2017年7月21日金曜日

1007「鞍馬・三河9」2017,7,21

 牛川波の上稲荷は豊橋市牛川町にあります。新しい住宅街を過ぎて狭い道に入り、小高い林の中にあります。神社に入る道は普通車がぎりぎりの巾で少し技術を要します。

 除福と三河は濃厚な関係がありそうです。その中で、この牛川波の上稲荷は除福伝説にも関係するところです。以下の表記がありましたので紹介します。

「徐福という人物に関する文献は司馬遷の「史記」・巻118「淮南衝山列伝」にある。秦時代(紀元前3世紀頃)、始皇帝の命を受けて、3000人の若い男女・百工を従え、東方の三神山に不老不死の霊薬を求めて船出した。そして、平原広沢を得て王となったという記述がある。徐福が目指した蓬莱の国があった場所は各種異論があり、台湾・韓国、・日本・アメリカなど各伝説が残っている。日本においても徐福到来の地は紀伊半島熊野・富士北麓吉田など各地にある。
 徐福が目指した場所は「トヨアシハラミズホの国」であり、「ホウライ」とある。愛知県の東三河は「豊国・ホの国」と古代では呼ばれていた。また「ホウライ(鳳来町)」という地名もある。現に愛知県新城市にある鳳来寺山(標高:684.2m)は古代の数千mあった巨大な火山で『不二山』と呼ばれていた。
 三河地方と熊野地方との交流は海路が主であった。中世の頃まで鎌倉街道が豊川(とよがわ)を渡った船着場の愛知県豊橋市牛川町字西郷にある浪ノ上稲荷社の下にあったといわれている。熊野に到来した徐福一団もしくはその末裔が不二山を目指して三河の地に訪れていた。

 浪ノ上稲荷社がある牛川町内には熊野神社が2社(牛川熊野社、浪ノ上熊野社)あり、浪ノ上稲荷社の境内には20基もの立石がある。この立石に刻まれた文字には今まで見聞きしたことのない大神・地神の名が刻まれている。立石に刻まれた大神の文字は、この地に定着した徐福一団もしくは末裔の渡来人達の功績を讃え、神として崇めたものではないかと、古代史研究家・前田豊氏は推測している。また浪ノ上稲荷社の近くの石巻町にある牛川1号という発生期の古墳から中国将官用環頭の両刃剣(後漢時代・2世紀頃)が出土している。」

 神社の周りには沢山の石塔、立石があり、その中に今風の言葉が記されたものもあります。





 その中で「みどりの日 サンキュウ九条 サザンが九」と記された石碑がありました。この前で歌うことになりました。
 あわ歌を響かせた後に次のお言葉がありました。
「久しき時を過ごし来て、この地の大きなる気を受けたり。
 ここより発するは、
 西へ220キロ、東へ333の99キロ、拡がりて、
 大いなる此処を発信地と成すなり。
 これよりも繋ぎて参られませ。」10:02

 「サンキュウ九条 サザンが九」で東へ333の99キロとのお言葉ですから、笑ってしまいます。
 石碑の前の看板に「いつの日にか 小さな星になる あなたと私に」という文章が書いてありました。

  古い石碑には多くの神々の名が記されていますがその事に付いて以下の記載がありますので紹介します。
「徐福一行の人名であるが、これらの名は牛川稲荷社の石碑に刻まれた、謎の大神の名と極めてよく似ているのである。中には同一名もある。私が最初に石碑の大神の字を見いだしたときは、これだけ大勢の大神を刻む牛川稲荷とはとんでもないところだ、と思ったのだが、その謎がここに来て、ようやく解けて来たのである。
 つまり「徐福一行は、蓬莱の地に辿り着き、産業を起こし、定着し、その功を讃え、神としてあがめられた」、という表現が事実であったのではないか、いうことに思い到ったからである。」
「尚、牛川稲荷の祢宜である鈴木氏に、石碑の由来を尋ねに行ったところ、この石碑は氏子のひとの守護神を祭ったものだと云われた。牛川稲荷の社殿ができたのは意外に新しく、以前は石碑群と古墳があっただけであるようだ。石碑群も大正時代に整頓されたそうで、内容も分からず台石に、字を彫り込めたものを、逆さに積んだりしたものもある。しかしその古さは確かなものであり、彫刻された字が風化して、読み取り難いものも多い。その後の調査で、この地域の住人は、これら石碑の大神の子孫であることが判明した。徐福一行がこの地の先祖であれば守護神として祭られるのも納得できる次第である。」
(東三河と徐福伝説 秦の徐福は東三河に定住していた  前田 豊)

2017年7月20日木曜日

1006「鞍馬・三河8」2017,7,20

 7月1日は雲ひとつ無い快晴です。鞍馬山で天と地を繋ぐ柱をなし、サナト・クラーマのエネルギーを八方に拡げるには最高の日和です。昨晩に到着したIさんも合流して8名全員が集まり、八方に拡げる面々が揃い、準備も整いました。里美八犬伝ならぬ三河あわ歌八人衆です。8時前にホテルを出発してレンタカーに乗り込みました。

 最初の目的地は豊橋市大岩町にある大岩寺の岩屋観音堂です。ここが私にお言葉で現われた「二川 三十三」の三河二川宿、東海道五十三次三十三宿、三十三観音一番霊場です。
 岩屋観音堂に付いては以下の様な記載があります。

「伝承によれば奈良時代の僧行基により、岩屋観音が建立されたという。大岩寺は観音堂の塔頭の6坊のひとつで岩屋山の山麓にあった。6坊のうち大岩寺のみが残り、観音堂を奉仕管理していた。
 伝承によれば天平2年(730年)に、全国を行脚する行基が1尺1寸の木造の千手観音を彫り岩穴に祀ったという。これが大岩寺の境外仏堂岩屋観音の始まりであり、岩屋観音の1坊であった大岩寺の起源とされる。天正13年(1585年)、岩屋山が炎上し、観音堂以下、寺は衰退した。
 天正18年(1590年)、天下人関白豊臣秀吉により神君関八州移封となり、東三河に池田照政(後の輝政)が封じられた。三河国吉田城主となった照政は岩屋観音を信心していたと伝わる。
 宝永4年(1707年)旧暦10月、宝永地震が発生する直前、遠江国白須賀宿に泊まった輝政の曾孫である池田綱政の夢枕に観世音菩薩が現れ、今後起きる地震や津波の難を告げたという。綱政一行は急ぎ、海道を西に上り、三河国二川宿へ入った。マグニチュード8.4とも推定される大地震が起こり、東海から九州にかけて大津波が襲い白須賀宿は南から来た海水の前に飲み込まれて壊滅した。命拾いをした綱政は観音の冥加と考え、岩屋観音に帰依した。綱政が寄進した観音経1巻、絵馬4枚、黄金灯籠1対は、豊橋市の指定有形文化財となっている。
 現在、国道1号の岩屋下交差点の東の小山(岩屋山、78.2m)の上に約2.9m(9尺6寸)の正観音(聖観音)像が立っている。」

 池田公に観世音菩薩が夢枕に現われ、宝永地震、津波を告げたという、この逸話に興味を抱きます。今回、この地を最初に訪れたのもこれから同様な事が懸念され、それを防ぐ計らいなのかもしれません。
 狭い公園の道を進むと岩屋観音があります。駐車場から坂道を登ると、正面に岩山が見えます。左手に観音堂があり、更に奥には岩屋があり、石仏がお祀りされています。







更に奥には岩屋山の山頂に登れる参道があります。そのあたりの巨大な岩の塊りに中山さんは興味を示され、その巨岩に向かってあわ歌を響かせました。
 そこであわ歌を歌い終わって頂いたお言葉です。
「さんげ さんげ さんげ
 道開き、大いなる響きあり。
 その響きに乗り行きて、参られませ。
 あらゆる全ての思いは、共に一つと成し行きて、
 引き受けたり。参られよ。」9:07



 ありがたき始まりです。岩屋観音から次の目的地、牛川波の上稲荷への車中で以下のお言葉がありました。
「ことほぎ  ことほぎ うれしやな。
 ゆう  ゆう  ゆう の 大  大  大
 開きて、参りて、移り行く。
   ひとつと 成りて、遥かなるへ。
   サン  サン  サン の サンタリラ」9:24
 
 「ことほぎ」とは以下の様にあります。
「言寿ぎ・言祝ぎ・寿:言葉によって祝福すること。ことぶき。ことほがい。」
 兎にも角にも、嬉しきこと、ありがたきことです。

2017年7月19日水曜日

1005「鞍馬・三河7」2017,7,19

 河合神社を出て,更に糺の森に入ります。下鴨神社に向かう広い表参道には鬱蒼とした自然林が残されています。

糺の森は以下の様に記されています。

「賀茂川と高野川の合流地点に発達した原生林で、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積がある。森林の全域が1983年(昭和58年)に国の史跡]として指定を受け、保存されている。また、1994年(平成6年)には下鴨神社全域が世界遺産に登録されている。
 かつて京都に平安京が置かれた時代には約495万平方メートルの広さがあったが、応仁の乱など京都を舞台とする中世の戦乱や、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、現在の面積まで減少した。特に1470年(文明2年)6月14日に応仁の乱の兵火を被った糺の森は、このとき総面積の7割を焼失している。
 糺の森はこの一帯が山城国(山代国・山背国)と呼ばれていた頃の植物相をおおむね留めている原生林であり、ケヤキやエノキなどニレ科の落葉樹を中心に、約40種・4,700本の樹木が生育している。森は賀茂川と高野川に挟まれるように広がり、南北に細長い。林床を縫ってこれらの川に注ぐ数本の清流があり、周辺には水辺を好む植物も茂る。
 古くは『源氏物語』や『枕草子』に謳われ、今なお親林の場として人々に憩いを提供する史跡である。
 森を流れる小川は4つあり、それぞれ御手洗川・泉川・奈良の小川・瀬見の小川と名付けられている。御手洗川は湧水のある御手洗池を水源としている。糺の森の東側を流れる泉川は高野川の支流である。奈良の小川は御手洗川に泉川の流れの一部が合流したもので、賀茂川の支流である瀬見の小川に取り込まれて糺の森の中央を流れる。
「糺の森」の「ただす」が何に由来するのかという点については諸説ある。「偽りを糺す」の意とするほか、賀茂川と高野川の合流点であることに起因して「只洲」とする説、清水の湧き出ることから「直澄」、多多須玉依姫の神名に由来するという説などの各説がある。他に、木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)にある「元糺の池」、およびその周辺の「元糺の森」から遷された名前であるという意見もある。」

 下鴨神社への参道の右手の林の中に、かつての祭祀遺構が残されています。




その中で大文字焼きで有名な大文字山のひとつ、東山如意ヶ岳ある方角・東南東を向いて、あわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「 進め行くなり。
 この都が造り上げたる、大きなるを変え行く事。
 澄みたるこの地の美しきを、皆々知りて、
 思いを真のはるけきへと返し、
 新たなる世界を発します。
 八方へと広げるは、明日より致す。」17:06




 いよいよ明日から八方へ広げることになります。下鴨神社を参拝し、御手洗神社前にある御手洗池で足付け神事を行ないました。この足付け神事は、夏の土用の丑の日に行なわれるものですが、私はまだお酒が残っていて足がほてって冷やしたい一心でした。






 全ての予定の巡りを終えて、タクシーで京都駅に戻りました。予定の新幹線まで時間があり、皆さんであんみつ等頂き、心身満たされて、こだまで豊橋へ移動です。




 ホテルに8時半過ぎにチェックインしてシャワーでさっぱりして夕食に居酒屋さんへ繰り出して美味しい料理とお酒で目出度く楽しき1日を終えることが出来、深い眠りに就きました。



2017年7月18日火曜日

1004「鞍馬・三河6」2017,7,18

 出町柳駅から下鴨神社は歩いて直ぐです。下鴨神社の正式名称は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)です。神社の紹介は以下です。
「賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名。
 本殿には、右に賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、左に玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀るため「賀茂御祖神社」と呼ばれる。金鵄および八咫烏は賀茂建角身命の化身である。境内に糺の森(ただすのもり)、御手洗川、みたらし池がある。」

 下鴨神社の境内、糺の森に入って直ぐに河合神社があります。神社の紹介は以下の様にあります。
「下鴨神社の末社であり、ご祭神は「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」。初代の天皇とされる神武天皇の母にあたる神様だそうで、安産、育児、縁結び、そして女性が一層美しくなりたいという願いを叶えてくれる、いわば女性にとっての総合的な神様とされています。河合神社では「美人の神様」「美麗神」とも紹介されています。」


 そして河合神社は方丈記で知られる鴨長明ゆかりの神社でもあります。境内に鴨長明が住んだと言う復元した、方丈庵があります。
「鴨長明(1155~1216)は平安時代末期~鎌倉時代の随筆家。賀茂御祖神社の神官の家系である鴨氏の出身。長明の父鴨長継は河合社の禰宜から賀茂御祖神社の禰宜に進んだ人物でしたが、長明の幼少期に死別。長明もまた河合社の禰宜の座に就くことを望んだものの一族の反対で叶わず、神職の道を閉ざされ、50歳のときに出家して仏門に入りました。
 以降、大原や日野に住み、こちらのような一丈四方(方丈)の庵に住んだと言います。この方丈庵は解体して持ち運びが可能でした。
 鴨長明の随筆「方丈記」はこの方丈庵から名が取られています。他に歌論集の「無名抄」、説話集の「発心集」など。」



 その方丈庵の前で中山さんがお言葉を発しました。
「立ち昇り行くこの想い、受け取られ
 住家を作られよ。」

 この様な家に住みたいのでしょうか。方丈について以下のように記されています。
「方丈は、1丈四方の面積。「方」には四角形の意味があり、「丈」の長さをもつ「方」ということ。1丈は約1.67間(=10/6間)であるため、1方丈は四畳半程度の広さ。方丈は簡単に構築でき、また簡単に解体する事ができたため、僧侶や隠遁者に愛用される。
 また、『維摩経』に書かれているように、維摩詰の方丈を訪れた文殊菩薩とその一行が、その狭い空間に全員収容できたという逸話から、仏教においては方丈に全宇宙が内在しているという考え方がされ、そこから寺院の住職が生活する建物を、特に方丈と呼ぶようになった。室町時代中期以降は仏像や祖師像が安置されるようになり、本堂の役割を担う建物とされた。現在、日本の曹洞宗においては住職本人のことを方丈と呼ぶ慣わしがある。」


 暫し舞殿の縁側に座り方丈庵を眺めていた後に、地面の小砂石を集めて、なにやら絵を描き始めました。そこで描かれたものを後でノートに記しましたのが以下の様な絵と言葉です。
「サナト クマーラ  絵
 地は受けた、流すは八方揺らぎ行く。」




 サナト クマーラ、天が鞍馬山を通して地と柱となって繋がり、天からの受け流すことで八方が揺らぐということでしょうか。
 実は2017年5月29日に以下の絵が描かれていましたが感じが似ています。
「訪れ来たりたこの時に伝える。
 遥かな大き宮、新しきをここに生む。」


2017年7月17日月曜日

1003「鞍馬・三河5」2017,7,17

 奥の院 魔王殿では拝殿の中で、椅子に座ってあわ歌を響かせました。歌を歌っていると山鳩か雉でしょうか飛んできて石に立ち止り、次にもう1羽来て飛び立って行きました。
 歌の時に以下の絵を中山さんが書かれました。
  
 
 この絵は先のブログで紹介した絵と似ています。中心は鞍馬で天と地を繋ぐ柱があり、そこから地上に東西の軸です。東は那須なのでしょうか。
「なみ、なみ なる なり。
 ソンダロイ やって来る来る
 タイハル 飛んでくる」
 とありますが、言葉の意味は不明です。

 あわ歌を歌い終わってのお言葉です。
「大 大 大 ゆう ゆう ゆう ふる ふる ふる
 迫り来たりたこの日を境に、
 写し行く響きは、はたれ魔抱きて、
 うまし身の中より、発し行くは、
 ひとつとなりたる。
 その揺らぎ、篩いて全てを、あらあら変えて、
 新たな地といたす。
 サンスクリ サンサラリ ゆう ゆう ゆう」13:12
  

 拝殿の中では湿気が多く不快指数大で蚊も襲ってきます。Oさんは足を蛭に刺されて出血してしまいました。拝殿内で30分近くあわ歌を響かせていましたので、参拝の方が何人かお出でになりましたが、遠慮して頂き申し訳ありませんでした。
 皆さんで拝殿前で記念撮影です。


 後はひたすら貴船に向かって下山です。順調に進み、13時半には西口に下りることが出来ました。最後に私が鞍馬に訪れたのは2年程前ですが、貴船への道が整備されてかなり楽に下れました。
 丁度、雨も上がりました。貴船は鞍馬と違い沢山の観光客です。貴船神社奥宮への道を進み、程なく昼食会場に到着です。貴船の名物の川床料理を予約していたのですが、生憎の雨ですので川床では出来ないようで、室内の座敷に変更になりました。



 雨と汗で洋服はぐしゃぐしゃで、クーラーの効いた部屋は快適です。先ずはビールで乾杯して、豪華なランチが始まりました。料理の鮎の塩焼きはとても美味しくいただけ、全員がその味に大満足です。日本酒も頂き私はほろ酔い加減です。


 15時前に宿の車で叡山電鉄の貴船口まで送って頂きスムーズに電車に乗る事が出来ました。しかし私は電車の中で眠ってしまい出町柳終点でも暫し休息させて頂きました。私は本当に酒に弱くなりました。




 鞍馬では、中心を定め、今回の巡りの必須の役目を皆さんで果たせたことに先ずは感謝です。ありがとうございます。