2」2108,5,22

 シャクシャインはシベチャリ(現在の新ひだか町の酋長でシャクシャインの戦いを和人とおこないました。(話し途中欠落)
 シャクシャインは「神よこれで良いのか」と叫んだという。アイヌは松前藩に征伐され260名が死に、37名の首が松前の立石野に運ばれました。そこに37地蔵が祀られ佐々木神官は奉っています。
 シャクシャインは和人が本当に仲直りに来たと思って毒を飲んだのです。松前城にはシャクシャインの耳塚があり、井戸には本妻の子を生き埋めにされているのです。
 2016年に天外さん、口羽和尚と祈りの旅でそれらの地に行きました。
 何が大事か、戦ってはだめです。平等な社会、心の祈りが増えていくことが望みです。」

 途中、退席し話が欠落しています。補足する意味で、2016年7月9日の天外さんの仙台講演での祈りの旅の部分を紹介します。
653「ホロトロ4」2016,8,2 http://tenmei999.blogspot.jp/2016/08/653201682.html
654「ホロトロ5」2016,8,3  http://tenmei999.blogspot.jp/2016/08/654201683.html

 「日本が興る時、各地で先住民の虐殺があり、その怨念が日本中に残っているのです。戸とは呪術で、スサノウが神富を貶して糞戸(ふんへ)したことが記されています。
 2014年の剣山から2015年には出雲へ行き、今年、2016年、5月28,29,30日の三日間、には北海道に「封印されたアイヌの怨念の鎮魂の旅」行ってきました。
 口羽和尚、アイヌの長老のアシリ・レラさん達と300人以上のアイヌが虐殺されたという岩内で儀式をしました。滝があり清浄な小川が流れ、とても美しい景色のところですが、やはり気配はとても重苦しい。昔、日本の僧侶が建ててくれたという小さな祠があり、その前でアシリ・レラさんと口羽和尚と天外伺朗が儀式を行いました。終わったらレラさんは泣いておられた。小川を渡ってみんなのもとに行き、「とてもうまくいったよ」と報告したとたんに雲もないのに青空から細かい雨が降ってきました。レラさんは「ああ、喜びの涙だ・・・」 と言いました。

 和人の攻撃を事前に知らせてアイヌを救った和人の鷹匠、越後庄太夫が、見せしめのために生きたまま焼き殺されたという崖の上で儀式をしました。アシリ・レラさんの祈りと口羽和尚の施餓鬼供養の間に、天外伺朗のパイプセレモニーを行いました。アイヌの虐殺に抵抗して殺された日本人の越後庄太夫が浮かばれたようだ。(シャクシャインは1669年に起きたアイヌ最大の蜂起と言われる戦いの主導者で娘の夫が越後庄太夫。)
 大勢の人が祈りに来て、太陽の周りに日輪が出来ました。鷹が空を舞う時に死ぬと言われますが、火あぶりにあい、祝詞を唱えて焼かれたそうです。

 私がパイプセレモニーをした時に祝詞の声が聞こえたと何人も言ったですが私には聞こえませんでした。するとアシリ・レラさんがセレモニーを途中で止め、アイヌの毒殺されたシャクシャインが来ていて、口羽和尚の前に座っている、と言ったのです。そしてレラに、「私の祈りの言葉がわからない」、と訴えたようで、レラがシャクシャインにアイヌ語で説明していました。その後、シャクシャインは納得して越後庄太夫の後を追って、浮いて行ったようです。シャクシャインは首が無い姿だったそうです。他の2人も来ていたが和尚の前に座っていたようです。
 なぜシャクシャインが口羽和尚の前に座ったのかですが、島根県は鮭が遡って来るところで、口羽和尚はアイヌにも手伝ってもらって、島根県の川に鮭が俎上するための運動を続けており、その関係で20年間シャクシャインの供養をして来ていたのでした。そのことがあり彼の前に座ったのだろうと言うことです。
 目に見えているこの世界の裏側で、私には見えない厳粛なドラマが進行していたようで、私はただ、パイプを持って祈るだけでした。

 1669年10月にシャクシャイン達、アイヌは虐殺されています。それ以降、レラはじめアイヌの人達が祈って来ていたのに浮かばれなかったのが上がることが出来たのです。シャクシャイン記念館に行った時に、レラが言ったように、彼の銅像のところに日輪が出て、鷹がそこに来て舞っていました。これらはエンターティメントとしても最高のもので、自然の演出が起きたことは凄いことでした。」

※シャクシャインは、シベチャリ(現在の新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクルの首長であった。メナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。メナシクルの先代の首長であるカモクタインはシュムクルの首長・オニビシとの1653年の抗争により殺害され、副首長であったシャクシャインが首長となった。
シャクシャインはシベチャリ川下流東岸、シベチャリのチャシ(砦)を拠点としていた(現・新ひだか町静内地区)。オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエのチャシを拠点としていた(現日高町門別地区)。両者は松前藩の仲介によって講和するが寛文年間(1661~1673年)に対立が再燃し1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害。報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出るが拒否される。さらに使者が帰路に急病死すると、使者は松前に毒殺されたという風説が広り、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめるものであった。
 シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ松前藩への戦いを呼びかけた。1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。これがシャクシャインの戦いである。蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町のクンヌイまで攻め進んだ。松前藩から急報を受けた徳川幕府は東北諸藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ実行された。
 クンヌイでの戦闘は8月上旬頃まで続くが、シャクシャイン勢が和人側の妨害により渡島半島のアイヌと連携できなかったのに対し、松前軍は幕府や東北諸藩の支援を受け、鉄砲を多数装備していた。これにより戦いはシャクシャイン側の劣勢となり、シャクシャイン軍はクンヌイからの敗退を余儀なくされた。シャクシャインは10月23日(11月16日)に現在の新冠町にあたるピポクの松前藩陣営で謀殺され、指導者を失った蜂起者たちは松前軍に降伏した。


2018年5月21日月曜日

1311「祈り1」2108,5,21

 2018年5月6日にホロトロピックネットワーク主催で、代表の天外伺朗さんの著書「日本列島祈りの旅1」先住民族の叡智を学び、アイヌの英雄シャクシャインの御霊の封印を解く、の出版記念講演会「祈り」がありました。
 昨年の青森の祈りの旅に参加しましたので、また、日本列島祈りの旅の取り組みに賛同者に私が名を連ねていることもあり講演会に参加してきました。著書(ナチュラルスピリット社刊)も読ませていただきましたが興味深い内容でした。
 講演会はアイヌ長老のアシリ・レラさん、沖縄久高島のノロ真栄田苗さん、天外伺朗さん、祈りの旅を映画撮影している監督の吉岡敏朗さんの予告上映、最後に講演者に含めて、祈りの旅で大事な役を果たされている真言密教の修験者口羽秀典さんも含めたパネルデスカッションが行われました。

 講演会の内容を少し紹介します。最初に演者の皆さんが登壇し、天外さんがインディアンの言葉を発し祈りを捧げ講演は始まりました。冒頭に天外さんからの
「大変な事が分かってきた。今は平和な時代になっているがこの地では虐殺の歴史があり、それらが封印されている。2016年から封印を解く旅を始めた。」
と簡単な挨拶がありました。

 最初はアシリ・レラさんのお話です。
「私は北海道の平取町二風谷の生まれで、名前のアシリレラは「新しい風」の意味です。
 42歳の時に祈りの旅に入りました。最初は青森県の恐山から入りました。しかし雪で通れなかったので諦めて帰りました。そして春5月に又行きました。祭りでないのでまだおばー達はいない、不気味な程に静かでした。方々にお供えをしていたらお金がなくなりトマトや大根を食べながら過ごしました。そして帰りは軽トラに乗せてもらってフェリーの船乗り場まで送ってもらいました。 
 13000年前は日本列島は大陸と陸続きでした。日本にはアイヌ民族がいました。しかし侵略、植民地化され、口の元と言う名のもとにアイヌは虐殺されました。アイヌは地球を大事にし、天、地、大陽、海、山、川など6つを大事にしていました。手を合わせて祈っていました。何故、アイヌは戦わなかったのか、それは神の掟だからです。
 1200年程前、坂上田村麻呂は、父の坂上苅田麻呂がアイヌの娘ピリカに身ごもらせ洞窟で生まれました。苅田麻呂は自分の子の証としてピリカに小刀を授け、成長したら名乗り出るようにと伝えました。アイヌの血を継いだこの子をアイヌの征伐に利用しようと思ったのです。
 やがて田村麻呂は城に上がり征夷大将軍になりました。ピリカの教えを振り切ってそうなったのですが、長い戦の中で自分をアイヌと認識し始めました。日高見(北上)の川にいてアテルイと瓜二つと気付いたのです。
 アテルイと和議を結び、モレなどを引きつれて京に同行しました。しかし帝達は田村麻呂の意を認めずに、大阪枚方交野神社があるところで処刑され銀杏の木の下にアテルイとモレが埋められました。
 ピリカは化粧坂で城に上がったが悪玉姫と名づけられ、田村麻呂はその子なので悪玉と呼ばれていました。
 歴史は勝者により1つ1つ抹殺されてそのまま1200年過ぎました。やがてアテルイとモレの顕彰碑が建てられました。京都の清水寺にお墓があるが嘘の墓です。田村麻呂は1キロ先に、死しても都を守れと甲冑を着て竹ざおを刺されて立って死んでいるのです。
 羽黒山(奥州市水沢区)に悪玉姫像が建っている。1212年アテルイの供養が行われ、1213年で田村麻呂も見つかったのです。

 1456年に北海道松前のコシャマインの酋長が部族を守る為に立ち上がった。コシャマインの戦いだ。やがて和議を行ったが毒を盛られ崖から突き落とされた。コシャマインの事を思いコタンを守りたいと祈っていた。

※コシャマインの戦い(コシャマインのたたかい)は、1457年に発生したアイヌと和人との戦い。
 応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人(渡党)に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬[1]、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。

2018年5月20日日曜日

1310「扉開き14」2018,5,20

 確かにこの地球上はいろんなことがありそうです。それはどうしてか?というと、その振動が合わなくなってる。地球がこれから進んで行く、この地球がある宇宙が進んで行くのに、人間の振動が合わなくなっているから…その調整が出来なくなって、みんないろんなことがあるらしい。
 だから、何が起きるか?という事は、それぞれだから分からない。それぞれの人が見るという事が、今までこんな事は考えられなかった事を見る。という事だと思います。
 これからももっと凄い事を伝えて来るかも知れないが、起きた後に言うのでは、後出しジャンケンみたいで良くないから、これからは私も云われてる事をオープンにします。
 でも、私がこう言ったからではなく、受け取った人がどう思われるか?自分の内でどう思うかは、自分ですからね。くれぐれも自分ですよ。
 自分の"内"ですよ。
 自分が出来上がると、不安で揺れ動く事はなくなる。不安にさいなまれる人達とは違う自分でいられるはず!
 我々はここで何かをする、何かがある動物だと思う。次のようなメッセージが4月6日にありました。
「第三次無限世界の始まりを告げる。うたかた終了。
 捉われの民、多数は別次元。
 うたかた全ては無し。新たなるは無限。
 さすらうでないぞ。捉われたるはそのままそこに居れ。」


 という事は、そういう方たちはここでいいのでしょうね?
 でも、全体の宇宙としては、宇宙が変わって行ってしまうという話。宇宙はここだけではない。一緒にやってる他の宇宙が二つあって、バランスがとれてる我々ですよ。この地球上の狭い範囲だけで考えている時ではなくなってるということです。」

 中山さんのお話を受けてI、Tさんから以下の感想、質問がありました。
「無しにするということ、他に伝えるのは難しい。自分の中で起こしている事が分からないとそれが見えない。」

・中山さん
「とんでもない事が起きた人には話しやすい。小さい事でも分かる事だが、そこを見過ごしている。皆なかなか見ない。そこは自分が実践して見せるしかないが、そこに中々気付いてくれない。
 全体の流れは、次元が変わるという時期が大きい。最初に出来て、次に進化し、今その次が来ている第3次元だと思う。無限をどう捉えるかはややこしい。筒が無し、何も制限が無いをどう作るかだ。
 これまでこうあらねばならないという宗教的な縛りがあり、今、又インターネットでの枠や縛りが出て来ている。だから説明しても分かりにくい。
「一切無しで、どう歌っても良い。」、は私が最初に言った大前提だったが、自分が無くなることが先だ。自分がどんな思いで作っているかだ。
 自分が認識すると、回りにあるエネルギーが消えることが確かにある。認めてもらえないエネルギーが地球に充満している。それは不満、不安だが、しかし私一人でやっても追い付かない。もっとスピーディーにやらないと駄目だ。そこで一気呵成にする方法をするのではないか。それが驚天動地のことかもしれない。それで気象、地震、火山などで見せている。 
 今日も歌っている時に急にそこだけ雪が降ってきた。
 これからどうなるか保証は無い。自分をしっかりするしか手が無い。
 次回の毘沙門・妙見の巡りで横に書いて、今回の縦とで北の地は十字に結び、そこに大きな輪が出来ると、それで安心の輪が出来る。天地を縦に繋いで、次に人の横を繋いで中心がしっかりすることが大安心だ。」

 ミーテイングも終わり締めはいつもの中華料理屋さんで卓を囲みました。各自がしっかり内なる宮、筒を立て新たへと向かう時は迫っています。次回6月には横の繋がりを成し十字を作ります。果たして如何成りますでしょうか、楽しみです。
http://genkiup.net/awa/awa56.pdf
http://genkiup.net/awa/30.06.02.pdf

2018年5月19日土曜日

1309「扉開き13」2018,5,19

・G、Mさん
「巌鬼山神社のお言葉でびっくりしました。自分は覚悟して臨めたのか、と感じました。メッセージは分からない事が多いですが、真の思い、嬉しきがこれから向き合う事だと思いました。」

・S、Mさん
「響きが一体になった時の凄さを感じました。凄い貴重な出会いをさせていただいていると感じました。内なる宮を立てて、新しい展開へ向け、自分の宮をしっかりして行きたいと思います。先ず出来ることは、内なる宮へ嬉しきを響かせて行きたいです。」

・T、Sさん
「そこまで言ったので、そうなるのかと思いますが、それぞれがやれるところまでやるしかない。しかし色んな所に色んな人がいると思いますが、ここ天命塾でこれまで色んなことをやってきて、十文字と言う所まで来ているが、何事がどう変わるか予想出来ない。自分でそれで良かったと思える様にやるしかないと思っている。
 さっきまで気持が重かったが、G、Mさんの言葉を聞いてすっと軽くなって落ち着いたので、少し荷を降ろした感じです。これからどうなるのかな。
 一緒に声をそろえて歌うのに、次にはもっと良いもの出来る様に歌えたらと思います。どんな形でも一生懸命歌うと答えが出るが、今回は舌の内側が痛くてしゃべり過ぎては駄目なようです
 揺らがず付いて来いと言われたので、自分の建て直しを新たにと思いました。」

・中山さん
「皆さんが持ってらっしゃる「中心にある何か」は、それぞれみな違っているが、しっかりしたものを持ってらっしゃる!と云われてる。それを出せる自分というものを作ってもらいたい。しかし、今回云った予言的なものとかには、捉われずに…ひたすら、ひとつのことをやり抜いて、通り抜けたところで気がつく思いを持って欲しい。
 親鸞は、「ただただ唱える内に分かる時が来る」と教えた。あわ歌もそれと同じようなもの。
 今、皆さんが信じてること、こうであろうと予測出来るもの、それらを無しとして、無くてもこのまま、ここで生きて行く自分がある訳だから、「それでもやって行く」というところへなって欲しい。
 このツアー前の4月5日に、「その日は一日中 歌ってろ〜」と云われてやってたら、自分ではない状態にさせられた。体もボロボロになって、このまま消えるのかなぁ?(それも面白いな)
 それでも、自分ではない状態でやってたら… 急に鐘の音!(自分の唇から出してる)が鳴って、メッセージが来た途端に体が変わった。そして、意識で抑えてたものが取り除かれた!
 それで、この二日間はどんどん云ってみてると思う。それでも、ある程度加減はしてるかなぁ…と、は思ってますが、言葉の表現が大層なんですよ。
 だから、そういう大層な事が起きるという風に取られるしかないんですが、でも実際には自分の内で全てが起きる。
 周りがいっぱい揺れ動いちゃって、ここには住んで居られないようになる事よりも、自分の内!
 自分の内では、大変な事と思われる今まで感じなかった事というのを経験して、そこを乗り越えて新しいところへ行く。
 その持ってたものがどんどん無くなる。忘れて行く。行ける自分という方向へ行ってもらいたい。



2018年5月18日金曜日

1308「扉開き12」2018,5,18

 巡りを終えて仙台に向かいます。あわの里天命舎で17時半からミーティングを行いました。始めに今回の巡りに参加した皆様の感想等を伺いました。


・K、Hさん
「あわ歌会の時からお言葉で、分かっているでしょう、と言われていたので、今回はこれは乗った船だ、と再確認しました。今回のように身近で一緒に廻れて体感し触れられたことは大きなことだと思います。」

・I、Tさん
「皆で響いていたように思います。丸くなって歌うと、違う歌が聞こえたり、一体感がありました。」

・S、Hさん
「中山さんと歌を合わせようと思ったのですが色んな物が聞こえて来ました。以前に中山さんと福島の都都古別神社に行きましたが、そこは筒受けの宮で天地を繋ぐ筒です。今回それぞれが筒で受けて響くのではないか、と頂きました。自分の中にその宮があれば、神社などに行くのではなく、自分が動き、行くことで良いのではと感じました。」

・O、Tさん
「これまで中山さんに同行し、長いこと色々お言葉を伺ってきましたが、それぞれが嬉しき宮を自分の中に立てる事だと改めて感じました。
「北の星に讃えを送る」という事は、北極星がもう中心で無くなるということで、どう変わって行くのかと思います。
 以前に頂いた、2015年12月19日のお言葉に「777日後の33日前から」と言う言葉がありますが、その33日前は今年の4月7日で、昨日のことでした。その言葉に示された流れの様に、きちんと来ていると改めて感じました。」

 ※ここで示された2015年12月19日のお言葉を紹介します。2015年12月17~19日に行われた天命塾の「みちのく光を繋ぐ旅no3」の12月19日車中でのお言葉で、以下のものです。

「大事なる事を伝えたし。
 日暮れに向かうこの星は、光輝く大きなる時へ向かう。
 日暮れはその前に全てを変え行く元なれば、起こり来る来る多くの事が、全ての是まで、うたかた成ると知りて頂く日々と成り、その期間は777日。
 始まりは来る3月25日。皆々様が分かりて変わるは最後の33日。
 この仕組みはしっかりと発動いたすが、大きなる障害、随所にあるを知りておる。
 その時、発する響きは、皆に取っての大きなる苦しみぞ。御用意、おさおさ怠り無くば、その時、通る大きなる嬉しきの中なり。

 来る年の3日、2月の4日、3月6日、4月8日。全てが止まる。多くが変わる音を出だし行く時なり。
 かたじけなきが、皆々様には、深きところの思い出ださざれば、痛き時となれり。
 深き思い、知りて合わせば楽しき日々ぞ。はらからの思いは嘘は無し。そのまま自然の宇宙の理、生み出だす。
 たん たん たん たん たらり。
 影踏みて、この地にありて、闇なる所の見えざる輩、是より参りて、大きなる光を響きと共に送り行く。参りて、共々全てを統べる大いなる供と成られませ。
 この地の強き力と成りて、宇宙へ繋ぎて参ろうぞ。
 篩いは激しきなれど、皆々の思いは強きなれば、定めて参ればひとつなり。
 いざ いざ参れ。ふんたる らりあ るんたらり。
 ようよう参るこの時成れば、写して見せます全ての新しき仕組みを。」17:25

 最近、お言葉に出た日にちに該当する事象が起きてきている様で、中山さんとO、Tさんでお言葉の内容、意味を再度精査して確認している様です。

2018年5月17日木曜日

1307「扉開き11」2018,5,17

 達谷窟毘沙門堂は多くの参拝者で賑わっていました。天気も良く日差しがまぶしいくらいで青空が気持ちよいです。以下はアテルイと坂上田村麻呂、そして達谷窟毘沙門堂に付いての記事です。

「達谷窟毘沙門堂縁起:約そ千二百年の昔、悪路王・赤頭・高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発するの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守を固めた。延暦二十年(八〇一年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台造を模ねて九間四面の精舎を建て、百八躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし窟毘沙門堂と名付けた。そして延暦二十一年(八〇二年)には別当寺として達谷西光寺を創建し、奥眞[おうしん]上人を開基として東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めた。〔後略〕」

 悪路王たちは「この窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された」とあり、朝廷側による蝦夷征討の正当性・正義性が縁起化されています。この正当性・正義性の延長上に田村麻呂の美化・伝説化はあるといって過言ではないのですが、偽悪化された悪路王を史実の阿弖流為に戻してみれば、これらの縁起表現がまったくの虚構であることは明らかで、ゆえに阿弖流為ではなく悪路王という名の蝦夷の凶悪人が創作される必要があったといえます。
 
 東北の寺社にみられる田村麻呂の伝説化・美化は、西国においては神功皇后に相当するものですが、いずれにしても、朝廷の征討論理を糊塗しつつ歪曲的に正当化する構造となっています。多岐神社の由緒の前半も、この田村麻呂の美化伝説を踏襲したものですが、悪路王にしても三光岳の岩盤石という「鬼神」にしても、史実レベルでいうならば、朝廷側の一方的侵略軍に対して抵抗した蝦夷の首長たちを偽悪化したもの以上ではありません。
 阿弖流為や母礼を首領とする蝦夷の抵抗は延暦二十一年(八〇二)までつづくも、同年四月十五日、阿弖流為らはついに田村麻呂軍に降伏、京に連行された阿弖流為たちは、田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず、八月十三日に斬刑に処せられたとされます。この田村麻呂の助命嘆願が史実であったかどうかは検証のしようもありませんが、田村麻呂の美化・伝説化の端緒的動機とはなっています。
 多岐神社由緒は、田村麻呂が悪路王をはじめとする岩盤石の討伐に難渋していたとき、「東光水と申す瀧」の「化神」の加護によって勝利を得たとしています。また、田村麻呂が一社を建立し「多岐宮と号し崇め」たのは「延暦二十一癸未年(癸未は延暦二十二年…引用者)八月の事なり」としています。延暦二十一年八月は、阿弖流為たちが斬刑に処された月でもあり、由緒が延暦二十一年にこだわっているとしますと、この符合は偶然ではないようにみえます。『日本紀略』同年七月二十五日条には、蝦夷平定の祝賀の会が朝廷内で催されたとあるように、朝廷サイドからすると、積年の難敵・阿弖流為たちの降伏(→処刑)は祝賀に値するほどの画期だったようで、その象徴的な年が延暦二十一年でした。
 朝廷側による一方的侵略に対して、自立自尊・専守防衛に徹する蝦夷は、侵略側にとっては理解の外にある存在で、これも一方的というしかありませんが、蝦夷は未開の野蛮人・異人、つまり「蛮夷」とみなされていました。しかし、阿弖流為の時代、彼の本拠地近く(奥州市水沢区黒石)には、天平元年(七二九)行基による薬師如来の造像および薬師堂建立伝承(開基伝承)をもつ黒石[こくせき]寺(旧正月七日夜半から行われる「黒石寺蘇民祭」の奇祭でよく知られる)がすでにあり、ここは阿弖流為の信仰とも関わる可能性があります。」

 達谷窟毘沙門堂に入らずに、前の道路脇に流れる川原の淵で達谷窟毘沙門堂の岩壁に向かってあわ歌を響かせました。




爽やかな川の流れで心地良く、太陽の光がエネルギーを降り注いでくれています。歌い終わって以下がお言葉です。
「大いなる日暮れに向かうこの世にありて、
 ひたすら響き持ちて、この北の地に十字を結びて、
 遥かへと発するは大いなる力なり。
 皆々様、その身の中心しっかり据えて、
 是よりの時を進み、乗り越え、新しき嬉しきへ。」 16:09




 日暮れに向かう世に今回は縦に南北に繋ぎましたが、次回6月は横に東西に繋ぎ、十字を結びます。是は大いなる力となる様です。各自が中心をしっかり据えてこれから進み、乗り越えて新しき嬉しきへ迎える様に念願です。