2017年4月24日月曜日

919「合気14」2017,4,24 拆石神社

 東北自動車道を村田インターチェンジで下りて、村田町を抜けて柴田町に向かいます。下り坂を下りていくと、こんもりした小山の幟端がたっています。目指す拆石神社(さくせき)です。どうやら今日は神社の例大祭のようです。以下が神社の紹介です。

「説明: 拆石神社(柴田町)拆石神社は御由緒によると「往昔、宮下宅と呼ぶ地の後山に在り、拆石神社鎮守明神といった。
 平城帝の大同2年6月14日此神後山の社地を去り飛揚倏忽、其の有る所の巨石を裂きて、これを中分し石中にやどる。石形並立して屏風のようであった。かく石厳を折いて入り給ひしを以て郷人これより拆石明神といった。
 又、平城帝の御代、坂上田村麻呂将軍統制の折りこの神社を勧請し、武運長久を祈願したともいい、又、古老いわく、日本武尊東征の折、磐坂皇子を祀ったとも伝えている。村名元磐坂(後・破坂・葉坂)と称したのもこれによるという。・・・(後略)」とあります。

 由緒の通り、中腹から岩が裂けているように巨石が積まれ、周囲は神聖な雰囲気が漂っています。古来から山岳信仰や巨石信仰など、このような場所は神聖視される事が多く、この場所も古くから信仰の対象になっていたのではないかと思います。 説明: 拆石神社(柴田町)古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が排除され社号を「拆石神社」に改めて明治6年(1873)に村社に列し、大正3年(1914)に供進指定神社に指定されています。拝殿は入母屋、銅板葺、平入、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝付。本殿は一間社流造、銅板葺、平入。参道には、石垣が積まれその上に長床を建て、山門(楼門)のような形状をしている建物や、境内には釣鐘などが配置されている事から、神仏習合の名残が濃い神社と言えると思います。旧伊達領内では、古社やいわくがあるものなどは神社山門(長床)や鐘楼がある例が非常に多いと言えます。
 祭神:大宜都比売神。配祀:菊理媛神、火産霊神、表筒男神、中筒男神、底筒男神。



 山門のある階段を登ると直ぐ正面に社殿があります。右手に山に登る小道を進むと石室があります。更に左手に周り社殿奥の山に入りと、驚く巨石が積み上げられて、屏風の様に並んでいます。その長さは50mほどもありますでしょうか。どう見ても天然のものではなく、人為的な意図を持って作られた人工遺構です。




 石を裂いた拆石(さくせき)神社と名つけられたことが納得出来ます。かつては破山神社と言われたようで、古代祭祀を行なった神仏混淆のする神社でありそうです。
 特別なエネルギーを地のそこから出ているようです。地底からの気を発しています。中山さんもこの地の在り様に興味を示されて暫し、確認されていました。


 石の屏風に向かって整列してあわ歌を歌い、ゆるゆるゆる、ふむふむふむ、さんさんさん を3回響かせました。その時のお言葉です。
「篩て 篩て 篩て参る。
 うたかたのこの地を真と致す。
 この地の底の大きなる気と、遥かなる気を合わせ行く。
 ひいえ〜〜え〜〜〜〜お〜〜〜おあえ~~お~あ
 頼みたるなり。」15:30

 この地の底の大きなる気と、遥かなる気を合わせ行く。とありますので今後も大きなお役目を果たす地とのことです。



 山を下り神社をでるとお神輿の行列が神社に向かって来ます。何と言うタイミングなのでしょうか。我々のあわ歌奏上と呼応するようで、この地の神々もお祝い、目出度きことであったのでしょう。


2017年4月23日日曜日

918「合気13」2017,4,23 せいじん庵・(磐司岩)

 昼食は大崎市岩出山の本格手打そば処「せいじん庵」です。3月4日の木内鶴彦さんの蝦夷・アラハバキ・アテルイの旅 の時にもここでお蕎麦を頂きました。皆さんに好評でしたので今回も麺食いの皆様に堪能して頂くつもりで予定しました。
 お店は沢山のお客さんで賑わっています。予約の個室席で暫し蕎麦茶を頂き、歓談して待っていました。



 次の目的地は仙台市太白区秋保町にある二口渓谷・磐司岩です。4月1日に秋保ビジターセンターが3月末までの冬季閉鎖を終えて業務開始していますが、果たして磐司岩山道が通行可能か分かりません。難しいだろうと思いつつセンターに電話で問い合わせしました。そうしたら案の定、雪でまだまだ通行止めとの事です。地獄谷と同様に、磐司岩はいつかの機会に巡ることにしてキャンセルです。

 行ったつもりで二口渓谷と磐司岩の紹介です。
「二口峡谷:蔵王国定公園区域の名取川最上流部にあり、秋保大滝から二口峠までの約15kmにわたる渓谷には、姉滝・磐司岩・白糸の滝などの奇勝・景勝が点在。
 磐司岩:磐司とは山の守護神の事。県立自然公園二口渓谷内の名取川上流部の二口沢と大行沢の中間に屹立する、安山岩質凝灰角礫岩・火山角礫岩からなる柱状節理の大連壁で、谷底からの高さが約600m、幅は約3kmもある巨大な岩盤・磐司岩。大パノラマは、壮大な造形美が観るものを圧倒する。高さ150m 幅3キロ以上の巨大岸壁。国指定名勝でもあり、その壮大な自然の造形美は圧倒的な迫力を持つ。」



 写真のように磐司岩は圧倒される様な巨岩壁です。岩は南に面してそそり立っています。いつかの機会に中山さんを同行してあわ歌を響かせたいものです。

 いよいよお蕎麦が配膳されました。せいじん蕎麦はせいじん庵の名を冠したこのお店の看板商品で、手打ち蕎麦を5種の薬味で味わうこのお店の一押しのお勧めです。今回は野菜天ぷら付きで豪華に頂きました。かなりなボリュームですが美味しく、皆さん大満足です。



 蕎麦アレルギーのGさん様に、特別にうどんを手打ちで親方が作ってくださり、これまた感激のGさんでした。前回の木内さんの時にも参加していて、その時は急遽、天丼でお願いしたのですが、再来の客ということでの特別の配慮で、嬉しい御もてなしです。

 心身満たされて、次の目的地、柴田町の拆石神社に向かいます。燦燦と輝く太陽の日差しの温もりで車中では睡魔に襲われる皆さんです。私は必死に眠気をこらえて運転です。

2017年4月22日土曜日

917「合気12」2017,4,22 鬼首

 自鏡山から宮城県栗原市栗駒は直ぐで、一山越えると栗駒です。次に目指すのは大崎市鳴子の鬼首温泉の吹上地獄谷です。日頃通ることがない山道を進み、鳴子中山平温泉から国道47号線に入り、暫く108号線を湯沢方面に進みます。鳴子ダムを左手に見て更に進み、吹上温泉に到着です。予想通り、地獄谷はまだまだ積雪で進入できません。引き返して吹上温泉の間欠泉を見学することにしました。
 この地は鬼首カルデラといわれるところです。以下の様な記載があります。

「鬼首カルデラ(おにこうべ)は、宮城県大崎市、栗原市、秋田県湯沢市、山形県最上町にまたがる直径およそ13kmのカルデラである。カルデラ壁の標高はおよそ1000~1200m。荒雄岳(カルデラ内の基盤岩が隆起した山)は984.2m(最高地点はツクシ森の989m)で中央火口丘は高日向山溶岩ドーム。
 吹上沢および片山地獄を中心に地熱活動が認められる。片山地獄には地熱を利用した鬼首地熱発電所がある。周辺には温泉も多く、鬼首温泉、宮沢温泉、吹上温泉、轟温泉、神滝温泉などが有名。なお、鬼首の雌釜(めがま)および雄釜(おがま)間歇温泉は国の特別天然記念物に指定されているが、現在は涸れてしまっている。」


 このカルデラの地形図も龍体のような感じもします。
 
 入場料を支払って間欠泉見学です。
「鬼首かんけつ泉には、約10分間隔で15m程噴出する間欠泉「弁天」と、20~30分間隔で2~3m噴出する間欠泉「雲竜」があります。
当園内の間欠泉噴騰メカニズムは、鉄鋼の研究で有名な故本多光太郎博士と故野邑雄吉博士により研究されました。
 研究の結果、「地下にある空洞に地下水が溜まり、これに火山の熱源が過熱して噴騰する①、垂直の穴に地下水が流れ込み、その下の火山熱で噴騰する②のケースがある」と認められました。このうち①が弁天、②が雲竜と考えられます。現在も、東北大学大学院理学研究科の西村太志教授が代表として、当園内の間欠泉噴騰メカニズムについての研究が行われています。」


 看板にこのメカニズムを図で説明してあり分かり易いです。弁天の吹き上げ口の前に囲いがしてあります。そこに皆さん並んであわ歌唱和は無く、「ゆるゆるゆる、ふむふむふむ、さんさんさん」を3回響かせました。


そうすると丁度間欠泉が吹き上げるではありませんか。ベストタイミングです。




その時のお言葉です。

「たたら を踏み来たその時、
 火と水、合わせて、大きなる夢を見たり。 
 是よりも火と水 交わり、真を現す。」11:55

 たたらとありますが、たたら製鉄の事です。
「日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称。砂鉄や鉄鉱石を木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とする。」
 この地でも鉄が取れて製鉄が成されていたのでしょうか。火と水を合わせてここの間欠泉、温泉も噴出しています。火と水で「かみ」、神です。新たなものを産み出す力がこの火水にはあります。そこに真を現すと在ります。これからの動きの一つです。

 園内の滝、温泉施設など散策して楽しみました。

  鬼首の山々はまだまだ雪景色です。この鬼首には、「坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に、蝦夷の首領の大武丸を斬ったとき、その首がこの地に落ちたので鬼首と呼んだ」という地名伝説があります。角川日本地名大辞典には以下の様に記されています。
「温泉が地内所々に湧出し、古来、硫黄・石英・石雲母・金・銀・銅の鉱産や漆の生産に富み、馬産地としても知られていた。地名の由来については、坂上田村麻呂が蝦夷経営の際、蝦夷首領大武丸を斬ったとき、その首がこの地に落ちたので鬼首と呼んだという伝説がある。しかし鬼首は本来鬼切部(おにきりべ)と呼ばれていたもののなまりと思われる。鬼切部は平安後期奥六郡の安倍頼時と陸奥太守藤原登任の大戦があった古戦場。その安倍館と称するものが鬼切辺館あるいは鬼城と呼ばれ、古塁跡を残している。」




2017年4月21日金曜日

916「合気11」2017,4,21 自鏡山・吾勝神社

 龍神穴瀧を後にして、次の目的地は同じ一関市内の宮城県境近くにある、自鏡山・吾勝神社(あかつ)です。20分程で到着です。
 この自鏡山は平泉町の立石山・二本立石から西南方向にあり、綺麗にピラミッド形に見えた山ではないかと思われます。近くに立石山もありますが、自鏡山には古から貴重な役割があったようです。以下にこの地、自鏡山・吾勝神社についての記載を紹介します。

「標高314米、廻りの山々より一際緑が濃く、落ちついた自鏡山に当社がある。
 御祭神は吾勝大神・保呂羽大神・白鳥大神の三神である。頂上の奥宮は「安永風土記」によると、日本武尊が東夷征伐のため、当地に下向した際、吾勝宮を勧請し戦勝祈願したものである。
 吾勝神社「小笹ヶ森」(持経山)現在の自鏡山に天照大神の御子、正哉吾勝速日天忍穂耳命を祭っている。現在白鳥神社(日本武尊)保呂羽神社(少名彦名尊)を合せて自鏡山の中腹に中殿の社を建立したのが当社である。
 その由来は桓武天皇、延暦16年(紀元797年)坂上田村麻呂が朝廷の命により東下し、蝦夷を征するに当り日本武尊を相殿に勧請し戦勝を祈願したものである。当社はまた平城天皇、大同二年(紀元807年)伝教大師が霊社山を創立したという由来から吾勝宮又は勝宮と呼んでいたが、保呂羽権現として、篤く崇拝されている。
 明治四年(紀元1871年)廃仏毀釈の法令により村社吾勝神社と改名する。昭和21年神道指令により、氏子・崇拝者より吾勝神社として護持され現在に至る。」
 以下の写真のように端整な山容の山です。


 25年3月24日に中山さんを同行して訪問していますが、中山さんはあまり記憶になかったようです。中腹まで車で登れます。中の鳥居から参道のかなりな数のきつい階段を登ると拝殿があります。社の奥に巨石が鎮座しています。






 そこから山頂か木々の合間にかすかに見えます。細い山道を更に登ると、道路脇に鏡岩のような巨石は南に面してそそり立っています。更に道を進むと奥宮の小さな社があります。その裏手が山頂で、見事な枝ぶりの木はその存在を示して立っています。


 山頂から眺望を楽しみ、北西に雪を頂く栗駒山、焼山連峰、北東に、平泉方面、大文字山、立石山が見えます。
 ここでその二本立石へ向かって響きを発しました。




あわ歌無く、「ゆるゆるゆる、ふむふむふむ、さんさんさん」を3回です。その後のお言葉です。

「うましことなり。
 この地の流れ、細きなるが、繋がりたり。
 是よりなるなり。
 放ちたる先は、西へ、南231キロ。
 その先は、320。
 そこよりは大きく広がり行く。」9:53

 ここで凄いお言葉がありました。「この地の流れ、細きなるが、繋がりたり」です。嬉しき事です。放った先は西、南231キロ、その先320キロとあります。更なる広がりの役割を果たす事が求められています。
 後で調べたら231キロは栃木県那須あたりで、そこはSさんの本拠地です。そこから320キロはどうやら奥三河辺りでは無いかとの推理です。
 うきうきと晴れ晴れした軽快な足取りで下山しました。





2017年4月20日木曜日

915「合気10」2017,4,20 龍神穴滝

 今日最初の目的地は同じ一関市龍神穴滝です。ホテルから10分程で到着出来ます。
 昨年12月3日の陸奥中心穴柱巡りで初めて訪れてから、2月12日の陸奥5大巨石を繋ぐ旅、そして今回の巡りと唯一、3回続けて訪れることになった場所です。
 朝方の霧、ガスがスッカリ晴れわたり、太陽が燦燦とエネルギーを注いでくれています。 

 穴瀧近くの路上に駐車して、磐井川の橋のたもとから下りて行きますが、今回は是までに比べて楽に藪の道を進む事が出来ました。



 龍神穴瀧はすっきりした感じで、最初に訪れた時と随分と変化した様子です。足しげく通い、あわ歌を響かせ、本来の役割を果たして頂ける地底との繋がりの重要な地点と整って来ているのでしょう。
 


 滝を見下ろす巨石の上に登り、各自思い思いの場所を確保して、滝に向かってあわ歌を唱和し響かせ、「ゆるゆるゆる、ふむふむふむ、さんさんさん 」を3回発しました。その時のお言葉です。
「北より送るこの地の響きは、ここより只今、発したる。
 響きを受けて、西へと参る。
 この地の深き滞りを、これにて流す。
 大いなるこの国へ、変わり行く元なり。
 是より伝えて参る。」8:50


 北からの地の響きは発せられ、西へ向かう様です。この響きで、この地の深い滞りを流し、大きなる国へと変わり行く元となす。凄い言葉です。


 是までこの龍神穴瀧で頂いたお言葉は以下の通りです。
2016年12月3日
「更なる大きへ向かう時、この大きな天地繋ぐ穴、光を取り込み発しなされ。
 進みは是より、地の気を発して参られよ。」14:31

 2017年2月12日
「大いなる響きを伝え行くは、
 この地の底に流れ来る、大きなる流れが、響きと一つに成り行く事なり。
 この流れ、地底にて滞りてある。
 響きを南へ流し行き、この地の流れも共々に成らんと致す。
 響きを、響きを、響きを、流されませ。」12:03

 この3回の言葉を纏めてみると、龍神穴瀧には以下の役割があります。
 大きへ向かう時、この大きな天地繋ぐ穴光を取り込み発しなされ。
 この地の底に流れ来る、大きなる流れが、響きと一つに成り行く事なり。
 この流れ、地底にて滞りてある。
 響きを南へ流し行き、この地の流れも共々に成らんと致す。
 響きを、響きを、響きを、流されませ。
 北より送るこの地の響きは、ここより只今、発したる。
 響きを受けて、西へと参る
 この地の深き滞りを、これにて流す
 大いなるこの国へ、変わり行く元なり。
 是より伝えて参る

 これからの事は以下のようです。
「この天地繋ぐ穴、光を取り込み発し、地の底に流れ来る、大きなる流れが、響きと一つに成り行く。この流れ、地底にて滞りてある。響きを南へ流し行き、この地の流れも共々に成らんと致す。北より送るこの地の響きは、ここより只今、発したる。響きを受けて、西へと参る。この地の深き滞りを、これにて流す。大いなるこの国へ、変わり行く元なり。是より伝えて参る。」

 更に纏めると
「天地繋ぎ響きと一つと成り、北より送る響きを発して、南へ流し、西へと参る。この地の深き滞りを流して、この国が変わる元となる。是よりこの響きを伝えて行く。」
 是こそが4月1日のあわ歌唱和会で中山さんが描かれた絵のことです。